つぶやき(2026)
空腹と満腹 (11/1/2026)
先月、イエスが言った「イの一番に神を求めよ」について語りました。
今月は「あなたにとっての白朋誌は何番目ですか」と訊ねます。
十番以内ですか?
十番以上でしょうか。
それとも、番外でしょうか。
でも、そんな白朋誌が自分にとって番外の存在でも、一たびトラブルに巻き込まれた時には、その順位は上がって行くものです。
人生で起こるトラブル。
人間と言う生き物は、自分の事は分からないくせに、他人の事となると良くその欠点が目に付くものです。
で、そんな私が良く目にする他人様のトラブルの原因を二つほど。
その一つが「二極の法則」の理解不足から生じるトラブルです。
「禍福は糾える縄の如し」と言うやつです。
これ、聞いた事があっても、真に理解している人って少ないんです。
この言葉は、中国の「史記・南越伝」の一節「因禍為福、成敗之転、譬若糾纏」(禍によりて福となす。成敗の転ずるは、たとえばあざなえる縄のごとし)からきているのだそうです。
人の禍も福も人生においては、表裏一体の存在です。
低気圧が有るから、高気圧がある理屈です。
でも、この当たり前の様な理屈が、解らない人が実に多くいます。
真に理解していないから「今日も皆が幸せでありますように」とか「世界が平和でありますように」などと祈っています。
これ二極の法則から観た時「今日も皆に不幸がおとずれます様に」や「世界に戦争が起こります様に」と祈っている事です。
自分では「福」を呼んでいるつもりが「禍」を呼んでいるんです。
「じゃ、どうしたら良いんだ」と言う事でしょう。
ですから、いつも一休禅師の「橋の端を渡るな」の話をしているのですが、この言葉の意味も真剣に理解しようとしないから起きるトラブルです。
中国の古い賢者は「中庸」と言い、釈尊は「中道」と言いました。
ですが、一休禅師の言葉同様に人は真に理解しようとはしません。
「人は、本当に幸せになりたいのかな」と思ってしまいます。
ただ、この事を誰も説明し様ともしていないと言う問題があるのでしょうけど。
でも、説明しようとしても難解だから、みんな逃げているのかも。
なぜなら、これは「神」を理解しろと言う事だからです。
人間の言葉では、説明できないからです。
自分で自分の内に入り、自分で求めて行かなければ得られない答えです。
自分で答えを求めに行った人がいます。
その人は難行苦行をしていた時、或る人から一杯の粥を頂きました。
その時、その人は気付いたそうです。
何に気が付いたか解りますか。
その人は、この時「二極の法則」に気が付きました。
飲まず食わずの修行をして頂いた一杯の粥で、その人は満ちた心地になりました。
その時に「ハッ!」としました。
これが、その人が悟った瞬間です。
その後、沐浴し、自分が今悟った事に瞑想し、意識で自身の肉体と心のあり様を観、悟りを完全にしたそうです。
で、問題はその人が何に「ハッ!」としたのかです。
これ当たり前の事ですが、人は今お腹がいっぱいでも時間が経つと又お腹が空くんですよね。
これ「空腹」と「満腹」との二極なんです。
これ普通の人が、当たり前として見過ごして行く、真理なんです。
これ、生ある限り際限なく繰り返して行く二極の縄なんです。
その人が偉いのは、この二極の法則に気付き、自身の意識に目覚め、自分の真の存在に目覚め、意識の眼で心と肉体を観た時に、その解決方法を見いだした事なんです。
その人が、ようやくにたどり着いた解決方法が「中」です。
糾える縄の中心に行き、中心を知る事なんです。
周囲は空腹と満腹と言う禍福の渦が回転していますが、中心は回転がゼロなんです。
断食をしていると、空腹が気にならなくなってきます。
でも、断食を止めて食べた途端に食欲がわき空腹を感じてきます。
断食を止めると、心が脳が動き始めるんですね。
断食をしている時の状、これが、中の状、意識の状、神の状です。
この中の状を知り、悟った時、その人は断食を止めても食欲をコントロールする事ができる様になっています。
来るがまま、去るがままを知った状です。
ただ、この中の状は、幾ら頭が良いと言われている人の頭で考えても解らない事です。
頭では無しに意識(魂)に目覚めなければ、真に中は理解できない事です。
意識体である神には、人間の様な脳などは無いんですから。
頭で考えるから「右でも左でもない中道だ」などと人間の言葉を使って平気で間違いを言うんですから、困ったものです。
これは、神同様の意識体になければ解らない事です。
一休禅師が言った「橋の端を渡るな」を人々が理解できないわけです。
ドリール先生は、この意識に目覚めた状を「絶対的非個人的態度」と言いました。
今一つのトラブルの原因が、この「絶対的非個人的態度」です。
意識に目覚めないから「絶対的非個人的態度」が取れず、心による「個人的利己的態度」のままの人は、禍福の渦の中心に立てないんです。
禍福の渦の中にのみ込まれているんです。
そして、禍福と戦いを起こしてしまいます。
イエスは「抗するな」と言ったのですが、禍福の渦の中にいる人は「抗するな」ができないのです。
それと、イエスは「私は誰も裁かない」と言いました。
ですが、禍福の渦の中にいる人は、周囲の人を裁きます。
「あの人は間違っている。だから、自分は苦労してるんだ」と自分の事は棚に上げて他人を裁きます。
その様な禍福の渦の中にいる人は「私の○○」と良く言います。
「私の○○」と思っているから、禍福の渦の中にいる人は「私の○○」を裁きます。
ですが、そうする事で禍福の渦の中にいる人はゼブラー(聖正義)から裁かれてしまいます。
ですから、イエスは「人裁くな、自分が裁かれないためである」と言います。
「じゃ結局の処、どうしたら良いんだ」と言うと思います。
釈尊やイエスやドリール先生がその手本を示しています。
釈尊やイエスやドリール先生や他の賢者達が行った様に、ひたすら行じていくだけです。
日々の一瞬一瞬が、学びです。
今迄の固定観念に捕らわれずに、日々の行いの一つずつを深く思考していくだけだと思います。
今の世の中には、あまりにも人が恐怖から作り出した様々な決まり事が多々あります。
神が創った決まり事は、破る事はできません。
ですが、人が作りだした決まり事は、今一度見つめ直し間違いを訂正していかなければならないものだと思います。
日々のなにげない行いを見直し、正しい神のあり様を学んでいかなければと思います。
真の神への道は、地道な努力があるのみです。
そうする事で、何気ない事の中に存在する聖なる法則(神)に気付かされるものです。
一木一草に、教えてもらえるか否かです。
おまけ
ニュートンは、リンゴが木から落ちる様を見て万有引力の法則を発見しました。
ニュートンは、物質界における自然を通して聖法則の顕れをみつけました。
物質的な物事だったから、ニュートンは釈尊とは違い全てを言葉で言う事ができました。
それと、ニュートンが見ていたりんごは、「ケントの花」と呼ばれる品種で、収穫前に落果する性質が強い品種だったそうです。
もし、ニュートンが見ていたリンゴがあまり落果しない性質のりんごであったら、万有引力発見の逸話は生まれなかったのでしょうね。
これもまた、ニュートンが神秘学者であった事にも関係があったりして・・・
思い煩うな (10/1/2026)
あなたは、今、ナニを求め、欲していますか。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
