つぶやき (2022)

瞑想4 (1/12/22)

 火曜日のドリール先生の瞑想の言葉が次です。

「霊において真理において、我には弱さなく、欠乏なく、不満なく、不平なく、憂鬱なく、失望なく、自己憐憫なし。わが内なる真理は全能であり、富であり、喜びである」

 「霊において真理において」は、礼拝だと言いました。

その礼拝については、白朋誌563号(令和4年11月号)「真の神への礼拝」に詳しくドリール先生が語られています。

その中で、真の神への礼拝とは「神の意志と一体となる事」であり「神の意志を自身の想念と言葉と行いとに顕して行く事」だとドリール先生は言われています。

 「我には弱さなく、欠乏なく、不満なく、不平なく、憂鬱なく、失望なく、自己憐憫なし」

神の意志と一体となり、真の礼拝ができる人には、弱さや欠乏や不満や不平や憂鬱や失望や自己憐憫はありません。

なぜなら、神にはその様な感覚は存在してはいないからです。

神の意志と一体となれず神から離れている人、真の礼拝ができない人には、弱さや欠乏や不満や不平や憂鬱や失望や自己憐憫が存在します。

この違いが、解るでしょうか。

ソクラテスは「私には、まだ神の真の意志が解らない」

ただ「私ソクラテスは、神を真に理解できていないと言う事だけは、真に知っている」とソクラテスは言っています。

 佛教においても“常楽我浄”の四顛倒として、あの世の状とこの世の状との違いを教えています。

ですが、私達にはこの世の状は理解し得ても、あの世の状は到底理解できないものです。

こう言うと、ソクラテスさんに「この世の状も理解し得ていないのではないか」と言われてしまいそうです。

そして、ソクラテスさんは「私は、神を真に理解できていないから、常に神を理解しようと努力し、神に近づこうとしている」と言います。

私達は、何を観て、何を知って、何を努力しているのでしょうか。

 「わが内なる真理は全能であり、富であり、喜びである」

カギを家な中でカギを失くした或る人が、家の中は暗くて探しにくいからと明るい外でカギを探し回っている、と言う寓話があります。

私達が神の下へと帰る為のカギは、私達の内にあります。

ですが、人は自分の内へ入ろうとはしません。

人は、目に見え、耳で聞く事に慣れています。

ですが、目にも見えず、耳でも聞く事ができない内なる世界は慣れてもおらず、理解し得ないものです。

当舎では、東京と大阪で午前中に「坐す会」を、午後に「読む会」を開催しています。

見ていると、坐す事と読む事の意味を理解している人が少ない様に見受けます。

坐して自身の内に入る事ができて、初めてドリール先生が語られる言葉の意味が理解でき、自身の内に生きた言葉を頂けるものです。

自身の内に入る事なしに、目で見、頭で考えてドリール先生の言葉を理解しようとしている方々を見た時、家の中でカギを失くしたにもかかわらず家の外で探し回っている人の話をどの様に受け止めているのか、と思ってしまいます。

 ドリール先生は、続けて言われます。

「神の意志と一体となり真の礼拝ができた者は、自身の内に聖真理が輝き、聖なる全能を、聖なる富みを、聖なる喜びを知る」

また、ソクラテスさんは「私は、自分の人生において神の国と神の正しき義を、想い求め、言葉とし、行いにおいて顕してきた」と言っています。

        

         瞑想3 (1/11/22)

 月曜日のドリール先生の瞑想の言葉が次です。

「霊において、真理において、我は怒りなく、憎しみなく、残忍性なく、報復心なく、争いなく、妬みなく、嫉妬心なく、怪しみなく、恨みなし。わが真理は智慧であり、善良であり、美であり、平和であり、無意識的正義である」

