つぶやき(2024)
未消化 (12/1/2024)
横田学説と言う未消化物に関する学説があります。
それは、疲れている時や加齢によって胃の消化が思わしくない時、肉類などのタンパク質が未消化のまま腸に入り込み、腸内で腐敗発行すると言うものです。
その結果、本来ならばタンパク質がアミノ酸などになり腸内で有益に吸収されるはずが、未消化物は猛毒のタンパク質系アミン類を発生し血液中に入り、心臓発作や脳溢血を誘発すると言うものです。
近年になって、胃や腸内の内視鏡検査が発達してきて、この横田学説を裏付ける報告がなされています。
ですから、疲労時や私の様な老人には焼肉のお供に消化酵素の胃腸薬が必需品だと言うことです。
で、話は変わって本年の12月で林先生から白朋舎を引き継いで13年となりました。
この13年間「白朋誌を読む会」に参加してくだっている方々がおられます。
まじめにペンを持ってメモを取り、帰ってから復習し、再度ペンを持ってノートにまとめておられる御様子です。
ただ残念ながら、このような学習方法では神秘学は学ぶことはできません。
なぜなら、消しゴムが無いからです。
ドリール先生は、瞑想と集中を教えています。
先ず、その対象物の様々な要素を拾い出せと言います。
一本の線が有ったなら、その線の太さや長さ色、そしてその線が描かれている背景などの種々の要素を一つ一つ拾い出せと、瞑想の仕方を教えています。
そして、瞑想が十二分にできたなら、その要素を一つ一つ消して行き、最後に残っているものを観ろと、高位の集中を教えています。
瞑想を通して得られた様々な要素とは、言い換えると三次元的な幻にすぎません。
その幻を消して行った時に得られたものが、真実なるものだと言っています。
それを得るための学びが、神秘学です。
ですから「白朋誌を読む会」で得られた情報を再度確認しながら、その情報を記憶して行くのではなしに、その情報を消し去って行った時にナニが残っているのかです。
つまり、消しゴムが必要なのです。
消しゴムが無ければ、いくら白朋誌と言う幻的な文字の集合体を読み漁っても、得られるものは文字と言う幻だけです。
その様な幻に執着すればするほど、神から離れて行くだけです。
それだから、釈尊もイエスも自身で書いた物は残してはいません。
空海が「理趣経の注釈書」を最澄に貸し出さなかった理由でもあります。
如何に、この世における秀才でも、消しゴムを持たない人には、密教や神秘学を消化吸収できはしないものです。
消化することができない時、神秘学の情報は、その人の内で腐敗し有害なものと成ってしまいます。
消化不良を起こした人々は、神から離れ地へと落ち暗黒の者達と成っていきます。
ですから、ドリール先生は「私が教える神秘形而上学は、万人向けでは無い」と言っているのです。
言い換えるなら、ドリール先生は「私が教える神秘形而上学は、真に神を求める者のためのものであり、神を使って物を求める学びでは無い」と言っているのです。
ですが、如何に多くの人々が物を求めるために神秘学を学んでいる事か。
その様な人々を観て、真我は消化不良を起こしている人達に苦難と言う胃腸薬を与えています。
ヨーガ・ヴァ―シシュタには「苦悩する心は、食べ物を毒に変え、病と死をもたらす」と記されています。
ドリール先生は「最終的に自分に瞑想し自分に集中しろ」と諭しています。
古き賢者は「汝自身を知れ」と諭しています。
自分を消しゴムで消して行った先には、ナニがあるのでしょうか?
祈りとは (11/1/2024)
人々は、神社仏閣に願い事をしに行きます。
そして、人々は神社仏閣に願い事をする事に何らの疑念をもってはいないものです。
今の自分が欲する物事を神に乞い願う事を、しごく当たり前の事と思っています。
人々は、神とは私達の願い事をきいてくれるくれる存在だと思っています。
ですが、その様な願い事は、宝くじを買う事同様に当りもせず、報われないものです。
なぜ、報われないのでしょうか。
その様な人々にイエスは「あなた方は、自分の楽しみのためにしようとの間違った思いで祈り願っている」と言っています。
「利己的な間違った考えで祈り願っているから、その願いは叶わない」とイエスは言っています。
ドリール先生も「祈りとは、乞い願う事では無い」とハッキリと言っています。
ドリール先生は「祈りとは、物質界の暗黒の中で生きている我々人間が、自分自身を光の無限界である聖なる界と同調する方法である」と言っています。
つまりは「神と同調する事が真の祈りであり、祈願したり嘆願する事は、祈りでは無い」と言っているのです。
言い換えるなら「神を知ろうともしない者には、祈る事はできない」と言う事です。
「あなたは、神を知ろうとどれ程の努力をしていますか」とドリール先生は尋ねられています。
祈りと言った時、人は自身に何かが欠乏している時に、その欠乏が満たされるようにと神に祈り願います。
その祈り願うものとは、自身や家族の健康であったり、お金であったり、周囲の環境であったりと様々でしょう。
その様な欠乏の状にある者が、満たされ無欠乏の状にある神と同調できると思いますか。
満たされた思いの中には、欠乏の状が入る余地はありません。
その様に神と同調し得ないから、いくら乞い願っても聞き入れられる事はありません。
もし、その様な欠乏の状にいる者の願いが叶ったなら、それは神の為したことでは無しに暗黒の者らが為した事です。
暗黒の者らは、神とは正反対の欠乏の状にいる者達だからです。
エメラルド・タブレットの中でアトランティスのトートは「暗黒は暗黒同胞らの旅する道なり、彼らは人間の夢を通して地球をあまねく旅しておれり」と言っています。
暗黒の者らも神と同様に、この物質界には直接顕現できません。
ですから、人が夢を観る中有(バルド)の中間状で欠乏の思いに強く駆られ自分らと同調に得る者達を捕まえ、その者を支配下に置きます。
そして、その者達の願いを叶えて行きます。
丁度、イエスが荒野をさ迷い、悪魔の誘惑に合った状です。
『荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。そこで悪魔が言った「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」イエスは答えられて言われた「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある。
それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々をみせて 言った「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」イエスは答えて言われた「主なるあなたの神を拝し、ただ神のみに仕えよ」と書いてある。それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろうとあり、 また、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らは手でささえるであろう。とも書いてあります」イエスは答えて言われた「主なるあなたの神を試みてはならない」と言われている』 (ルカ 4-2~12)
イエスの域にまで達していない私達では、すぐに悪魔の誘惑に屈し、悪魔の言うがままになってしまいます。
そして、悪魔の住する暗黒へと落ちて行きます。
簡単に暗黒に落ちてしまう私達と、イエスとの違いはナンでしょうか
それは、神を想っているか否かの違いです。
簡単に暗黒に落ちてしまう私達は、自分の乞い願う物事を請求書にして神へと差し出します。
ですが、イエスは神から請求書をもらおうとしています。
イエスは、神が自分にナニを欲しているかを考え、行動しています。
ですが、私達は神の欲するものに想いを馳せません。
私達は、神がこの地上にいる私達に願っている事、欲しているものを知ろうともしないものです。
言い換えるなら、Give & Takeです。
私達はGive & Takeでは無しにTake & Takeです。
与えようともせずに取ろうとすることだけを考えている者には、誰も何も与えはしないものです。
極めて当たり前のことです。
与えて欲しかったなら、初めに与えることです。
ナニを与えて善いか解らない時には「微笑んでいなさい」とドリール先生は言っています。
政治と書いてナンと読む (10/1/2024)
「政治」とはナニかと言った時、様々な定義がなされています。
ですが、神秘学的にはどうかを考えてみたいと思います。
まずは「政治」と言う漢字をみてみましょう。
「政」は、マツルと読みます。
「治」は、オサメルと読みます。
つまり、ナニかをマツリ、ナニかをオサメル事が政治となります。
このナニとは何なのか。
「ナニをマツルのか」と言った時、そのナニとは“神”です。
今でこそ神棚も無い家々が増えましたが、昔から家には神棚を置き、神を身近な存在として人々は祀っていたものです。
神をマツル事は、何も神秘学だからでは無しに、極々当たり前の事でした。
それが、いつの間にか忘れ去られてしまつています。
神棚が有っても、その家の人の中に神は存しているのでしょうか。
偉大なる師であるパラケルススは「あなたが神に住めば、神はその霊力であなたを護ってくれよう」と言っています。
ドリール先生も「神の力と神の現前とに瞑想すればするほど、あなたは素晴しい働きを為すに必要な知識が与えられる」と言っています。
『あなたは、神と共に「同行二人」で人生を歩んでいるか』と問われています。
ですから、次の「ナニをオサメル」のかと言った時、それは「自分」です。
「天下国家」を治める前に、先ずは「自分」を治める事が先決です。
言い換えるなら「神をまつり、自分を治めた者でなければ、天下国家は治める事はできない」と言えます。
何も、天下国家でなくても、家庭においても、神をまつり自分を治めていない者には何も治める事はできないものです。
その基本は「神に住む」です。
神に瞑想し、集中し、同調して行く事が肝要だとドリール先生は教えています。
後「自らを治る」とはどの様な事かは、自身でお考え下さい。 それが解らない限り、生まれ変わりを終わらせる事はできません
お盆 (9/1/2024)
お盆には、祖先の霊が子孫の下へ来て親戚一同で交流するのだそうです。
このお盆の由来は、盂蘭盆会(うらぼんえ)で、その語源はサンスクリット語のウランバーナだそうです。
このウランバーナは「逆さ吊り」の意味で、逆さ吊りに合っている者を救う事が本来の盂蘭盆会の意味だと言う事です。
問題は、この逆さ吊りに合っている者とは誰かです。
このウランバーナの大本の話では、この逆さ吊りに合っている者は餓鬼道に堕ちた母親だそうです。
例え話を聞いているとナニか他人事の様ですが、餓鬼道に堕ち逆さ吊りにされている母親とは、私達全員の象徴です。
「逆さ吊り」とは「顛倒」の意味です。
この世にあって物事を顛倒(逆さま)して見ている事が因となって、この世で苦しんでいる私達をウランバーナで救う事が、本来のウランバーナ、お盆です。
親戚一同で宴会している場合ではありません。
ですが、この様なお盆に対する間違った考えは、どこから生じたのでしょうか。
それは、人の生と死に対する考え方の間違いから生じています。
「人は、いつかは死にます」と言った時、どの様なとらえ方をしているのかと言う事が大変に重要となります。
全ての宗教の大本であるシャンバラでは、人は死ぬとその物質肉体は崩壊して行くが、人の実質であり肉体内に存する神につながる意識は、この物質界(マルキュト)を離れバルド界へと昇ると教えています。(伝導の書では「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」と言っています)
このバルド界は、物質界と四次元界との間にあります。
このバルド界は物質界と四次元界との中間にある事から、中有とか中陰とも呼ばれている世界です。
カバラでは、ビナーの五十門として教えられています。
日本の仏教でも中有や中陰を教えているます。
そして、歎異抄で親鸞は生まれ変わりを教えています。
一体、世の中にある墓の中には、ナニが入っているのでしょうか。
一体、仏壇の中で人々は何を祀っているのでしょうか。
人は死を通して人の本質である意識は、物質肉体の原型であるアストラル体が崩壊する三日間をバルドで過ごすと、古代智慧では教えています。
その三日の間に人生で行ってきた事を、復習すると言われています。
ただ、三日と言ってもバルド界には時間も空間もありませんから、物質界の三日ではありません。
時間も無い世界ですから、言うならば無限時間の世界です。
この三日間は、旧約聖書・ヨナ書でヨナが大魚の腹の中(バルド)で過ごした期間です。