イエスは「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言いました。(マタイ・6―33)
あなたは、今、第一番に「神」を求めていましたか。
それとも第一番目に、この物質界のナニかを求めていましたか。
もし、あなたが神では無しに物を求めていたとしたら。
なぜ、その物を求めていたのでしょうか。
なぜ、イの一番に「神」を求める事ができなかったのでしょうか。
多分、それは「神」がナンの役に立たつのかが分からないからだと思います。
「神」の価値が解らないと言った処だと思います。
その様な人は「神を求めても、今、目の前にある問題がなんとかなるのか」と言う事でしょう。
神が頼りにならないのなら、今、問題を抱えている人は、神では無しにナンに頼れば良いのでしょか。
「自分で考えろ」でしょうか。
それとも、占い師にでも相談しましょうか。
そのヒントがマタイ第六章にあります。
「欲しいな、欲しいな」や「どうしたらいいのか。どうしたら」と言って悩み苦しんでいる人に、イエスはマタイ・第六章を通して「思い煩うな」と諭します。
人生において生じてくる様々な問題に対して「思い煩うな」と言います。
また、イエスは言葉を変えて「抗するな」とも言います。
「思い煩うな」と同様の事を、老子は「無為自然」と言いました。
「無為自然」
文字のままに訳すなら「何もせず、自然のままに」と成ります。
ただ、この様な事を言うと「目の前の問題に対して、何も考えず、何もせずにいろと言うのか」と言う事だと思います。
老子が言う「何もするな」を理解するには「何もしない(無為)」とは「誰」がなのかが解らなければ真の意味は解りません。
この何もしない人とは、肉につながった心の事です。
「肉につながる心で考えて行うな」です。
言い換えるなら「物事を心で考えて行わず。神につながる意識で想い、肉に行動させろ。それが自然である」です。
イエスの「思い煩うな」も同様に「肉につながる心で思い煩うな。意識で想い肉に行動させよ」です。
ドリール先生は「起こり来るあらゆる物事と問題に対して、絶対的非個人的態度を取らねばならない。決して、起こり来る物事に個人的利己的態度で接してはならない」と教えています。
ここでドリール先生が言う「個人的利己的態度」とは「心」の事です。
そして「絶対的非個人的態度」とは、心では無しに「意識」でと言う事です。
では、イエスや老子やドリール先生が言う「意識(絶対的非個人的態度)」を得るにはどうしたらよいのでしょうか。
そのヒントが、イエスの弟子達とイエスの会話の中にあります。
イエスの弟子達がイエスに「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」と訊ねた。
イエスは「彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないから譬で話すのだ」と答えました。(マタイ・13)
「見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らない個人的利己的態度の者」と「観て、聴いて、悟る絶対的非個人的態度の者」との違い。
それは、内に入る事ができる者と外のみを見聞きし内へは入れない者の違いと成ります。
内に入る事ができなければ、神の霊光も沈黙の声も頂く事ができません。
霊光を観る事も沈黙の声も与えられない者には、神の完全状を悟れません。
その様なイエスの弟子達と一般大衆の違いはナニかと言うと、弟子達はイエスに出会う前に洗礼のヨハネから指導を受け、秘伝(イニシエーション)を通っていたと言う事です。
イエスの弟子達は洗礼のヨハネから学び、修行し、自身の意識に目覚めていました。
意識に目覚め第一秘伝を得た者に洗礼のヨハネは洗礼に導きました。
洗礼とは、水で浄めるだけのものではありません。
その水とは、象徴です。
真の洗礼とは、メムたる水に内在したシンたる火を解き放ち松果腺を活性化する事です。
ヨガで言うクンダリーニです。
イキをしながら心を空にし、イキに内在した霊氣を解き放つ事が、クンダリーニとなります。
老子は第一章で「心を空にし、無欲な心で、名も付けられぬ存在を求めよ」と言います。
そして、イエスは松果腺を「一なる眼」と言いました。
第三の眼とも言われる松果腺を活性化する事で、銀泉を通して真我とつながり、真我の霊光が松果腺に顕れてきます。
真我からの霊光の中に入る。
そして、霊光の中に入った者には、何らの煩いも無くなります。
これが、神の国を求める事となります。
これができて、初めて「神の国と神の義」を知る事ができます。
これができて、初めて「無為自然」を知る事となります。
これができて、初めて生きる者として生きる事ができます。
人が真に生きる者と成った時、様々な幻的な物事が渦巻く人生の中心に立つ事ができる様になります。
幻的な物事が渦巻く中に入らずに、中心に立ち実在たる神の霊光のみを観ていたならば、周囲の物事からの影響を受ける事が無くなります。
自身の周囲の出来事を中心に立ち観る事ができた時、それが「思い煩わない」事となります。
中心に立ち周囲を観る事できた時、それが「無為自然」と成ります。
実在たる中心に立ち周囲の幻的な物事を観る事ができた時、それが「絶対的非個人的態度」と成ります。
絶対的非個人的態度を取る事で「神と神への義務」を悟ります。
「神への義務」を知った者は、神への義務を果たしていきます。
神への義務とは、想念と言葉と行いとにおいて霊を顕現させて行く事です。
「今ある問題に対しても、その問題に対する想念と言葉と行いとにおいて霊を顕現させて行く事でその問題がもはや問題では無くなっている事に気付く」と、ドリール先生は教えます。
そして、イエスは「真に神の国と神の義とを求め得たならば、あなたの欲する物は全て添え与えられる」と言います。
「決して、個人的利己的態度で今生じている幻的な問題の中に入るな」と、ドリール先生は教えます。
「絶対的非個人的態度でゴールのみを観よ、そして沈黙の声を聴け、それが人生に起こる幻的な問題を解決する方法だ」と、ドリール先生は教えます。
「自身の内へと入り、真我を、霊光を観よ」と、ドリール先生は教えます。
「周囲の幻的な物事は、幻なるが故に変化する」そして、「幻なる物事を早く変化させるには、決してその物事を握りしめるな。手放せ」とドリール先生は教えます。
「洗礼のヨハネもいない今、どんな修行をしたら良いのか」と言う人に道元は「只管打坐」と教えます。
古き賢者も、イキを整え心を浄めて行けと「自浄其意」を教えます。
それでも、難しい場合には「微笑んでいなさい」とドリール先生は教えます。
沈黙の声と言う他力に関するオマケです。
コリント第一・2-14~16でパウロは言います。
『生まれながらの人は、神の御霊を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。』
ヨハネ・16ー13 『けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがに知らせるであろう。』
死と生 (9/1/2026)
「死」
あなたは「死」を、どれ程死を理解していますか。
人は今までに「死」を幾万回も経験しているはずなのに、ナニも覚えてはおらず、死を解ってはいないものです。