 「霊において、真理において」は、礼拝です。

礼拝とは「うやまい、おがむ」事です。

霊として、真理として、この世に顕現している神をうやまい、おがむ事です。

「我は怒りなく、憎しみなく、残忍性なく、報復心なく、争いなく、妬みなく、嫉妬心なく、怪しみなく、恨みなし」

人はなぜ、怒りを、憎しみを、残忍性を、報復心を、争いを、妬みを、嫉妬心を、怪しみを、恨みをいだくのでしょうか。

なぜ、本当の自分である真我には怒り、憎しみ、残忍性、報復心、争い、妬み、嫉妬心、怪しみ、恨みが無いのでしょうか。

 先日、幼稚園のわきを歩いていたら運動会の練習をしていました。

そして、一等になった子を称えていました。

昔「なんで一番にならなければいけないのですか。二番や三番ではダメですか」と言った政治家がいました。

確かに、何事も切磋琢磨しなければ進歩はありません。

ですが、それは理性が目覚めた大人の話しです。

まだ、理性が十分に目覚めていない幼稚園の子に一番を目指しなさいと教え、人には能力の差があり、上下があると教えて行く事が正しい事でしょうか。

人として、他人よりも上に行く事を教えるよりも、まずは一生懸命に行う事を学ばせる事が人としては必要な事ではないでしょうか。

 生命の木の聖心界には、ネガテブ極の裁きのゼブラーとポジテブ極の慈悲のケセドがあります。

裁く事は、教えなくとも人は容易く行います。

ですが、慈悲のこころを持つ事は、教え学ばせて行かなえればできないものです。

人間と言うものは、ネガテブな事は教えなくともできてしまうものです。

ですが、ポジテブな事は教え学ばせないとできないものです。

人が、ポジテブな慈悲を学んだ時、ゼブラーの裁きが聖なる正義へと変わります。

 神は10の数字と22の文字を通し天下り私達の物質界・マルキュトを創造したと言われています。

そして、私達は10の数字と22の文字をさかのぼって神の下へと戻らなければならないとカバラでは生命の木を通して教えています。

ですから、私達は最下層のマルキュトから四次元界(アストラル界・形成界)のニトザク(堅固)を求めなくてはならないものです。

人は教えを聴いたならば、その教えを堅い意志を以て行じ(ニトザク)る事で光輝く者(ホド)と成れるものです。

それが、生命の木を昇る為の基礎(イソド)となります。

そして、ケセドの慈悲を学び聖なる正しき義を知った時、その人は美しく輝く(ティペレト)と教えています。

その美しく輝く者が、聖なる智慧(チョクマー)を得た時、聖を真に理解し(ビナー)、ケテルの王冠をいただく者となると、生命の木は教えています。

人は堅固な意志(ニトザク)を持たない限り、物質界を離れる事はできないものです。

ニトザクが輝きもしないまま、四次元界に入ろうとするから四霊獣に追い返され恐ろしい思いをしてしまいます。

(22文字については神の国(1/4/22)を参照ください)

人生において、一番になろうとしても成れるものではありません。

そこには、堅い意志を以て教えを行じる事や聖なる慈悲や聖なる智慧が無ければ一なる者にはなれないものです。

それが、聖法則です。

その堅い意志や慈悲や智慧が無い事から、人は怒り、憎しみ、、残忍性、報復心、争い、妬み、嫉妬心、怪しみ、恨みを懐きます。

「わが真理は智慧であり、善良であり、美であり、平和であり、無意識的正義である」

人が、堅い意志と慈悲を知り、聖智慧を授かった時、人は善良と成り、美しくなり、平和を現し、無意識的正しき義の人となります。

 

 瞑想2(1/10/22)

 私が、日曜日に使っているドリール先生の瞑想の言葉が次です。

「霊において、真理において、我は、誇りなく、自我意識なく、魅力なく、反感なし。わが内なる真理は無限全智の愛なり」

「霊において、真理において」は、礼拝だと先月に言いました。

礼拝には、作法があります。

イエスは、礼拝の仕方をマタイ6-5~15の中で次の様に言っています。

『祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている』

イエスは「祈りを人に見せるな、三次元的に文字として書いたり、言葉にして口にしてはならない」と言っています。

沈黙の内にと言っています。

『あなたは祈る時には、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくど祈るな。彼らは言葉数が多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたの必要なものはご存知なのである』

ここでイエスは祈る方向を教えています。

「目の先を見るな。意識を自分の頭内にある至聖処に置き松果腺を観ろ」と教えています。

人は祈る時、仏壇や寺院の中で本尊を前にして祈るものです。

ですが、イエスは「観る方向が違う」と言っています。

イエスは、自分の内に入る事を教えています。

それも、銀線で四次元界へとつながっている松果腺の前にです。

最も、その前に脳下垂体(アジナ)や松果腺(サハスララ)を開いておかねばなりません。

そして、一番重要な事は「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたの必要なものはご存知なのである」と言う事です。