イエスもマタイ12-40で「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう」と言っています。
この三日三晩がすぎた時、どうなるのか。
そこには、二つの道があります。
一つの道は、新たなアストラル体が与えられて再び物質界に戻り、新たな人生を歩み始める道です。
また、もう一つの道は真の自分自身を知り霊界へと引き上げられる道です。
その違いはナニかと言うと、本当の自分に目覚めたかどうかです。
自分の本質に目覚め、神に目覚めたかどうかです。
神と同調し得たかどうかです。
物事を逆さまに見る事しかできない者には、神と同調し得ません。
自分自身を含め全てを正しく観る事ができるかどうかです。
言い換えるなら、人生とは学校であり、バルドとは試験会場の様なものです。
試験に落第したら、もう一度人生と言う学校で学んで行かなければなりません。
私達は、今迄にどれほど落第を繰り返してきた事か。
今度こそは、と思ってはいるのですが。
オマケ
今の日本の法律では、死後24時間を経なければ火葬できません。
ですが、人のアストラル体は72時間しなければ無くなりません。
アストラル体が残っている間は、銀線(シルバー・コード)で物質肉体とアストラル体はつながっています。
銀線でつながっている時に、その肉体に危害を加えると意識が戻って来る事があります。
生き返りです。
火葬場で焼かれながら生き返ったなんて、洒落にもなりません。
くれぐれも、死体は粗末に扱わない様に遺言しておいてください。
逆に、死後72時間は銀線でつながっていますから、耳元で語りかけると死んでいても伝わります。
できたら、死んだ人を想って語りかけて上げてください。
語りかけると言っても、罵詈雑言や未練を残す様な事では無しに、独りでバルドの道を歩んで行く人に安心を与えてください。
何と言っても、人生で何の予習もせずにバルドに旅立ち、気付いた時に死んだ事も分からずに独りいる事は恐怖です。
参考に「チベット死者の書(バルド・ソドル)」を読まれておくと良いと思います。
身心脱落 (8/1/2024)
若きドリール先生がチベットの僧院へ行った時の話です。
その僧院の僧院長は、ドリール先生達に僧院を増築するための石材を切り出し、積み上げる作業を命じました。
ドリール先生達は、大きなハンマーとタガネで岩に切れ目を付け、水を入れて夜間の寒さで水を凍らせ膨張させて岩を割り、運び、積み上げたそうです。
その過酷な作業をしているなか、或る瞬間に自分の意識が肉体を離れ、自分の肉体を自分が観ているのだそうです(身心脱落)。
そして、自分の身体の感覚が無くなり、それまでの苦痛も感じなくなったそうです。
その様な時に僧院長が「皆は、今週も十二分に働いたと思っていようか」と尋ねたそうです。
これに対して、ドリール先生は「いえ。私は全く働いてはいません」と答えたそうです。
その答えに、僧院長は「あなたが働かなかったなら、誰がこの岩を切ったのか」と訊ねてきました。
ドリール先生は「私の肉体がした事を、私は知りません。私は、ただ瞑想していただけです。私は、肉体の認識を無くしていました。私は僧院長が岩を切って積み上げる様に言った事は覚えています。ですが、その様に言われた時、私はその命令を自分の低級本性に与えました。
そして、私はその作業を為す事から引き下がりました」と答えたそうです。
このドリール先生の体験を、あなたはどの様に思われますか。
私も、それ程多くはありませんが数回経験をしました。
私の初めての経験は、今から60年ほど前の高校の時です。
秋のマラソン大会の練習で体育の時間にマラソンの練習をしていた時です。
大会と同じコースで練習していましたが、折り返し地点を過ぎた頃、ス~と自分が身体から離れ、走っているもう一人の自分を観じていました。
その時、今までの苦しさなど体の感覚はナニも感じ無くなっていました。
なんの苦も無しに軽やかに走る事ができたのを、今も覚えています。
本当にリラックスした状態でした。
ただ、私の場合、その後がダメでした。
ドリール先生方の内、その様な経験をした人々は僧院に残されましたが、肉体を離れる事ができず、最後まで自分で働いていた人々は、大衆の中で今まで以上に多くを学び、自分自身から世間と肉体とを消すまで働く様にと言われ、僧院から帰されたそうです(雲水)。
そして、身心脱落を経験したドリール先生方は、個室と薄い敷物と衣服が与えられ、しばらくの間、宗院長から何も言われないままに個室で過ごしたそうです。
ただ、その間にドリール先生方は瞑想し(只管打坐)、次第に自分で自分の意識を肉体から離す事ができる様に成ったそうです。
それを観じた宗院長は皆を集め「私は今、教える準備ができた」と言って話を始められたそうです。
その時の経験から、ドリール先生は「真の学びは、アストラル界へ行かなければできない」と言っていました。
私も、60年前に瞑想を知っていたならと悔やみながら、今を見詰めています。
ただ、この話の中で重要な事は「ココロ」とはナンだろうかと言う事です。
大きなハンマーを一日中振り下ろし手が腫れあがり足腰も痛んでいると言った時、その腫れや痛みを感じているココロとはナンだろうか、と言う事です。
意識が身体から離れた瞬間から、意識はその痛みを感じなくなると共に身体は何事も無かった様に動きだします。
まさに、身体が意識のただの道具と成ったかの様なリラックスした状態です。
言い換えるなら、意識が自分の身体にくびき(ヨーガの原意)を付けた様な状態です。
意識が身体を離れて初めてイエスが「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言った意味が実感し得ます。(マタイ11-29~30)
意識が、自分の肉体から離れて自分の肉体を観た時には、今までの感覚が一変します。
本当に身体が発する欲とか煩悩とか言ったもの全てが無くなります。
感じなくなります。
本当に、身体が軽く成ります。
本当の自由が体感できます。
本当に、イエスが為している様に自身の意識を身体から離し、身体にくびき(首輪)をかけて身体を意識の道具の様にして使えたなら、肉体が発する煩悩にも煩わされる事も無しに人生の輪を完結しえます。
その為には、道元やドリール先生が言われている様に、ひたすら瞑想する事だけです。
書物を読むなどは、謎解きができない者には毒となるだけです。 イエスは「文字は殺す。霊は生かす」と言っています。
自由 (7/1/2024)