ドリール先生が「死とは、魂が物質肉体を脱ぎ捨てるだけの事だ」と言っても、この肉体が自分だと思っている私達は「物質肉体を脱ぎ捨てる」と言う事自体を理解できません。
理解できないから、不安だらけになり、死への恐怖が増して行きます。
また、ドリール先生が「人は、毎晩眠りながら小さな死を経験している」と言っても、毎晩経験している小さな死もナニがナンのことやらサッパリ解りません。
憶えているおぼろげな夢も、すぐに忘れてしまいます。
当然、夢も観ない深い眠りの状などは憶えてもいないものです。
死を考えるヒントは、と言った時にイエスの言葉がありました。
イエスは、父親の葬儀に行こうとした弟子に「わたしに従ってきなさい。そして、死にたる者に、その死にたる者を葬らせよ」と言いました。(マタイ8-22)
イエスは、多くの生きている人を「多くの人は、生きているとは言えない。多くの人は、死人の様に生きている」と言っています。
では、イエスが言う「生きる」とは、どの様なものでしょうか。
イエスの言う「生きる者」とは「神に従っている者」の事です。
イエスの言う「死にたる者」とは「神に従わず、肉の自分に従っている者です」の事です。
主たる神は、ネガテブをポジテブに変換すると言う自分にはできない仕事をさせるために人間を創造されました。
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられ、生きた人間が創り出されました。
その人間が、神のための仕事もせずに、逆にネガテブに飲み込まれ神などはそっちのけでネガテブが一番と言っていては、人間を創り出した神は開いた口もふさがりません。
そこで、困り果てた神は怠けている人間に今一度自分らの仕事を思い出させるために、神の子を派遣しました。
ですが、神の仕事などそっちのけで、自身の肉にネガテブを詰め込みネガテブにうつつを抜かしている私達は、神の子などを見向きもしません。
そんな怠けている私達を指導するために派遣された神の子の言う事を無視し、怠け放題でいたら、その結果は火を見るよりも明らかでしょう。
燃えている火を見ても、火が解らなければ、その人は火傷するだけです。
痛い目をみても、その火傷の痛みが解からなければ、その人は本当の死人です。
人生の輪を、生きた者として終わるのか。
人生の輪を、死人として終わるのか。
人生の輪を、神のために生きた者には救いがあります。
その救いの場が「死」です。
肉と心と言う重い荷を負うて神のために苦労している人には、肉と心と言う重い荷を解く「死」を通して救いが与えられます。
ですが、人生の輪を神の働きもせずに怠け放題に過ごした人には「死」を通した救いも与えられず、更に重荷を背負わさたままに再び人生の輪へと投げ出されてしまいます。
生が有るから、死があります。
死があるから、生があります。
その生を神の働き人として働いた時、その人は最後の敵である死を滅ぼす事となります。
つまりは、再び重荷を背負って人生の輪へと行く事が無くなります。
それが、死を滅ぼす事です。
ドリール先生は「人生とは、学校のようなものである」と言います。
ですから「死とは、人生の卒業発表会場のようなものである」と言えます。
『最後の敵として滅ぼされるのが、死である』 (コリント1:15-26)
『あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と』
(旧約聖書・詩篇:90-3)
自灯明・法灯明 (8/1/2026)
釈尊が亡くなる前、弟子のアーナンダに「これからどうして行ったら良いのでしょうか」と訊かれて「自らを灯とし、自らを依りどころとして、他を依りどころとしてはならない。法を灯として、法を依りどころとして、他を依りどころとしてはならない」と言われたそうです。
これが「自灯明・法灯明」の由来です。
ですが、私達は釈尊が言った「自ら」と「法」と言う語の意味を知っているでしょうか。
「自とは真我の事で、法とは聖法則の事だ」と言う人もいるかも知れません。
ですが、そう言う人は「真我」や「聖法則」を、どれ程に知っているでしょうか。
ただ、あやふやな想像の域を出てはいないのではないでしょうか。
先月「唯佛与佛」の話をしましたが、この「自灯明・法灯明」も人を超えた存在である佛にならなければ,観る事も知る事もできないものです。
それを人が、無理やりに解釈しようとしても、誤った解釈になってしまうだけです。
人を超えた存在となった釈尊が言った「自灯明・法灯明」を、解る範囲でひも解くとどうなるのでしょうか。
まず「自」ですが、自とは心と肉体の人間の事ではありません。
私達には、心とは違う意識があります。
「顕在意識」です。
この心とは違う顕在意識を知らない限り、釈尊の言葉は解りません。
今一つの意識に「潜在意識」があります。
この「潜在意識」は、医者や科学者が言うから、何となく言葉だけは知っていると思います。
ですが、多くの人は心と顕在意識の違いが解りません。
そして、この顕在意識が潜在意識につながり、更に意識的意識・真我につながっている事など多くの人は理解してはいません。
聞いた事があっても、真に理解はしてはいないものです。
そして、意識的意識は霊的意識へ神へとつながっています。
古代の賢者は「汝自身を知れ、然らば、汝は全てを知らん」と言いました。
人が、肉体で無い自分「意識」に目覚めて、自分を観た時に、自分とは意識体だと言う事に気付く事になります。
その意識で高見へと昇って行った時に、光を観る事になります。
その光の中に入り、その光と一体となった時に、初めて自分が神につながる存在であり、神と一体ともなれる存在である事を覚ります。
釈尊は、その神につながる意識体である「自」を依りどころとしろと諭しています。
釈尊が言う「自」とは、神につながらない心や肉の人間の事ではないのです。
言い換えるなら「自」とは「神」の事と言えます。
次の釈尊が言った「法」ですが、確かに「聖法則」の事です。
良寛は、この「法」を「帝則」と言い「全ての物事は、知らずして帝則に従う」と言いました。
そして、ドリール先生は「神は、聖法則なり」と言いました。
『この世に顕現している「法」とは「神である」』とドリール先生は言っています。
つまりは、釈尊が言った「自」も「法」も、突き詰めれば「神」です。
ですから「灯明・法灯明」とは「神灯明」と言えます。
「神を依りどころとして、他を依りどころとしてはならない」との意味です。
でも、何でこの様な回りくどい言い方をしたかと言うと、弟子のアーナンダに「自」と「法」を通して「梵(神)」を観じさせるためだったのではないかと思います。
言い換えるなら、言葉の中に住する霊を解き放てと釈尊は言っているのだと思います。
じゃ、霊を解き放つにはどうしたら良いのか。
その答えは、先月の持田氏の遺訓の中にあります。
持田十段は、五十才を過ぎてから剣道を通して自分の心が動かない様にと工夫して行きました。
これが、答えです。
「心を動かさない」とは、どう言う事か解りますか。
と、この様に問うた時、あなたは今、心を動かし考えている事と思います。
心で物事を考える、それが雑念です。
神秘学は、この雑念を知る事から始まります。
そして、心を動かさずに、心が発する雑念を消して行く。
ドリール先生は「何も言ってはいけない。何も考えてはいけない。ただ、神の調和した完全状に集中しろ」と教えています。
雑念を消しながら、神に瞑想して行く。
様々な宗教において「沈黙の行」と言う修行方法があります。