神は、真我を通して私達の全てを知っています。

なのに、私達は真我や神の事を全く知ってはいないものです。

また、私達は、自分が欲するものは分かります。

ですが、私達にとって今一番必要なものがナニかを分かってはいないものです。

神や真我は私達にとって今一番必要なものを、因果を通して与えています。

今の私達の状が、それです。

自分が一番欲するものが与えられないのであれば、何かが間違っている事の証拠です。

自分の想念と言葉と行いが変わらなければ、自分が置かれている状況も変わり様はありません。

自分が変わらなければ、自分の置かれている環境も変わり様が無いと言う事です。

至極当たり前の事だと思うのですが、ここに一つ私達が犯しやすい過ちがあります。

私達は「今の自分を変える」と言うと、今の自分の欠点を洗い出し、その欠点を克服しようとするものです。

自分の癖や、親や兄弟や周囲の人との関係、はたまた嗜好品などなど。

かく言う私も、医者から脂肪肝と言われ只今断酒中、一週間で二キロほど痩せました。

私事で申し訳ございませんが、禁酒といっても、問題は何の為の禁酒なのかと言う事です。

脂肪肝が治ったから、それがナンなのかと言う事を考えなければ、神秘学にはなりません。

肝臓も私達の身体もすべて私達の肉眼で見る幻です。

実在ではありません。

だから、変える事ができるものです。

つまりは、結果です。

ならば、その原因は何かです。

つらつら思うに、自分かつてに自分一人で飲んで楽しんでいた事が原因かと思います。

つまりは、最初の一杯は真我にあげ真我と共に飲む事をしなかったからだと思います。

飲酒においても、真我や神がいなかった事が原因だと思います。

自分一人が楽しんでいた結果が、脂肪肝だと思います。

ただ、自分が今置かれている状況に関する原因は、いくら自分の外を探してもありません。

飲酒による脂肪肝は、飲酒を止めれば治るかもしれませんが、真の原因が取り除かれていない事から、脂肪肝は治っても、再び別の結果が与えられる事と成るでしょう。

真の原因を取り除く為には、自分が変わる事が必要ですが、それには自分の内を向かなければ自分は変わり様はありません。

内を向き真に真我や神を知るから、本当に自分が変わるものです。

内を向き真に真我や神を知る事で、自分の思考方法が変わり、想念が言葉が行いが変わって行きます。

外を向き、自分の欠点を洗い出して治そう等とする事は、愚の骨頂です。

「無知は不幸の母である」とは、良く言ったものです。

『だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名をあがめられますように、御国がきますように、御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、今日もお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪き者からお救いください。もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう』

まず「今、生かされている事を感謝しなさい」と言う事です。

それも、周囲の人々に感謝するのでは無く、まずはイの一番に私達の真の先祖である神に感謝しなさいと言う事です。

ですが、人は目に見える周囲の人々から与えられた恩には感謝するものの、目に見えない神や真我が与えている物事に気付きもせずに感謝する事も無いのが普通でしょう。

つまり、自分と周囲の人々との関係、そして自分と神や真我との関係を知る事が大切です。

この関係を間違うと、真の礼拝にはなりません。

 我は、誇りなく、自我意識なく、魅力なく、反感なし」

ここで言う「我」とは、三次元界にいる私達ではありません。

「我」とは、聖心界にいる私達の本当の自分、真我です。

その真我は言います。

「聖心界にいる真我達は、物質界にいる人間達と違い全てが一つながりで一である。それに引き換え物質界の人間達は、ネガテブを背負うと言う働きをする為に個々バラバラの状にある。」

真我は、神の脳細胞の一細胞の様なものだと、ドリール先生は教えています。

一つながりと成り神の脳を創り上げている真我達には、人間達の様な上下も不平等もありません。

真我達は、全てが平等であり、一ですから、他に対して自分を誇る事も無く、自他の区別も無く、他を引き付ける事も無く、他に反感を懐く事もありません。

なぜなら、他の真我に対する思いは自分に対する思いだからです。

真我達の世界(あの世)は人間達の世界(この世)と違い、自分と他との区別が無い一切が完全平等の世界です。

 わが内なる真理は無限全智の愛なり」

続けて、真我は「あの世の聖なる法則は、愛である」と言います。

愛とは、言い換えると「一つながり」と言う事です。

あの世は、この世の個々粒々の状とは違います。

あの世は、決して切る事ができない数珠の様な世界です。

これが、真の愛だと真我は言っています。

「あの世の状とこの世の状とを間違ってはならない」と真我は教えます。

そして「早く来なさい」と呼んでいます。

瞑想1(1/9/22)

 私は、ここ二十年来瞑想する際に使っているドリール先生の言葉があります。

それは、本ホームページの瞑想用資料にも載せてある≪日々の瞑想≫です。

特に3-1~7を一週間の各曜日に一つずつ繰り返し用いて、二十数年になります。

未熟ではありますが、その中で得られた学びを述べたいと思います。

 霊において真理において、我は罪なく、とがなく、裁かれることなく、非難されることなし、あなたの真理は、聖であり優美であり、統一である」

 初めの「霊において真理において」は、新約聖書・ヨハネ 4-24「わが神は霊であるから、礼拝をする者も、霊と真理とをもって礼拝しなければならない」からきているものです。