最近、自由の権利を主張する人々がいます。
ただ、見ていると、その様な人達は周囲の人々の自由は考えずに、自分の自由の権利だけを主張している様に思えます。
ところで“自由”とはナンでしょうか。
哲学的には、自由とはネガテブ的な「他からの強制や束縛や妨害を受けない事」やポジテブ的な「自(みずか)ら自身の本性に従う事」と言われています。
ただ、多くの人々は、ネガテブ的な「他からの強制や束縛や妨害を受けない」と言う事を、自由だと思っている様です。
つまり人々は、自分の心のままに生きる事を自由だと思っている様です。
ですが、本当の自由とは、ポジテブ的な「自ら自身の本性に従う事」です。
ここで、ネガテブ的とポジテブ的と言う語を使いました。
これは、不調和的と調和的と解釈して頂ければと思います。
つまり、神と不調和か調和かです。
言い換えると、自分の本性を自覚しているかどうかです。
その自覚が無い人は、ネガテブ的な自由を自由と思っています。
自分の本性を自覚している人は、ポジテブ的な自由を自由と思っています。
「自由」と言う文字は、「自らによる」と読みます。
そして「自分」と言う語があります。
この「自分」とは「自らを分けた存在」と言う事です。
つまり、私達人間とは、神自身が自身を分けた存在だと言う意味です。
「神の分光」や「一霊四魂」と言っている所以です。
その様な自身の本性に気付いているかどうかによって「自由」の受け止め方が異なってきます。
古代智慧では、私達人間には肉に付着する心とは別に、神につながる意識が有ると教えています。
ただ、その神につながる意識は、簡単には見つけ出せない様になっています。
それは、肉に付随する心が発する煩悩が、神と神につながる意識とをベールで包み込み隠しているからです。
それと、神は人間の言葉など有限な三次元的な言葉などでは表せない事も一因と成っています。
ですから、古来から賢者達は神を言葉だけでは無しに象徴で伝えようとしてきています。
十字や五芒星や六芒星、そして賢者のことばやたとえなどです。
ただ、旧約聖書・箴言・第一章には「これは箴言(しんげん)と、たとえと、智慧ある者の言葉と、そのなぞとを理解するためのものである」と記されている様に、箴言やたとえや智慧ある人の言葉を、人間の言葉そのままに受け止めるのでは無しに、その言葉の謎を解き明かさねばならないものです。
それ故に、ドリール先生は「形而上学とは、真理を顕す象徴の学びである」と教えています。
つまり、白朋誌でのドリール先生の言葉も言葉のままに読むのでは無しに、そのドリール先生の言葉の奥底に潜んでいるものに光を当て、その潜んでいるものが自身の意識の中で輝く様にしなくてはならないと、ドリール先生は諭しています。
神秘学や形而上学とは、謎解きです。
少し辛口の言葉になりますが、良く「白朋誌やドリール先生の著書で救われた」と言われる方々がいます。
「救われた」と言った時、それはご自身の人生の輪における問題解決に役立ったと言う事の様です。
この様な事は、形而上学を学ぶ者としてはせいぜい30点です。
形而上学とは、神を求める学びです。
人生の輪における執着を捨て、神の方を向く為の学びが形而上学であり神秘学です。
その様な学びを自身の人生の輪の出来事に応用し得たと言って喜んでいては、人生の輪への執着と不自由が増すばかりです。
神秘形而上学を学ぶ者としては、たとえ人生における諸問題が解決できても、それに満足しているだけでは不自由なままです。
その向こう側を、のぞけるかどうかです。
その向こう側をのぞき、自由を垣間見る事ができるかどうかです。
その向こう側に、真の自由があります。
人は、幻的な物質世界から抜け出して、初めて自由を知る事ができます。
常に、想念の川の岸に立ち、ながめ、来るがまま、去るがままにする事が肝要と心得ます。
いたずらに人生の出来事に執着し囚われている状は、想念の川にどっぷりと浸かっている状です。
想念の川を流れ来る想念を考えもせずにつかみ取り、苦しんでいる状が私達の現状です。
その苦しみを克服しても、次に流れ来る想念をまたつかみ取り、果てしない苦しみの中をバルドの輪へと流れ下って行きます。
その様な不自由なままでは、人生の輪からもバルドの輪からも解脱できないものです。
それもこれも、謎解きをしないが故です。
一つの苦しみを克服した時、それに満足せずに、その問題を思考し、その問題の意味を解き明かして行かない限り、岸には立てないものです。
白朋誌も、そこに記されている文字を象徴として、その象徴の意味を読み解いてこそ初めてドリール先生の言われている事を理解し自由を得る事ができるものです。
白朋誌を含め様々な神秘学や形而上学の書籍は、そこに潜んでいる神を見出し、自由に成るためのものです。
自由とは、自身でつかみ取るものです。
メッセンジャー (6/1/2024)
ドリール先生は「私は常に人々が私に従うのでは無く、私が教えた真理に従う事を望んでいる。私は、単に真理を言い表す声である」と言います。
ドリール先生は世間一般を見回した時、あまりにも多くの人々が教祖や宗祖などと言われる人々の言葉を、その言葉のままに聞き、受け入れている事から、その過ちを諭しています。
神は、この不調和で不秩序な物質界には、顕現し得ません。
ですから、神はこの不調和で不秩序な物質界でも顕現し得る人間を創りました。
神は、私達人間には、直接見えも聞こえもしない存在です。
ですが、物質界を離れ、神を観、神の声を聴く事ができる人々がいます。
ドリール先生を含めたその様な方々は、自分が霊界で得た情報を人々に伝えようとします。
ただ、その様な方々が神の言葉を人間の言葉に置き換えようとした時、いびつな人間の言葉では神の言葉を正確に表現できないものです。
ですから、方々はたとえと象徴で自身が得たものを人々に伝えようとします。
ですが、ナニも解らない人々には、たとえも象徴も理解できないものです。
人々は、自分が多少理解し得る人間の言葉を有難くいただいているだけです。
ですから、ドリール先生は「私は常に人々が私と私の言葉に従うのでは無く、私が教えた言葉の中に潜む真理に従へ」と諭されています。
旧約聖書・箴言・第一章に「箴言と、たとえと、賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る」とあります。
箴言(格言)やたとえや賢い人の言葉には、神が宿っています。