一切しゃべらない、口を開かない事をズーットと続けていく修行です。
一日や二日で無く、一生涯続けて行く修行です。
何の為に、しゃべる事を止めるのか。
それは、心の口を閉ざす事を学ぶためです。
沈黙の内に、自分を、心を見つめて行く学びです。
持田十段が言った「心を動かさない修行」です。
持田十段は剣道を通して心を支配して行きました。
真の宗教では、沈黙の内に自分を見つめ、心を支配して行く事を学んで行きます。
そして、人が心を支配できた時「灯明・法灯明」の意味を知る事ができます。
「沈黙の行」が解るでしょうか。
「沈黙の行」は、単に口を閉じて行くものではありません。
終日、口を閉じる行は苦行でしかありません。
そこが解るかどうかです。
唯佛与佛 (7/1/2026)
佛教に「唯佛与佛」と言う言葉があります。
「ただ、佛と佛が解り合うのみ」と言う意味です。
この意味を理解するには「佛」と言う語の意味を理解しなければないません。
「佛」は「人+弗」からなります。
「弗」は否定の語で「~でない」の意味を持ちます。
ですから「佛」とは「人にあらざる者」との意味となります。
自身の心を克服し、人を超えた方を佛と呼びます。
ここで「克服」と言う言葉を使うと「佛になられた方々は、どれ程の困難と向き合い努力し克服してこられたのか」と思うものです。
確かに、今まで勝手気ままに振る舞ってきた「心」に、今日から「あれはダメ、これもダメ、こうしろ、ああしろ」と言って心を支配しようとした時、できるでしょうか。
「心」で「心」を支配する。
できない事です。
「心」で「心」を支配する事はできません。
では、どうしたら良いのか。
日本には、昔から習い事と言うものがありました。
その習い事を通して、私達は「心」を学んできたものです。
ですから、習い事にも「道」が付いていました。
そんな「道」が付いた習い事に剣道があります。
その剣道を通して「心」を学んだ方に、剣道十段の持田盛二と言う方がおられました。
剣道を通し、自身の一生をかけて自分の心と向き合ってきた持田十段の遺訓が次です。
一、私は剣道の基礎を体で覚えるのに五十年かかった。
二、私の剣道は五十を過ぎてから本当の修行に入った。心で剣道しようとしたからである。
三、六十歳になると足腰が弱くなる。この弱さを補うのは心である。心を働かして弱点を強くするように努めた。
四、七十歳になると身体全体が弱くなる。こんどは心を動かさない修行をした。心が動かなくなれば、相手の心がこちらの鏡に映ってくる。心を静かに動かされないよう努めた。
五、八十歳になると心は動かなくなった。だが時々雑念が入る。心の中に雑念を入れないように修行している。
この持田氏の遺訓を読んだ時、神秘的な物事が見受けられます。
一の「五十年」ですが、7×7と言われる七年周期を七回回る事で、人は50歳から初めて真の人生が始まると、神秘学では言われています。
持田氏が言われている様に、神秘学でも基礎を作るには努力する7×7の49年かかり、50歳からようやく脱力を学ぶ事ができると言われています。
二の「心で」と言われている様に、初めて脱力し、心に意識が向き始める事から全ては始まります。
三で言われている様に、意識して心を働かせて行く。
これが、心の支配の始まりです。
四で心を静める事を学んだ時、意識が働きだします。
佛教の七佛通誡偈で言われている「自浄其意(じじょうごい)」です。
五で「自浄其意」ができた時、チッタが動きを止めブリッタの渦が消え、雑念が消え、ヨガで言われているアミスター・サマディーに入る一歩手前の状に達した事がうかがえます。
その様な状態に成った80歳の持田氏に初めて手合わせした舩坂弘六段は、自著『昭和の剣聖・持田盛二』で「不思議であった。範士の前で竹刀を構えてからまだわずかの時間しか経過していないのに、私の顔面には汗がしたたり落ち、全身が熱くなっていた。息はもう途切れはじめていた…」と述べ、太刀打ちできなかったそうです。(Wikipediaより)
正に、佛と人との手合わせです。
学校の点数ばかりを気にしながらの習い事とは、一味違う心を、道を、学ぶ習い事。
道を通して心を学ぶ人は、自分の一人生全てをかけ、努力し脱力して学んできました。
「なぜ、道と言う自分の人生を学ばなければならないのか」と言うと、人生に溺れない様にするためです。
神は、メムなる水を、上なる水と下なる水に分けられ、下なる水の中に人間を入れました。
その下なる水の中に入れられ、失落した人間は、泳ぎ方を忘れています。
人間は、下なる水の中で溺れると言う錯覚に陥り、もがきます。
もがくから、沈んで行きます。
もがき、沈んで行く人の中にも、全ては心が写し出す幻だと何となく気付き、脱力する人がいます。
前世からの縁なのでしょうか。
気付き脱力する人は、いるものです。
そして、何とはなしに気付いた人は、泥水の様な心を浄化し、心の奥底に沈んでいる意識を目覚めさせて行きます。
始めは、苦労しながらも努力します。
力で、心で、自力で心を静めようとします。
中々にできないものです。
ですが、或る時に、他力から、脱力する事を教わるものです。
それは、呼吸です。
坐して、ただイキをするだけです。
正しい呼吸をする事で、心は静まって行きます。
初めは、イキをしようとすると、様々な思いが沸き立ち、イキを整える事はできないものです。
イキができない。
これが、80歳の持田氏に初手合わせし、イキが乱れてきた舩坂弘六段の状です。
ですが、線香を一本立てて見つめて行く。
線香を一本、2~30分でしょうか。
見つめながら、ただ、心を動かさずイキをして行く。
そこから、始まると考えています。
これが持田氏の2番目の状です。
そして、自分で自分の呼吸を見つめて行きます。
自分の吸うイキ、吐くイキを自分で見詰めて行くだけです。
そうしていると、イキをしている自分、イキをしている自分を見詰める自分を知るものです。
自分を観ている自分ができた時、佛へと近づいて行きます。
佛への道には、近道はありません。
佛への道にあるのは、遠回りの道だけです。
「急がば回れ」です。
幼子にもどる (6/1/2026)
先月、イエスは「幼子の様になれ」と「計算高い人間にはなるな」と言っており、良寛も「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と言い、方々は私達に素直な幼子の様になれと諭していると言いました。
と話はしたものの、じゃどうしたらひねくれ重箱の隅を突っつきながら計算ばかりしている醜い年寄りが、素直な幼子に戻れるのか。
で、解らないから一ヶ月考えていました。
そして「何もしない事が最善かな」と言う考えにたどり着きました。
以前、自分の体の状態や周囲の環境は、その人の心の鏡だと言いました。
その自分の体の状態や周囲の環境を変えたかったら「原因である自分の心を変えなければ変わり様が無い」と言いました。
そうすると人によっては「自分の心を変えよう!」や「変わりたい!」との一心から様々な計算と努力をして変わろうとするものです。
ですが、その様に努力する事を老子は戒めています。
老子は「努力では無く、脱力」だと言います。
ドリール先生も「リラックスしろ」と老子同様の事を教えています。
そして、人間が自力で努力すればする程、素直な幼子の状から離れて行くと老子は言います。
老子は、人が素直な幼子に戻るには「無為自然」が一番だと、自力で努力している私達を諭します。