つまり「霊において真理において」とは「礼拝」です。

目にも見えず、耳にも聞く事ができない存在である神。

その神への“信”が「礼拝」です。

その神への信を得るには、まず「霊」と「真理」とを知る事です。

 その「霊」とは、親なる神の子に対する想いであり、アレフ、神の息です。

「真理」とは、親なる神が子を守る為に定めた“聖法則“です。

つまりは、この世に存在する法則、それも決して破る事ができない聖なる法則を知る事。

その破る事もできない聖なる法則を通して神を知り、信を得る事。

それが「礼拝」です。

 と、私が言います。

そして「霊と真理が解りましたか」と訊いた時に「解りました」と答えたなら、ナニも解ってはいない事となります。

なぜなら、知ると言う事は、外から来るものでは無いからです。

「情報と知識」の違いです。

私達は、外から得られた情報を覚える事が、知識だと思っています。

ですが“知識”とは外から来るものでは無く、内から来るものです。

情報は、テレビや新聞や書物など自身の外から来ます。

そして、私達は、その情報を記憶する事が知識だと思ってきています。

ですが、知識とはその様な情報を触媒として内から与えられるものです。

その内から来た知識を元に学んで行った時、初めて聖法則を知る事となります。

その内から与えられた聖法則が、智慧となります。

ですから、上の説明を読んだだけで“霊と真理”が解ったと言った時には、頭で分かっただけで、本当に心の底から理解したのではありません。

本当に知ってはいないから、本当に信じる事もできないものです。

 「教行信証」と言う語があります。

教えを聴いたなら、行じなさい。

その行を通して、教えを知り、悟り、信を得なさい。

と、昔の人は教えています。

行じる事も無しに、単に頭だけで考えても、その言葉の深遠なる意味を知る事はできないものです。

外から来る情報と、内から湧き出る知識の違いを知ってください。

その内から来る知識が無い人を、無知と言います。

 次の我は罪なく、とがなく、裁かれることなく、非難されることなし」における「我」とは、この物質界にいる私達の事ではありません。

「我」とは、真我の事です。

つまり、この世にいる私達とは違い真我には「罪とがも無いが故に、裁かれる事も非難される事も無い」と言う事です。

この文の中で明確にしておかなければならない事は「罪とがも無い」と言う意味です。

 「汝、殺すなかれ」と言う語があります。

ですが、今の世では人が人を殺し合っています。

「殺すな」と言う法律があっても、その法律は破る事ができる法です。

H・スペンサーが「人間が破る事の出来る唯一の法則は、人間の作った法則のみである。」と言っている様に、神が創った聖なる法則と違い人間が作った法は、すべて破る事ができる法です。

ですが、神が創った聖なる法則は破る事ができません。

人が破る事ができない聖法則を破ろうとした時、人は自分で自分を破ってしまう事となります。

人が破る事ができない聖法則を破ろうとした時、真我も神もその人から離れて行きます。

真我も神も離れて行く事から、その人に流れ入る霊力が枯渇して行きます。

調和状の真我も神も離れて行く事から、その人には不調和が現れてきます。

真我が、自身の写しに対して過ちを気付かせる為の不調和です。

 つまりは、この世にいる私達は、自分達が作った法も破り、神が創った法則にも背こうとする存在ですから、罪とががあり裁かれ非難される存在だと言う事です。

ですが、それも私達がこの世にいる存在目的でもあります。

不調和なネガテブを背負い、その状を克服して行く事が、私達がこの物質界にいる存在目的でもあります。

ただ、いつまでも真我や神に背き不調和な状にいる必要も無いのです。

「早く、聖法則と言う真理に目覚め、霊力をいただき、真我や神と一緒になりなさい」と真我は呼びかけています。

それには、内を向き、行じ、知る事です。

 その時、人は「あなたの真理は、聖であり優美であり、統一である」である事を知ります。

その時、人は「神の法則は聖にして、全てが優しく美しく善であり、全てが一である」事実を知る事となります。

この世界は、自分自身を完成させる手段としてのものである限り、善きものである。 だが、そうでなければ、この世界は悪しきものである。 (ドリール)

自由 (13/8/22)

 近ごろ「信仰の自由」等と言う言葉を良く耳にします。

ただ、この様な言葉を聞く時、或る疑問を懐きます。

それは“自由”と言う言葉です。

あなたは“自由”と言う言葉を、どの様に解釈していますか。

私が思うに、多くの人々は“自由”の意味をはき違えている様に思っています。

今の人々が考えている”自由“とは戦後アメリカが持ち込んだ”Freedom“が元と成っていると思います。

ですから、自由とは「思うとおりのすること」となっています。

間違いとは言いませんが、大切なナニかが欠けていると思います。

”自由“について考えてみましょう。

まず“由”の字について調べてみましょう。

“由”の字は「よる」や「もちいる」の意をもちます。

そして“自“の字は「われ」や「おのれ」や「みずから」の意をもっています。

この“自”と“由”の字をつなげた時“自由”とは「みずからによる」や「おのれをもちいる」と読めます。

現代の辞書での「おもいのまま」などと言う意味とは、違ってきます。

ここで、大切な事は「我」とか「自ら」と言った時、の我とか自とはナニかを明確にする事です。

つまり、我とか自と言った時には“他”があっての我とか自です。

今迄にも言いましたが、神秘(オカルト)学は“自他”の区別を明確にする事から始まる学びです。

ここ言う“自”とはナニか。

“他”とはナニかと言うことです。

 答えから言うと“自”とは、本当の自分である真我であり神のことです。

そして“他”とは、自の写しである今の私達のことです。

法然や親鸞が言った“自他”です。

この“自”と“他”が理解し得て、始めて“自由”の文字が教える意味が、私達に与えられます。

つまり“自由”とは、他である私達(神の写し)の思いのままにするのでは無く、本当の自分である私達の中に存する自分(神)の思いのままにさせてあげること、それが本当の自由の意味となります。