「その宿っている神を見出せ」と賢者達は言っています。
ですが、人々は釈尊やイエスやモハメッドやドリール先生を含めた多くの賢者達の語った言葉を、その文字のままに受け止めるだけです。
その文字の中に潜んでいる真理を、読み解こうとはしないものです。
なぜ、読み解こうとはしないのか。
それは、真に神を求めてはいないからだと思います。
その様な人は、見えも聞こえもしない神の事よりも、目にも見え耳のも聞こえる自分の人生の事だけを求めているだと思います。
つまりは、困っていると言いながら、実際は今の人生を受け入れているのだと思います。
藁にもすがる思いで真剣に神を求めるなどと言う事が、サラサラ無いのだと思います。
と言うよりも、生まれてこの方「神」を正しく教わった事が無いのだと思います。
ですから、ナニか少しばかりの物事が人生に起きた時には、外を向き占いや似非宗教に救いを求めて行くのでしょう。
本当の神や神の求め方を知らずに人生を死人の様に過ごしている様を見て、イエスは「死人は死人に葬らせよ」と言っています。
人間と生れて、真に人間として生き、少しでも神に近づきたいと思います。
最後にナゾ解きの話です。
ドリール先生が初めてチベットの僧院に行かれた時、みすぼらしく薄汚れた毛皮をまとったドリール先生方の師が山から下りて来られたそうです。
そして、開口一番「あなた方は、今、わたしのナニをみている」と訊ねられたそうです。
ドリール先生の名も無き師は、ナニを言いたかったのか解りますか。
お考え下さい。
意識(魂)の貧富 (5/1/2024)
釈尊は、新参者が自身の真我を見出さんとするには「愛」と「慈悲」と「喜び」と「不浄」と「静穏」の五つについて瞑想をしなければならないと教えました。
なぜでしょうか。
イエスも「まず、天の国と天の義を求めよ」と同じ意味の事を言っています。
この釈尊とイエスの言わんとしている事が解りますか。
つまり、釈尊もイエスも私達の根本的な間違いを諭しています。
釈尊は『私達が思い考えている「愛・慈悲・喜び・不浄・静穏」は間違っているから瞑想し思考して、今一度考えなおせ』と言っています。
イエスも私達が考え思っている「天の国の状と天なる真の正しき義は、間違っている。今一度思考し、真の天の国と天の義を求めよ」と言っています。
言い換えるなら「あなた方は、地に縛られ過ぎて、天の状を知らなすぎる」と釈尊とイエスは言っています。
つまり、私達は本当の「愛・慈悲・喜び・不浄・静穏」そして「天なる国の状と天なる正しき義」を知らないのです。
私達は、肉につながる感情を通して物事を見ています。
釈尊やイエスの様に、感情では無しに理性で物事を観る事が、私達にはできません。
例えば「汝の敵を愛せよ」と言った時、人は自分の敵のナニを見ているのかです。
釈尊も「瞑想する者は例え相手が自分の敵であろうとも、その者の幸福と善とも希求し愛で満たすべきである」と教えています。
私達は自分の敵と言った時、肉を持ち感情を持った目に見える敵の姿を思い浮かべるものです。
ですが釈尊やイエスは、その敵の内に存しているその人の意識(魂)と真我を観ています。
ですから、釈尊は真の慈悲とは「困苦にさいなまれている全ての人々の事を考え、自身の内に彼らの悲しみや難儀や心配を生き生きと発現し、彼らの魂への同情を奮い起こし、聖特性が彼らに顕れる様にと願わねばならない」と言っています。
「彼らの意識(魂)への同情を奮い起こし、聖特性が彼らに顕れる様にと願わねばならない」なのです。
単に相手の肉に対して同情する事は、真の同情や慈悲では無いのです。
言い換えるなら、釈尊やイエスは、自分の真我としっかりとつながる事ができずに苦労している人々を同情しています。
では、その様な自分の真我としっかりとつながっていない人々はどうしたら良いのかと言った時、そこにある解決方法が「瞑想」です。
ただ「瞑想」と言った時、人は自分でその問題を解こうとするものです。
ですが、その様な「自力」は誤った考えです。
真の瞑想とは、真の自分である真我とつながり「他力」を与えてもらう事です。
ですから、旧約聖書・箴言・第三章で「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ」と、人の自力と言う過ちを諭しています。
またヨーガの根本経典ヨーガ・スートラでは「ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである。心のはたらきが止滅された時には、純粋観照者たる真我は自己本来の態にとどまることになる」と人の肉につながる心と感情と自力の考えを止滅させ、真我との関係を本来の状に戻し、真我の他力をいただけと教えています。
人が自身の外では無しに内へと入り、心のはたらきを止滅し、自身の意識(魂)を知る事が大切だと多くの賢者達が教えています。
世の中には、感情豊かな人がいます。
そして、その様な感情が豊かな事は善き事と思われています。
ですが、本当でしょうか。
また、世の中では意識が豊で魂が豊かな人の事は考えもしてはいません。
感情が豊でも意識が貧弱では、真我も神も喜びません。
意識が、魂が豊かな人を神や真我は喜びます。
意識が、魂が豊かな人は、心や感情をこの世を生きるための道具として使ってゆきます。
意識が、魂が豊かな人は、心や感情に執着し束縛されはしません。
人が執着し束縛されねばならないものは「神」のみです。
感情の豊かさよりも、意識の豊かさを求める者になりたいものです。
肉体を捨てるとは? (4/1/2024)
『「人は肉体を捨てる事で、清明光を通して全てを観る事ができる」と言った時、人々は肉体を捨てる事とは四次元投射の事だと勘違いしている』とドリール先生は言います。
「肉体を捨てる」とは「自身の肉体や物的な心にしがみ付いている執着を捨て、肉体の束縛を超越するまでにとなる事」だとドリール先生は教えています。
「肉体を捨てる」とは、死ぬ事とは全く違います。
人は人生において問題を抱えた時、人はその問題と立ち向かうのでは無しに、その問題から逃げようとするものです。
そして、その様な人の中には、神秘学に答えを得ようとして神秘学の門をくぐろうとする人もいます。
その様な人が神秘学をかじり、四次元投射(幽体離脱)を知り四次元投射する事で問題を解決しようとするものです。
ですが、たとえ肉体から離脱し得ても、その様な人はバルドの世界をさ迷うだけです。