ただ「無為」と言っても、ただ単に何も為さないと言う意味ではありません。
老子が言う「無為」とは「心のままに為すな」と言う意味です。
「自然」とは「神自らがしらしめてる状」の事で、簡単に言えば「聖法則」の事です。
ですから「無為自然」とは「人は自分の心のままに為さず、神につながる意識で聖法則に従って神の働き人としての仕事をしろ」との意味です。
と、言うと「それができれば苦労はしない」と言います。
そして「心は解っても、意識が解らない」と言います。
ですが、本当に心と意識の違いが解らなければ、老子やドリール先生の言う意味は理解し得ません。
目で見る事ができる形有るものの世界(形而下)と共に、目で見る事ができない形無きものの世界(形而上)が解るかどうかです。
形而下の世界は心と意識で見る事ができますが、形而上の世界は心では観る事ができない世界です。
形而上の世界は、神につながる意識でしか観る事ができない世界です。
曹洞宗を開いた道元禅師は、形而上を知りたければ、ただひたすらに坐せと言います。
道元禅師は、教えを求めて中国・宋に渡り四年程して日本へ戻りました。
仏具も経典も何も持たずに手ぶらで帰国した道元禅師に「あなたは何をしに中国に行ったのか」と訊ねた処、道元禅師は「眼横鼻直(ガンノウビチョク)」を知ったのみと言ったそうです。
「眼は顔の横に、鼻は顔に縦にあります」当然の事です。
当然のありのままの自分を知ったとの意味です。
ありのままの本来の自分。
それは取りも直さず、自分の内に存する意識に目覚めたと言う事です。
道元禅師は、中国で四年間ひたすらに坐し、心を鎮め、余計な心の計り事を止め、無心となり、心の奥底に存していた意識に目覚めた事を「眼横鼻直」と言い表しました。
老子が言った「無為」と成るための方法「只管打坐」を道元禅師は教えています。
坐し、ただひたすらに自分のイキを見つめて行く。
私達の真我は潜在意識を通して、私達の体を二十四時間監視し、機能させてくれています。
その様な中で、私達は自分の顕在意識を使って呼吸をする事ができます。
普段は寝ている時でも常に潜在意識がしてくれている呼吸を、起きている時に顕在意識を使って潜在意識の肩代わりをする事ができます。
そうする事で、私達は潜在意識や真我とのつながりを深めて行く事ができるものです。
呼吸というよりも「イキ」を古代の日本人は「水火」と書き「イキ」と読んでいました。
アレフ・メム・シンです。
「水火」を通して、神のイキたる「アレフ」とつながれと言っています。
ですから、道元は「只管打坐」とただただ坐しイキを見詰め、イキを正して行く事を教えています。
そして、道元はイキを正しアレフを知った時、その者は「眼横鼻直」を知ると言っています。
行き着く先は、あるがままの自分です。
無心となり、あるがままの自分を知ったその人は、幼子の様な素直な心と成るものです。
「水火」と書いてイキと呼ぶ事は、単なる象徴ではありません。
イキをして、イキの内に内在する火を解き放った時、その火をツンモ(心霊熱)と言います。
修行によってイキに内在する火を解き放ったミラレバは、極寒のチベットの山中でも薄い綿の衣一枚で過ごしたそうです。
これが、ヨーガが「火の智慧」とも呼ばれている意味でもあります。
ミラレバの肉体がした行いは、目で見る事ができます。
ですが、ミラレバの意識がした行いを、観る事ができるかどうかです。
ドリール先生が、初めてチベットに行った時に薄汚れた上着を着た僧院の師が山から降りてきてドリール先生達に次の様に訊ねたそうです。
「あなた方は、今、私のナニをみているのか」
どんな人にも欠点はあります。
なぜなら、物質界が歪だからです。
物質肉体も当然、歪です。
物質肉体に入った人に欠点が有るのは、当たり前です。
ですが、神につながる意識には、欠点はありません。
神が完全である様に、神につながる意識も完全です。
人が、その神につながる意識に戻れるかどうかです。
良寛が言った「子供の純真な心こそが誠の仏の心」
今一度味わい、幼子だった自分に思いを馳せてください。
「形而上者謂之道、形而下者謂之器」
(形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う)
易経より
幽体離脱ができない。 (5/1/2026)
ドリール先生は、簡単に「幽体離脱をしろ」と言いますが、中々にできないものです。
でも何で、できないのでしょうか。
ドリール先生は、できない私達を見て「ゴムバンドに重しを付けている様だ」と言います。
ドリール先生が言う「重し」。
それは、私達が知らず知らずの内にも、常にしている「計算」です。
「ああすれば、こうなる」とか「こうすれば、ああなる」で「こっちの方が得だ。損だ」など自分にとってどちらが利があるかを、私達は常に考えています。
それが「重し」だと、ドリール先生は言います。
この計算の結果を私達は大切にし、手放す事ができず、後生大事に握りしめています。
そして、計算が上手な人は、自分が賢いと思っています。
この様な賢い人達は、計算結果に囚われている状が重荷だと気付いてはいません。
ですが、その結果が“苦”となって現れてきた時、その様な賢い人達は驚き戸惑うものです。
そして、更に計算をします。
言い換えるなら、更に苦を積み上げていきます。
その様な計算結果に苦しんでいる人々を見て、イエスは次の様に言いました。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」 (マタイ・11-28~30)
苦しんでいる人達が行っている「計算」を、賢者達は「計らい」と呼んでいました。
地的な物事を計らう事から、地的な物事へのとらわれが生じてきます。
地的な物事にとらわれる事から、天から離れて行きます。
神から離れて行く者を、霊界は受け入れてはくれません。
神と同調し得ない者を、霊は地へとはじき飛ばします。
地的な物事にとらわれ、神から離れた人が幽体離脱できなくて当たり前です。
地的な物事にとらわれ神・佛から離れた人に、佛教では自身のこころを浄めよ(自浄其意)と諭しています。
その方法としてソクラテス(B.C.470~399)は、幽体離脱ができず肉体と言う牢獄につながれている人達に思惟(しい)する事、つまり心を静め瞑想しより深く思考して行く事を勧めています。
そして、ソクラテスは「人の魂(意識)が肉体と言う牢獄を離れた時、とらわれること無しに思惟する事ができる」とも言っています。
ここで、計算や計らう事と思惟する事の違いを明確にしておかなければなりません。
私達が行っている計算や計らいは自身の外に対して行っています。
私達は、目に見え耳に聞こえるものに対して計算し計らっています。
ですが、ソクラテスが言う思惟とは、佛教で言う七聖道の正思惟同様に自分の内に対して思考して行くものです。
目にも見えず、耳にも聞く事ができないものに対して思考して行く事です。
方向が真逆です。
この方向を間違っていると、賢者達は諭しています。
キリスト教神学者マイスター・エックハルト(1260~1328)も「肉体離脱ほど人を神と結び付けるものは無い」と言っています。
エックハルトは更に「求めず、持たず。全ての計らいを捨てよ。解放され。自由となれ。そして、人間は自身の内に潜んでいる神を顕せ」と言っています。
そしてエックハルトは、神を求めようとする私達に「自分の外に求る隠遁生活や厳しい修行などで自分を変えよう等とする事は間違いだ」とドリール先生同様に人生の目的を見失った生き方や極端な肉体心を矯正しようとする行為を戒めています。