 言い換えると“自由”とは白川静先生が言われる“遊”です。

「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。・・・遊とは動くことである。常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる」 (白川静『文字逍遙―遊字論』より)

そうなんです。

“真の自由”とは“絶対の自由“

絶対の自由とは、無限なる自由。

絶対の自由とは、私達が思いも及ばないくらい壮大です。

絶対の自由とは、物質肉体とそれに付随した感情が思うがままに行う事とは異なります。

絶対の自由とは、物質肉体と言う檻に入れられて与えられる矮小でいびつな自由とは比べものにはなりません。

絶対の自由とは、感情からくる刹那的自由でも無く、誰をも傷付ける事もありません。

絶対の自由とは、真の自由です。

人は、本当の自分も知らず本当の自由も知らずに、偽りの自分と偽りの自由の中にいます。

それが、今の私達の状です。

不自由極まりの無い状態で、私達は生きています。

不自由極まりが無いから、自由を求めています。

ですが、その求めている自由が偽りの自由である事も知らずに、偽りを求めています。

「無知は、不幸の母である」とは良く言ったものです。

自由・自由と、人々が誤って言っているにもかかわらず、誰も正そうとはしません。

ですが、誰も正そうとはしない中で、正そうとする存在がいます。

それは、一番不自由な思いをしている真我や神です。

平気でそんな不自由な思いをさせている真我や神は自由を求め、私達に裁きを与えます。

それが、世の中の不調和であり、各個人の病であり、貧困であり、難苦です。

本当の自分である真我や神に、私達が不自由をしいている結果です。

 では、どうしたら良いのか。

それは、簡単であり難しくもありです。

なぜなら、今の今まで、ほったらかしにしていた本当の自分を知り、神を遊ばせろと言われても、どうしたら良いのか分かろうはずも無いからです。

でも、神と二人して遊ぶ事を知ろうとして行かねば、私達の不調和な状が無くなりません。

道元禅師は「ただひたすらに坐せ」と教えます。

つまり、普段、有限で幻的な外ばかりを見ている私達に、真我や神のいる自身の内を観ろと教えています。

自分の内を向き、静かに坐し、呼吸をととのへ、行じながら、真の自由を観ずることです。

人が自由を観じた時、その人は真の信教の自由を得た事となります。

その時、その人は初めて神と二人、この人生を歩み遊ぶ事ができます。

 信仰と言いながら、真に神を求めて行じている人は如何ほどいるのでしょうか。

求めよ、さらば与えられん。

捜せ、さすれば見出さん。

叩けよ、さらば開かれん。

「汝ら、行きて、全ての人生の全てのものに入れ」 イエス

神の概念(1/8/22)