なぜなら、霊界を守護している者達にはね返されて霊界(四次元界)へは入る事ができないからです。
聖なる霊と同調し得ない限りは、霊界へは入る事はできません。
そもそも、その様な人は「人が物質肉体を持つ意義と意味」を認識してはいません。
人にとって自身の物質肉体を持つ意義と意味を知る事が、人の取っては一番大切な事です。
その事わきまえもせず働きの無い者には、何も与えられないものです。
何も得られない事から、その様な人は自身の内では無しに、自身の外へと向かいます。
自分の外に答えを得ようと、偽りの神頼みや心霊や催眠や占いなどに頼ろうとするものです。
人の内には、神へとつながる清明なる道があります。
ですが、人の外には暗黒へと落ち込む道があるのみです。
そもそも、その様な人は真の光を観じた事が無い事から、黒光も光と思い込んでしまうものです。
光と言うよりも衝動とも言うべき清明光(清浄光・クリアライト)、その光を観じた時から真の神秘学は始まるものと考えています。
ですが「なぜ人は清明光を観る事ができないのか」と考えた時、そこに人が犯しやすい過ちがあるとドリール先生は言っています。
その過ちとは「意(こころ)が、純である」と言った時の「純」に対する理解の程度です。
人は「純である」と言った時「人は、常に善想念のみを持っていなければならない」と考えてしまいます。
ですが、ドリール先生は「この様な考えは過ちである」と教えます。
「意(こころ)が、純である」とは「善と言われる事を含め如何なる概念にも囚われない事だ」とドリール先生は言われます。
この物質界には、真の清明光も無いと同様に真の善も真の悪もありません。
「歪で不完全な、この世の幻的な状に気付け」と、多くの賢者達は教えています。
イエスは「幼子の様になれ」と言いました。
方々が言われる意味が、本当に解るかどうかです。
この様な事が解らない時、肉体につらなる心と、神につながる意識の区別ができないのだと思います。
ドリール先生が言われる「感情と理性の違い」です。
感情を殺すのでは無しに、感情を道具として使う事ができるかどうかです。
そうする事が、物質界の支配と克服となります。
自身の肉体と心を、神の為の働きを為す道具として使いこなせるかどうかです。
それができた時、その時その人は肉体を捨てる事ができた時となります。
アトランティスの栄光と衰退 (3/1/2024)
五万年程前に大西洋に沈んだと言われているアトランティス。
なぜ、沈んだかを考えた時、そこには二極の法則が存在している事を知ります。
悪しき者らの攻撃からゴビの地を逃れてアトランティスの島々へと逃れた善なるシャンバラの人々。
そのアトランティスの地には、善きヘブライの人々と共に悪しき蛇族の者らがいました。
ゴビの地から来た人々は、蛇族と戦い多くを排除しましたが、少数の蛇族はアトランティスの地に隠れ住んでしまいました。
この残った蛇族も、後のアトランティスの衰退の一因と成っていきました。
アトランティスの人々が戦ったと言いましたが、今日の私達と違う事が一つあります。
それは「アトランティスの人々は、決して自分自身の内では戦う事が無かった」と言う事です。
人間において、自分の外と自分の内には大きな違いがあります。
アトランティスの地を征服した人々は、北極そしてゴビの地で培ってきた理想、哲学、神への探究を、政治を含めた全ての物事よりも優先させると言う方針に従ってウンダルの島を哲学と宗教の為に整備し、アトランティスの中心としました。
そして、残りの九つの島々全てにアトランティスの政治形態を確立して行きました。
そのアトランティスの人々が、古くから学んできた基本的原理があります。
それは、「大本にある一なる無限意識が無ければ何ものも存し得ず、その無限意識は自身の写しを人間界に持っている」と言うものです。
つまりは「神が全てであり、神が全てを創造した。そして、我々も神の創造物であり、神と共に我々は存している」と言うものです。
その様なアトランティスの人々が、常に考えている事は「物質肉体を持つ意義と意味」だけでした。
この様にして真の神と共に歩み進歩した意識を持ったアトランティスの人々には、智慧と知識が与えられ、繁栄して行きました。
その繁栄の陰で、アトランティスの衰退の因が創り出されていました。
太極図で「陽極まりて陰と成る」と言われている状です。
それは、高き意識を持った人々が次第に地球を去って、より高位に惑星へと向かって行った事です。
そして、高き意識の人々が去った後に、低位の惑星から低い意識の者達がアトランティスにやって来ました。
これは、アトランティスに限らず、全ての文明が発達した国々で見られる衰退の原因です。
ギリシャやローマなどの歴史を見ると良くわかります。
その様な意識の低下したアトランティスの状況下において、アトランティスの一般大衆は物的な物事に目を奪われ、神を見失い、その結果として様々な物事を誘発して行きました。
先に、二極の法則と言いましたが、この世にはポジテブが存した時、ネガテブも共に存します。
ポジテブ(霊的)なアトランティスが生じた時に、ネガテブ(物的)なレムリアも生じてきた事は、聖法則上至極当然な事です。
それが、物質界における法則です。
そして、アトランティスとレムリアの戦いが起こりました。
この戦いにおける政情不安に乗じて、邪悪な蛇族が密やかにアトランティスの人々の中に入りこみ、政治上の重要な地位を得るまでに成って行きました。
その結果、アトランティスの栄光が廃れて行きます。
また、レムリアとの戦いにおいて捕虜となったレムリア人達が多数、アトランティスの地に住むようになりました。
そして、アトランティスの荒廃に拍車をかける事となりました。
ただ、その様な状況においてもウンダルの宗教と哲学を守護する人々は高貴を損なう事なしに存していました。
そして、最終的に地球を守護する方々はレムリアとアトランティスの人々の余りにもバランスを欠いた有り様を正す為に、先ずレムリアを沈め、次いでアトランティスを水没させました。
その時、レムリアに残された人々は地球内部交錯界へと逃れて行きました。
また、アトランティスのウンダルにいた人々は、ホーレット師の指示の下に南アメリカやイギリスを含めたヨーロッパ、中東へと世界各地へ散って行きました。
そして、最後にホーレット師らはチベットへと向かわれました。
それが、今日のシャンバラの始りです。
つまり、今日の宗教の基礎をホーレット師らが、つくり出したわけです。