また、エックハルトは計らいを捨てきれない私達に「祈るな。神をも求めるな」と言います。
なぜなら、計らいを捨てきれず、地にとらわれている人は、地的で歪な偽りの神を自分で作り出し、その偽りの神にとらわれてしまうからです。
また、肉と言う牢獄にとらわれ、牢獄にいると言う自覚も無いままの祈りは、より神から離反して行く事になります。
ですから、肉とそれに連なる心と感情にとらわれている私達には、モーセ十戒の偶像崇拝を禁じても逆効果となります。
肉とそれに連なる心と感情にとらわれている未熟な私達には、偶像を拝ませておいた方がましであり、未熟な私達のためでもあります。
では、肉とそれに連なる心と感情にとらわれている未熟な私達はどうしたら良いのか。
法然(1133~1212)も、その答えを求めてさ迷い、専修念佛にたどり着きました。
法然は「南無阿弥陀佛(人には、はかり知れない佛に帰依します)」の六文字を唱えながら、計らいを解きほどいて行く、他力の術(すべ)を学び出しました。
念佛は、計らいを取り除き、他力(真我の計らい)に全てを任せる事で、念佛は真言(マントラム)となり霊力を宿します。
その時、その人のこころは佛(人にあらざる者)を顕して行きます。
そして、他力の計らいで、その人は離脱する事となります。
イエスは「幼子の様になれ」と「計算高い人間にはなるな」と言っています。
禅僧・良寛も「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と、人間にとって一番大切な事が何であるかを諭しています。
次の一文は、良寛さんが地震で家と子供をなくした知人に送った見舞状です。
『地震は信(まこと)に大変に候。野(や)僧(そう)草庵(そうあん)は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候。
うちつけに、死なば死なずに永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
かしこ 良寛』
良寛は、この文でナニ伝えようとしたのでしょうか。
良寛は「人は、人生で出遭う災難や病や死からは逃れられないのだから、人は人生で出遭う状況をそのままに受け入れて生きて行くしかない」と言っているのでしょうか。
「過去に囚われながらも、一生懸命に生きろ」と言っているのでしょうか。
思惟して下さい。
私の考えは、白朋誌7月号に載せさせて頂きます。
「自分」を知っていますか。 (4/1/2026)
私達は、小学校からの教育において大小様々なテスト・試験を受けてきました。
そして、常に正解を求められてきました。
私達は、試験において正解を求めるための求め方などは二の次で、ただただ正しい答えを求められてきました。
そこには、常に答えが有りました。
そして、その正しい答えと同じ回答をすると言う試験を重ねて来た私達が、答えの無い問いに出合った時、答えの求め方が見つからず、どうしたら良いのか分からずに戸惑ってしまうものです。
その様な私達は、解答を積み上げながら、目に見える結果だけをいじくり回すだけの人間になってしまっています。
その様な私達は、目にも見えない原因を探し出す事ができずにいます。
ただ「人を見て、法を説け」で、誰でも彼でも目にも見えないものを探せとは言えないものです。
先月の「顕教と密教」ではありませんが、顕教をしっかりと学んでいない者に密教を説いても消化不良を起こすでけです。
それは、前世からの因がある人にだけに許されているものです。
先日、女房の付き合いで整体院に行きました。
骨盤が歪んでいるから始まり、足がどうのこうの、首がどうのこうのと様々に指摘され、調整されました。
ですが、それらの身体の歪みの原因は何ら指摘せず、目に見える歪みだけの調整でした。
結局は、ドアを出たら元の木阿弥で、歪んだ身体に逆戻りです。
「まつりごと」とは、神を祀ることです。
神を祀ることとを言い換えると「神と共に生きる」と言うこと。
言い換えると白川氏の言う「遊」です。
これをイエスは「神は霊である。神を礼拝する者は、霊と真理とにおいて礼拝せねばならない」と言いました。 (ヨハネ・4-20)
これは「霊から生まれ出、霊に生かされている者として神が顕した真の理(聖なる法則)に従って生きよ」の意味と成ります。
言い換えるなら「聖なる法則を知りたければ、霊を知れ」と言う事です。
その時に「霊を知るには、どうしたら良いのか」と言う問題が生じます。
これが、一番の問題です。
霊とは、神の意志した想念です。
神の想念を知る。
つまりは「霊を知る」とは、神を知る事になります。
でも、目にも見えない霊をどうしたら知る事ができるのか。
常に、答えがあり、その答えと同じ回答をする様にと仕込まれた私達は、本当に思考し求める事を忘れ去っています。
ソクラテスは「私は、私が何も知らない事を知っている」と言いました。
知らないから、ソクラテスは疑問を持ち、その答えを自分の内に求めました。
知ったつもりの人間は、何も求めはしません。
聖法則に「想念の法則」があります。
「想念は物」だと言うものです。
この「想念の法則」を知っていると言いながら、私達は使う事ができずにいるものです。
「想念の法則」を知っていると言う人に「あなたの完全なる幸福に状を想像してください」と言った時に「完全な幸福の状を思い浮かべる事ができません」と言います。
その様な人は、完全幸福を思おうとした途端「でもしか」が始まります。
つまり、その様な不完全な状しか思うことができない人には、その不完全が現れてしまいます。
「人は、その思うが如くにある」です。
これが、法則です。
つまりは、私達は知っている顔をしていますが、その実なにも知らないのです。
悪いことに私達は、その自分がなにも知らないことに気付いてもいません。
ですから、私達が幸せになれなくて当たり前なのです。
これが、答えだけを積み上げ、したり顔をしている人の成れの果てです。
では、どうしたら良いのか。
古代の賢者は「自分を見詰めよ」と諭します。
言い換えるなら「神などを求める前に、自分を知れ」です。
そもそも「自分のナニを知っているのか」と、賢者は尋ねます。
その「自分」とは、そもそも何なのか。
「自分」の事を、自分はどれほど知っているのか。
「自分」について、どれ程までに考えた事があるのか。
古代の賢者は、更に諭します。
「汝自身を知れ。然らば、汝はすべてを知らん」
孤独なる沈黙の内に
顕教と顕教と密教 (3/1/2026)
日本の仏教の教えには、顕教と密教と言う二つの教え方があります。
この顕教と密教をネットなどで調べると、次の様に言われています。
顕教とは、経典などの文字を通して釈尊の教えを学んで行くもの。
密教とは、釈尊の言葉では無しに様々な行などを通して、大日如来の教えを学んで行くもの。
ですが、今の日本の顕教と言われている仏教を起こした法然(浄土宗)親鸞(浄土真宗)道元(曹洞宗)日蓮(日蓮宗)などの方々は、みな比叡山の天台密教を学んできた人々です。
その様な密教を学んできた人々がなぜ顕教を起こしたのでしょうか。
考えてみたいと思います。
顕蜜を考えるために、先ずモーセの十戒をみてみましょう。
「仏教を観るのに、なぜ旧約聖書なんだ」などと言わないでください。
全ての宗教は、シャンバラから発せられたものだからです。
全ての宗教の頂点は同じですから、ご安心ください。