 ドリール先生は、人をその人の理性(意識)の程度から、大きく次の三つの段階に分けています。

一,理性に目覚めず、感情を制御する事ができない人々、言うならば動物的で未開な人々です。

二,理性に目覚め始め、感情を制御し始めた人々、言うならば人間的に成り始め、文明を知り始めた人々です。

三,理性に目覚め、感情を完全にコントロールし得る人々、言うならば第一~第三のイルミネーション状にいる人々です。

ドリール先生は、これらの三段階を更に三分割し全部で九段階の状で説明されています。

 で、今日の話しは、この意識(理性)の状態の違いから、その人々が懐く神の概念が異なってくる事についてです。

ドリール先生が大好きなH.スペンサーは「人間の持つ唯一の神は、その人自身が作り出した心像である」と言っています。

 秋田の男鹿半島に“ナマハゲ“と言う風習があります。

鬼の様な異様な面をかぶり出刃包丁を持って「悪い子はいねかー、泣く子はいねかー」と言いながら家々を回り、子供らを教育していくものです。

言われた子供はたまったものではありません。

親から神の化身だと言われたならなおさらに、神に恐怖を懐きます。

そうして、人々は神の概念を作り上げていきます。

ドリール先生が言われる様な、理性が芽生えず感情をコントロールし得ない人々には、古来から恐怖を使って、この世の生き方を教えてきました。

それが今日でも使われている律法です。

一番いい例が旧約聖書・出エジプト記21―24の「目には目、歯には歯」です。

 話は変わって、へそ曲がりなシェイクスピアさんの話しです。

シェイクスピアさんは「この目には目を歯には歯を」を題材にして「ベニスの商人」を作っています。

あこぎなユダヤの高利貸しに「借りた金が返されなければ自分の肉を1ポンドやる」と言った借主さん。

で、結局、返す事ができずに肉1ポンドをよこせと、ユダヤの高利貸しに裁判をかけられます。

そして、その裁判長が「肉1ポンドだけで、血は一滴も取ってはならない」と言います。

血も流さずに、生身の身体から肉を切り出す事はできずに、めでたしめでたし、の結末となりました。

と言うお話です。

つまり、先の「目には目、歯には歯」は「目には目だけ、歯には歯だけ」で、それ以上はダメと言う事です。

ただ、金を貸して返してもらえなければ、担保物件を取り上げるのは至極あたり前の事だと思うのですが。

シェイクスピア先生が観ているものは、違うものの様で。

 でも、経典と言われるものは、大変に読み方が難しいものです。

変わり玉です。

なめれば、なめる程、違ったものが顕れてきます。

旧約聖書は、その昔、アトランティスが沈んだ時にアトランティスから来たヘブライ人やアトランティス人の教えからきているとも言われています。

ですから、その言葉の中には幾重にも意味が重なり合っています。

読む人の意識(理性)の度合に応じて、その言葉の意味が変わってゆきます。

それと、難しいと言ったら、旧約聖書と新約聖書の違いほど難しいものはありません。

 旧約聖書には“神”が多々あらわれています。

そして、その“神”が平気で「私は、ねたむ神である」(出エジプト記・20-5)などと言います。

そして、神は“ノアの箱舟”ではありませんが、平気で人をうい子までもを殺します。

なんともナマハゲ以上に恐ろしい神が、いたものです。

少々長くなりますが、次の旧約聖書・ヨブ記2-1~10を読んでみて下さい。

『ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」サタンは主に答えて言った「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」主はサタンに言われた「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった時にその妻は彼に言った「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」しかしヨブは彼女に言った「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった』

次に、新約聖書マタイ4-1~7を読んでみてください。

『さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」それから悪魔は、イエスを聖なる都につれて行き、宮の頂上に立たせて言った「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」』

 この旧約聖書と新約聖書での神の違いが解りますか。

旧約聖書の神は、人をゆえもなしに、因果の法則を超えて試します。

新約聖書で、イエスは「神も神の分霊である人をも試してはならない」と言われています。

そもそも、旧約聖書には実に多く神が出演しています。

ですが、新約聖書では神は顕れてはきません。

この違いは、何でしょうか。

 その違いの根本には、その経典を語った時の人々の意識(理性)の状の違いがあります。

幼児の様な人々には、ナマハゲの様なゼブラー(正義)だけの姿を見せ、青年の様な人々にはケセド(慈悲)の様な姿をも見せます。

多少は、人間は進歩したのでしょうか。

 ただ言える事は、読み手の状に即して、経典は物質界の状にも、アストラル界の状にも、聖心界の状にも、霊界の状にも成ります。

まさに、変わり玉です。

ナマハゲも仕事が終われば、仮面を脱いで、本当の顔を出してくれます。

鬼も悪魔も仕事がすめば、仮面を脱いで、本当の顔を出してくれます。

その時の顔とは、どんな顔でしょうか。

 ですが、ここでは語られませんが、旧約聖書にはこれ以上に厳しいものを読む人に与えます。

それが解った時「善と悪の違いは、理解の度合の中にある」の言葉の意味を知るものです。

ついでに、もう一つ「善と悪を知る者は賢者とは言われない。善と悪とを認める者が賢者と言われる」

中々に意味が深い言葉です。

「その言葉なら知っている」などと言わないでください。

この言葉を含め、聖書もそうですが、その言葉を自身の人生において行えて「初めて知った」と言えるのですから。

外を見る人、内を観る人(1/7/22)