世界の宗教は同根なのです。
そして、神も一なる神が存するのみです。
アトランティスの衰退と沈没が無ければ、今の世界に存在する宗教は存在してはいませんでした。
今日のユダヤ教とイスラム教は共に、中東へと逃れたトートら一団がアブラハムらに教えたカバラなどを基礎としています。
そして、インド・チベットのバラモンとそれから派生したヨーガやヒンズー教や仏教などは、チベットの地に退いたホーレット師らシャンバラの方々の教えから発しています。
また、世界各地に残されている同じ様な神話もアトランティスの記憶の産物です。
世界に散ったアトランティスの人々は、その地の人々に見合った教え方で同じ内容を教えたのでした。
今から80年ほど前にドリール先生は、この様なアトランティスの状と世界のあり様を観た時、私達に警鐘を発しています。
それは、今日の世界のあり様がアトランティス沈没時と似ている事です。
世界の人々の余りにも神をないがしろにした状況を観て、ドリール先生は警鐘を鳴らしておられます。
どうか、あなたの内に存する神や真我と戦う事が無きように願います。
旧約聖書と新約聖書 (2/1/2024)
旧約聖書・伝導の書・3に『わたしはまた、人の子らについて心に言った「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。 人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空(聖なるイキ・アレフ)だからである。 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを』とあります。
コヘレトは「偽善者らは、人の子の顔をしているが、獣だ」と言います。
カバラでは「人間とは、獣の様な物質肉体に宿っている神直結の霊である」と教えています。
ですが、コヘレトは「人は、その事に気付いてはおらず、獣となんら変わりが無い生き方をしている。人は獣の様に生き、そして人は獣の様に死んでゆく」と嘆いています。
その様に、神をないがしろにして獣の様に生きている偽善者らを真の神に目覚めさせ様として、神はモーセに十戒を授けました。
獣の様な人の子らが、自身の内に宿る霊(魂)に目覚めさせる為です。
モーセが授かった十の戒律とは、次です。
1)わたしのほかに神があってはならない。
2)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3)主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4)あなたの父母を敬え。
5)殺してはならない。
6)姦淫してはならない。
7)盗んではならない。
8)隣人に関して偽証してはならない。
9)隣人の妻を欲してはならない。
10)隣人の財産を欲してはならない。
つまり、神をないがしろにして獣の様に生きている人の子らは、自分勝手な神を持ち、神の名を好き勝手に唱え、七日に一度の安息日にも神を向かず、父母を侮り、殺しや姦淫や盗みをし、嘘をつき、隣人の妻や財産を欲していると、神は嘆きます。
その様にして諭そうとしても覚らない人々には、神は更なる災いをゼブラーを通して与えて行きます。
その様な中で神は人の子らを観て、人の子らの中にも正しき義を行える子らがいる事を知ります。
正しき義を行える子らがいる事を知った神は、その様な人々を導く為にイエスを偽りの神々がいる中へと降臨させました。
そして、イエスは偽善者らから悪人と罵られている人々に教えを説きます。
イエスは答えられた、『第一のいましめはこれである「イスラエルよ、聞け、主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」第二はこれである、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」これより大事ないましめは、ほかにない』 (マルコ 12-29~31)
これが、獣の如くに生き死んでゆく人の子らと神との旧き契約に代わる、新しい契約です。
この新しい神との契約は、正しき義を行える子らとの契約です。
この新しい神との契約は、獣の如くに生き死んでゆく人の子らは、結ぶ事ができない契約です。
なぜなら、獣の如くに生き死んでゆく人の子らは、霊とまこととを以って礼拝し得ないからです。 (ヨハネ 4-22~24)
霊とまこととを以って礼拝し得る悪人と罵られる人の子達。
偽りの神を何も知らないままに拝んでいる偽善者たる人の子ら。
いつの世でも、偽りの神を何も知らないままに拝んでいる偽善者たる人の子らの如何に多い事か。
その様な人の子らの想念が、地球を覆い、その想念が形を取って現れています。
人の子らは、この世の状を見ても変えようとも思わないのでしょうか。
自分に、その様な状が現れてからでは遅いのですが・・・
『あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい(ゼブラー)。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである』
(ヨハネ 8-15~16)
生まれ変わりと因果 (1/1/2024)
ドリール先生は『私は、人々に「輪廻(生まれ変わり)を、信じていますか」とは尋ねはしない。私は、人々に「輪廻の法則を通して人生の諸状況を考えていますか」と尋ねる』と言います。
ですが、ドリール先生が本当に言いたい事は『私は、人々に「輪廻と因果を信じていますか」とは尋ねはしない。私は、人々に「輪廻の法則と因果の法則を通して人生の諸状況を考えていますか」と尋ねる』だと思います。
私達の今の人生は、たった一回限りの人生ではありません。
私達は、果てしない生と死とを繰り返す輪廻を幾万回も繰り返してきました。
ただ、新たな肉体へと生まれ変わる時に過去の記憶を消されて生まれ変わる事から、人々は輪廻を真に受け止める事ができずにいます。
その様な人々を見た時、心ある方々は、私達に輪廻と因果を教えてきました。
釈尊は、この世の状を「一切皆苦」と言いました。
釈尊を含めた多くの方々は、人々に「いつまでも苦の中にいる事は無い」と諭しています。
そして、その苦しい人生を何回も繰り返す事を止める為の解決方法として、智慧ある方々は因果の法則を教えてきました。
ここまで言うと「輪廻も因果も知っている」と言うかもしれません。