「唯佛与佛(ただ佛と佛のみが互いを知り得る)」です。
[モーセの十戒]
1:私の他に、神が有ってはならない。
2:偶像を作ってはならない。
3:神の御名をみだりに唱えてはならない。
4:安息日を覚え、これを聖なる日とせよ。
5:父と母を敬え。
6:殺してはならない。
7:姦淫してはならない。
8:盗んではならない。
9:隣人に対し、偽りを言ってはならない。
10:隣人のものを欲しがってはならない。
モーセの十戒は、1~4と5~10の二つの部分に分かれています。
1~4は、人と神との間の戒律です。
5~10は人と人の間の戒律です。
言葉を変えると、霊界における蜜なる決まり事と物質人間界における顕なる決まり事です。
これが、密教と顕教の違いです。
この違いの根本が、ナニか解りますか。
それは、自分の肉につながる心とは違う意識に目覚めているか否かです。
人間は自分の内に神とつながる意識を持っています。
この神につながる意識に目覚めているか否かです。
この神につながる意識を目覚めさせるための教えが宗教です。
世の中には様々な意識レベルの人がいます。
多くの人に、意識と言っても理解し得ません。
その様な人には、モーセの十戒の5~10を学んで行く事から始まります。
これがキリスト教と呼ばれる宗教の学びです。
これを無視してしまうとどうなるか。
今日のキリスト教には、カトリックとプロテスタントの二つの教え方があります。
カトリックは、イエスやマリアの像と言った偶像を用いて導いています。
プロテスタントでは、偶像を禁止し、聖書を唯一無二のものとして導いています。
でも、意識を知らない者が、モーセの1~4を行ったらどうなるのか。
過ちを犯してしまいます。
聖書を聖書に記されている文字だけを自分読みし、聖書の言葉の中に存する霊を解き放たねば、霊に怒られてしまいます。
文字だけを読んでしまうことから、神の存在を穢してしまいます。
個人崇拝が起こり、カルトの始まりと成ります。
「人を見て法を説け」とは、良く言ったものです。
意識に目覚めていない人は、先ずはたとえ話や絵本から始めなければ神への道は理解し得ないものです。
中国の禅僧が、悟りへの道を表す「十牛図」の象徴をつくり出しました。
「十牛図」の初めに道に立つ子供がいます。
そして、次の図で子供が道に付いた牛の足跡を見つけ出します。
ですが、この子供や牛、そして子供が立っている道がナニを意味しているかは、意識に目覚めた人でなければ理解し得ないものです。
絵と言う象徴でも、描いた人のレベルまでに進歩しなければ、その意味は理解できないものです。
「そんなものは解っている」と言う人に、イエスは次の様な言葉を残しています。
(マタイ十三章)
『その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。
ところが、大勢の群衆がみもとに集まったので、イエスは船に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。
イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、
「耳のある者は聞くがよい」
それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか。
そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう。
だから、彼らに譬で語るのである。それから彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないからである』
しかし、あなたがたの目はみており、耳は聞いているから、さいわいである。
あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。
そこで、種まきの譬を聞きなさい。
だれでも御国の言葉を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起こってくると、すぐつまずいてしまう。
また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
また、よい地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」』
文字や言葉をそのままに人間の心で読み聞く人。
文字と言葉の中の霊を神につながる意識で読み解く人。
意識に目覚めていない人を導くために、人間の言葉を用いる学びが顕教です。
人の子として生まれ出て、自分の肉につながる心を克服し支配し、聖者(マスター)となり神の子となった釈尊やミラレバやドリール先生などの聖者方は、人の子の苦労を知っていることから意識に目覚めていない人々は共感し易いものです。
この様な方々の人の子としての行いや言葉を学び、自身の意識に目覚めて行く学びが顕教の学びです。
それに対して、失落せずに神の子のままに、この地上へと来臨したイエスやハルジャスは、人の子の苦労はそれほど経験してはいません。
ですが、神の子としての霊的経験は人の子にはうかがい知ることはできないものがあります。
その言葉にもまた、霊的な神の言葉が豊富に潜んでいるものです。
神の言葉を学ぶ、これが意識に目覚めた者の蜜なる学びです。
つまり、密教とは神につながる意識で神を求める学びだと言えます。
これが密教と言われる神秘学(オカルト)です。
イエスの弟子達は、イエスに神の言葉を教わる前に洗礼のヨハネによって顕教と密教の基礎を学んでいた事からイエスに「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されている」と言われたわけです。
これらの顕教と密教を含めた人の進歩の状を、意識の三段階としてドリール先生は教えています。(神秘形而上学入門P74参照)
今あなたは、自分がドリール先生の教える意識の三段階のどの状にいるかが解りますか。
最後に、ドリール先生が良く話されている「釈尊と二人の弟子」
兄弟子が釈尊に「自分は後何回生まれ変わると悟れますか」と訊ねた時、釈尊は「後、十回の生まれ変わりの後」と言いました。
それを聞いた兄弟子はあまりの長さに頭をかきむしって泣きました。
弟弟子も釈尊に「私は、後何回生まれ変わると悟れますか」と訊ねたところ、釈尊は「後、一万回の生まれ変わりの後」と言いました。
弟弟子は自分も悟れる事に歓喜しました。
今、白朋を学ばれている方でもあなたは自分が後何万回生まれ変わると神の言葉を話す事ができると思いますか。
まさか、十~二十年で神の言葉を話せる等とは思ってはいませんよね。
白朋誌と言う顕教を、只管(ただひたすら)学んでいますか。
読むだけでは無く、書き写していますか。
それ位の学びをやらずに、顕なる教えは学べはしないものです。
白朋誌の内に秘されたドリール先生の想いを解き放つためにも、白朋誌を書き写すことをお勧めいたします。
七日間メソッド (2/1/2026)
白朋誌は、昨年の十二月号で600号となりました。
2000年に初めて富山の白朋舎を訪れ、白朋誌を購読し始めました。
それから十二年後の2012年1月から白朋舎を引き継ぎました。
そして、十四年です。
昨年で七年が二回の十四年です。
今年から新たな七年が始まりました。
なんで「七」を取り上げるかと言うと「七」は周期の数だからです。