 けわしい山のふもとにも、一般大衆と言われる多くの人々が住んでいます。

その様な人々の内から、山に入って行く人がいるものです。

でも、山の中腹にある山門までたどり着く人は、ほんの少数です。

その少数の人の中でも、山門をくぐり頂上への道に着く人は、稀です。

その稀な人の中で、山頂にたどり着ける人はいるかいないかです。

 この様な人々の違いとは、ナンでしょうか。

それは、理性の発達の状態だと思います。

ふもとを離れ山を登れる人は、理性に目覚めた人と言えます。

理性に目覚め、理性で肉体に付随している感情をコントロールし得る人だと言えます。

感情をコントロールし得る度合が、登った山の高さです。

理性、言い換えるならば、神との距離です。

登った山の高さが高いほど、神との距離が近くなります。

登れば登るほど、天にいる神に近づいて行きます。

 また、登れば登るほど変わってくるものがあります。

それは、観えるものです。

山を登れば登るほど、周囲の風景も変わり、見えるもの、観えるものが変わってきます。

観えるものが変わってくるので、想いも変わってきます。

想念が変わっていきます。

想念は物ですから、その人の物的な肉体や周囲の環境も変わってゆきます。

山を登れば登るほど、神に近づき、普通の人とは違う想念世界が与えられてゆくものです。

 意識が、懐く想念世界を“プレロマ”と言います。

山のふもとに住んでいる人々は、狭い視界の中で、それに応じた想念世界に住んでいます。

ですが、山を登ってゆくと、視界が変わり、風景が一変してゆきます。

一番、変わってくるものは、観えるものです。

ふもとでは、見るだけで、観る事ができなかったのに、登る事で観る事ができる様になってくるものです。

観る事ができるから、当然の事として想念も変わり、想念世界も変わってゆきます。

 でも、山を登るにはどうしたら良いのかです。

理性を目覚めさせ、想念世界を変えてゆく為には、どうしたら良いのかです。

その答えは、内を向く事です。

人は生まれた時から、自身の肉体に備わっている目や耳などの諸器官を使って外界を知ろうとしてきました。

人は、それが当たり前で、当然の事だと、何の疑いも持たずにいます。

でも、その様な人々の中で、或る人は内を向き始めるものです。

ちょうど、川で生まれた鮭や鱒が海に下り、再び同じ川に戻ってくる回帰の様なものです。

全ての人に備わっているものです。

全ての人の内に備わっている実在です。

ですが、人間は他の動物よりも下手に知能が発達している事が災いしています。

知能も感情同様に、コントロールしなければならないものです。

ですが、人間は欲に駆られると言うか、外界にある幻の様な物質界に惑わされ、内に存在する真の自分を、内に存する神を見失っているのが現状です。

 その様な時、神はどうすると思いますか。

神は、何もしません。

しないと言うよりも先に、神は、その日のある事を予測し、その日の為に聖法則を創っておかれました。

迷子になった人々を救う為に、神は聖法則である因果の法則を創り機能させています。

神は、一人一人の人間の状況に即した結果を、その人のゼブラーを通して常に与え続けています。

戻るべき方向を見失った人々には、神は困苦を、災いを送り付けます。

送り付けられた人間は、身体の病や貧困などの環境の病と出合う事となります。

そうする事で、人々は困った時の神頼みとばかりに、自身の外にある神社仏閣へ行き自身の外にある偽りの神に頼み込んで行くものです。

でも、それも可です。

全ては、そこから始まるものです。

考え、求め続けてさえいれば、与えられるものです。

間違えば、間違ったなりの結果が与えられます。

自身の状況を見たならば、解ると思います。

病と成った人、貧困の状に陥った人、その外的な状況よりも、問題は、その人の内的な心の状の変化です。

 或る白朋誌の読者の方が、ガンに成りました。

そして、ガンが別の部位にも転移したそうです。

電話があり、話しをしました。

私は、その人を慰めはせずに、励ましました。

なぜなら、その人のこころが必要以上に波立ってもいなかった事からです。

内を向くと事ができる方だったからです。

外界が如何に波立ち騒ごうとも、自身の内に波一つ立たない水面の様な静まったこころを持つ事ができるかどうかが、一番の肝心要です。

言い換えるなら、内を向き、神を向き、自身を見詰めることができるかどうかだけです。

外を見ているから、幻を見ているから、惑わされ、神から離れて行きます。

如何に嵐が来ようとも、嵐は過ぎ去って行きます。

如何に嵐が来ようとも、自身の内に静まりきったこころがあるかどうかだけです。

私達は、試されている様なものです。

 外を見て、幻の中で生きるのか。

内を観て、実在と共に生きるのか。

それは、私達人間に与えられた自由です。

それが、人間に与えられた試験です。

 こころが波立っている時には、坐す事もできないものです。

ですが、それを乗り越えて内に入って行かねば、山門にたどり着く事はできません。

多くの先人が、登って行った道です。

挫折しなかった人などはいません。

皆、道を踏み外しながらも、這い上がり、登って来た道です。

内に存する道をみつけ、その道を登れるかどうかです。

と言うよりも、登らねばならない道です。

その道は私達の内に存しています。

生まれた川に戻り、生まれた上流へたどり着く事は、大変な難事です。

決めるのは、あなた自身です。

今、ナニをしなければならないのか。

よくよくお考えください。

誰の為でも無く、あなた自身の為に。

自分が、出来たった処へと戻る為に。

よく學び、よく遊べ (1/6/22)

 「よく学び、よく遊べ」

このことわざ、日本もしくは東洋のものと思っていましたが、明治時代にアメリカから入って来たものと言う説もあります。

まぁ、どちらにしても「よく勉強をして、そして遊ぶ事も忘れずにしっかりと遊びなさい」の意味が一般的な意味だと思います。

 ですが、へその曲がった私です。

白川静先生の助けを得て、このことわざを読み解いて行きたいと思います。

白川静先生は、ことのほか「遊」の漢字がお好きだったそうです。

それは「遊」の漢字に含まれている原意に、ことのほか共感されていたからの様です。

まずは「學」の漢字を、白川静先生の字通(平凡社発行)から観て行きましょう。

 屋根の上からは手を伸ばしている親がいます。(字通もしくは神秘形而上学入門を参照)