ですが、因果則を使い輪廻の輪を断ち切る事ができないから、私達は今ここにいます。
今の私達は、輪廻も因果も他人事の様にして、心底から知ろうとはしてはいません。
ですから、私達は輪廻の輪を断ち切る事ができずに、生まれ変わりを繰り返しています。
なぜ、輪廻を断ち切れないのでしょうか。
一番の問題は、因果則においてナニが善因で、ナニが悪因かを知らないからです。
今の私達は、善因を撒く事ができないから、輪廻の輪を断ち切る事ができずにいるのです。
そのヒントが「ルカによる福音書15章」にあります。
少し長いのですが、読んでみましょう。
[ルカによる福音書 15章]
さて、収税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
そこでイエスは彼らに、この譬をお話になった「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜しに歩かないであろうか。 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めが必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」
また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。 そして見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」
また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たした。 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。 そこで彼は本心に立ちかえって言った『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません』しかし父は僕たちに言いつけた『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』それから祝宴がはじまった。ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、 兄は父にむかって言った、『わたしは何年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」
このルカによる福音書15章で、イエスが言わんとしている事が解りますか。
イエスは、私達の様を観ています。
そして、自身の外なる一切皆苦である物質界に囚われ、死んだ様に人生を歩んでいる私達が、自身の置かれている苦の状に苛まれ、自分の無力さに打ち負かされた時、人はどの様な行動を取るのでしょうか。
豚のエサまで食べようとするまでに落ちた時、人の取る行動には三種類あります。
その一つは、自分の今の状に怯えすくみ、何もできずにいる事です。
何もせず、立ちすくんでいるだけですから、何も変わり様はありません。
今一つは、自身の外に助けを求める事です。
外に助けを求める人々は、神社仏閣や占いや心霊にすがるものです。
ですが、その様な弱き人々も、真に本心に立ち還っているとは到底言えません。
ですから、その様な弱き人々も救われる事はありません。
もう一つは、自身の内に助けを求める事です。
内を向き、自身を真摯に見詰め、真に本当の自分に気付き、真の自分に助けを求める事です。
その様な時、真の自分が助けてくれるものです。
それが他力の力です。
親の子に対する思いとも言えるものです。
その親の思いを知り、内なる親の方を向き、親と一体となる事が、善の善です。
それが、善因となります。
善因を撒く事から、善果が与えられます。
それが、法則です。
そう言うと「私は、いつも神の方を向いて拝み祈っている」と言うかもしれません。
ですが、思いの深さ、真剣さは、どん底を味わった者と、一見平穏そうに過ごしている者とでは、雲泥の差があります。
イエスは、勤勉な兄と放蕩者の弟で、その違いを言っています。
イエスは皮肉を込めて、パリサイ人や律法学者たち善人を勤勉な兄とし、収税人や罪人たち穢れた者たち悪人を弟として語っています。
自身の罪に目覚め、自分の悪に真に気付いた人は、自分を「私は悪人だ」と言います。
そして、自分の悪に気付く事が無い人は「自分は善人だ」と言います。
イエスは『なぜ、兄弟の目の前にあるちりを見ながら、自分の目の前にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりをとりのけることができるだろう』とマタイ7で言っています。
イエスは「私は善人だ」と言っている人々は「偽善者だ」と言っています。
イエスは、兄やパリサイ人や律法学者たちを含めた私達を偽善者だと言っています。
イエスは、その様な偽善者達は狭き門をくぐる事はできないと言います。
悪者は、何事にも自分が悪者になって相手を観るものです。
悪者は、自分に非があると言う点に立って物事を考えます。
ですが、偽善者は自分を善人として相手の悪を見出そうとするものです。
偽善者は、相手に非があるはずだと言う観点に立って相手を見ます。
ですから、私達偽善者は、いつまで経っても自身が犯した罪を認め事ができずにいます。
私達偽善者は、いつまで経っても神と向き合う事ができず、アダムとイヴが犯したと言われる原罪(天の国からの失落)を克服する事はできないものです。
偽善者は、いつまで経っても輪廻の輪を断ち切る事ができないものです。
人は悪人となって、初めて自身の犯した過ちに気付き、自身の本当の自分に気付き、初めて神と向き合って「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」と言えるものです。
そうする事が、善因を積む始りとなります。
昔、日本にも一人の悪人が誕生しました。
それは、親鸞です。
親鸞は、悪人になって初めて知りました。
そして、親鸞は「善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と言いました。
親鸞は越後へ流される前の自分を善人とし、流罪となった自分を悪人としています。
本年こそは、自分が悪人と成れる様にと頑張ります。
皆様にも、悪人に目覚められ本心に立ち還られます様にと願っております。