皆さんも生まれてからの七年毎を振り返ってみてください。
その七年毎にネガテブ(潜在)とポジテブ(顕現)周期が読み取られると思います。
ネガテブは悪いと言う意味では無く、貯える時期と考えた方が良いと思います。
その貯えたものが現れる時がポジテブと考えてください。
でも、ナンで私だったかのか。
それは、うぬぼれからではありませんが「招かれる者多かれど、選べれし者少なし」の状だったからです。
多少、私の方がましだったと言う事です。
ナニがましだったかと言うと、神の方への向き方の問題だったと思います。
私も大いに自分の人生を見ていますが、神の方へも向いているつもりです。
白朋舎を引き継いで十五年目ですが、やはり見ていて自分の人生に囚われている方が多くおられる様に見受けられます。
そして、自身の人生に囚われている方は総じてその事に気付いてはいない御様子です。
そこが、一番の問題かと思います。
例えば、白朋誌601号「同調」でドリール先生が、病や家庭環境や貧困の状を改善した話が出ています。
その時に、人生に囚われている人は、自分もそう成りたいと願ってしまうものです。
でも、その様な人が見ているものは、ただ「結果」です。
その様な人は「原因」を観てはいません。
ドリール先生も、わざと「原因」については遠回しにしています。
なぜなら「その原因を探せ」との意味です。
「その原因に気付かない限り、囚われたままの人生だ」とドリール先生は言います。
お年玉の意味から、その「原因」を言うなら「神との同調」です。
神と同調し満たされ完全な神の状が、不調和な不完全な人に顕れ、神の調和が現れたと言う事です。
高みにある水が、低地に流れ降る状です。
普段、人は高みにある水が流れ降る事を妨げています。
妨げる事を止めれば、流れ降るだけです。
これも、法則です。
では、同調するためにはどうしたら良いのかです。
そこで無い知恵を振り絞ってもわからないので、願い教えてもらいました。
それが、次の七日間メソッドです。
ただ、七日間を通して、沈黙し孤独になり内を向く事が大切です。
何らかの効がありましたら、真我にお礼を言ってあげてください。
神(聖法則)との同調のための七日間
一日目
沈黙の内に、自分の心(低級自我)を観察する。
自分の想念を見つめる。
二日目
沈黙の内に、神の概念、あなたが思う神を書き出す。
神の概念と自分の想念の違いを見つめる。
鏡を見「我は、神の○○を顕現させん」と言葉に出さずに心の内で誓う。
三日目
自身の内で、その神の概念と違う自分の想念に『No!』と言い否定しろ。
そして、自分の想念を神の概念の方へと変えて行け。
四日目
自分の想念と違う神の概念を一つ取り上げ、その概念を自分のものとして自身に顕せ。
五日目
神のためにナニか一つ行をおこなう。
(例えば、断食、瞑想、光明真言を百八回となえる、など)
六日目
神の概念のまま二十四時間行動する。
七日目
何もせずに、沈黙の内で自分を観察する。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
七日間を通して、沈黙し孤独になり内を向く事が大切です。
そして、この七日間を3~4ヶ月おきに行いなさい。
ソロモンと知恵 (1/1/2026)
ソロモンの父ダビデ(BC1040~961)は、ペリシテ最強の戦士でガト出身の巨人ゴリアテを石投げで倒し、古代イスラエル王国第二代国王(在位BC1000~961)となりました。
そして、ダビデの子ソロモン(BC1011~931)は、古代イスラエル王国の第三代国王(在位BC971~931)です。
そのソロモンに神は、夢の中で一つの願いを述べるようにと言いました。
「ソロモンは,民を公平かつ賢明に裁くことができる、知恵と知識を願い求めました。
神は喜び、ソロモンに賢くて理解のある心を与えます。さらに、ソロモンが従順であり続けるなら、富と栄光と長寿を与えるとも約束しました」(旧約聖書・列王記第一・第三章)
これが「ソロモンの知恵」と言われるものです。
今回、ナニが言いたいかと言うと「知恵とはナニか」です。
辞書を引くとチエには「知恵」と「智慧」があります。
「知恵」とは「物事の道理を判断し処理して行く心の動き」
「智慧」は仏教的な意味で「智とは相対世界を観る働き、慧とは相対世界における悟り、つまり、この絶対的世界とは異なる相対的世界における真理を見極める認識力」となっています。
このような「知恵」
多くの人々は、勉学に勤しむことで、人は知恵を付け得ると思い自力で頑張っています。
ですが、ここが知恵あるソロモンと私達の違いです。
ソロモンは、知恵とは神から与えられるもの、神から授かるもの(他力)である事を知っていました。
ですから、夢で神が「願いを一つ言え」と言った時、「知恵を与えてください」と言いました。
ソロモンは、知恵とは人間が努力(自力)しても得られないものだと言う事を知っていたから言えた言葉です。
そのような真の知恵を知らず、猿真似をして浅知恵に狂っている人々を、老子は次の様に諭しています。
老子第十九章
「智恵など追っ払い,知識など捨ててしまえ。
そうすると民衆は,百倍もの利益を得るだろう。
慈愛など追っ払い,正義など捨ててしまえ。
そうすると民衆は,親族間の親愛を取り戻すだろう。
狡知など追っ払い,“効用”など捨ててしまえ。そうすると,泥棒や追いはぎなどいなくなる。このような三様の言い方では,表面的で,十分ではないので,民衆がわかる形で記してみようか──
素朴さはそのままがよい。
生地のままで振る舞え。
利己は控えめに、欲はほどほどがよい」
老子は、人々が知恵だ知識だなどと言っているものが、単なる情報にすぎない事を知っていました。
その様な情報をいくら頭に詰め込んでも、人のためにも自分のためにもならずにかえって害になると老子は言っています。
なぜなら、情報とは過去の記録にすぎません。
明日を創造するのに、過去の情報を基にしていたのでは、なんら新しきものは生み出されません。
こんな事を言うと「人類は進歩してきたではないか」と言う人達がいる事でしょう。
人類の進歩発展に寄与して来た人々とは、真の知識と知恵を神から授かった人々です。
その様な人々がいたから、人類は進歩し発展してきました。
ですが、その進歩を浅知恵にたけた人々が悪用してしまうものです。
それが、今の世界の状況です。
いかに神とつながり、神から知恵と知識を授かった人の少ないことか。
偽りの知恵を持ち神をも恐れない人々が、神とつながり神から知恵と知識を授かった人達をどれ程までに迫害してきたことか。
ソロモンは、旧約聖書・伝道の書で言います。
『空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。
悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ』
最後に「他力と自力」についてですが、「他力と自力」とは言い変えたら「神を知った人と知らない人」と言えます。
神を知らず、神がいない人では、神や真我はナニもできません。
神を知らず、神がいない人には、神や真我は知恵を与えようがありません。
ですから、「神を求めよ」と言った時に、神を知らない人は単純にそのまま「神様!神様!」と神を求めます。
その様に神を求めるから、神は逃げて行きます。
では、どうしたら良いのか。
来月まで、お考え下さい。
これが「引き寄せの法則」につながります。