そして、屋根の下に手を伸し親と交わろうとしている子供がいます。

つまり、親は子に教えようとしており、子は親から學ぼうと、マネようとしています。

次に「遊」の漢字を観てみましょう。

「遊」にも「子」があります。

そして字通によれば「遊」とは『氏族の旗を奉じて外に旅する意だそうで、神を奉じてゆくことをいい、神のように自由に行動することをいう』のだそうです。

 つまり「我々は自身の内に引き下がって良く親である神をマネて學び、神の御旗を押し立てて人生と言う旅を神と共に良く遊びなさい」と言う意味になると思います。

學もそうですが、遊もその漢字の意味から考えた時、現代の「よく学び、よく遊べ」の解釈の中には神が不在です。

神から離れて行くから、神とは真逆の不調和な出来事が起きてくるのでしょう。

人は、神と共にいると言うが、どの様な意味なのかを忘れてしまっているのでしょう。

 先日、以前に白朋誌を読まれていた方から電話をいただきました。

「今のウクライナの状況をはじめ、世の中は乱れていると思います。できましたら、私達と一緒に愛と光に満ちた平和な世の中を祈ってもらえませんか」と言う内容の電話でした。

私は、丁重に、お断りいたしました。

なぜか解りますか。

ドリール先生は「多くの人が、困り、ナニかが足りない時に、神に祈る。神に頼み込む。人は、神の状とははなはだ異なった状況の時に神に近づこうとする。人は、一番神に嫌われる状態で、神に祈る。その様な祈りが神に通じるわけが無い。どうして、人は自分に何らの問題も無く、満ち足り、神と同調しやすい時に祈らないのであろうか」と、いつも言っています。

“祈り”を多くの人が間違っています。

祈りとは、頼み込む事だと多くの人が思い込んでいます。

つまり、請求書を勝手に作り、神に押し付ける事が、祈りだと思っています。

 祈りとは、同調です。

神と同じ波長に成らなければ、神とつながりもしません。

それと、頼むには、頼み方と言うものがあります。

神社などでもそうですが、神に向かう時には賽銭を入れる事から始まります。

つまり、ギブ・アンド・テイクです。

まず、相手にあげる事からです。

それも、相手が真に欲するものをあげる事から始まるものです。

あなたは、今、あなたに神がナニを欲しがっているか解りますか。

過不足の無い神が欲しがっているものを、あなたは考えた事がありますか。

神は、人間が賽銭箱に入れるお金などには興味はありません。

お金に興味があるのは、人間だけです。

人々は、神をなんだと思っているのでしょうか。

便利屋などでは、ありません。

 イエスはマタイ6-33で「まず神の国と、神の義とを求めなさい。そうすれば、その他のものは、すべて添え与えられるであろう」と言っています。

「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。・・・遊とは動くことである。常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる」 白川静『文字逍遙―遊字論』より

 それと、もう一つ。

今の人々が、忘れてしまっている智慧があります。

それは、道を歩く人々が、道を踏み外さない様に導く為のものです。

それは「見ざる聞かざる言わざる」と言われる三ざるです。

この智慧には前の語があります。

それは「神」です。

つまり、道を歩く者は「神に非ざる物事は見るな。神に非ざる物事は聞くな。神に非ざる物事は言うな」

そして、今一つ「神に非ざる物事は行うな」が続き四ざるになります。

逆を言えば、常に神を観「神の如くに行へ」です。

「神の如くに遊べ」です。

ですから、祈る時でも、今の不調和な状を嘆きながら神に近づくのでは無く、神の如き完全調和状にある様を想い描き、神に近づいて行くべきです。

「道とゴール」です。

道を観ていては、ゴールにはたどり着けません。

常に、ゴールにいる事です。

常に、神と共にいる事です。

「同行二人」です。

その時には、もうすでに祈りなどは無くなっている事でしょう。

慈 善 (2/5/22)

 白朋誌556号P27の注14に誤記がありました。

「慈善は、その人を束縛する事となる。真の慈善は、その人の環境状況を自分自身で帰える事ができる様にと霊的食物を与える事である」の“帰える”は“変える”の誤りでした。

ドリール先生は「偶然というものは無い」と言われています。

それなら、この間違いの意味はナニかと考えてみました。

 ドリール先生は、556号の中でマタイ25―31~45を引用されています。

『人の子が栄光の中に御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。

そのとき、右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいているときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである」

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか」

すると、王は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく、わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」

それから左にいる人々にも言うであろう「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 あなたがたは、空腹のときに食べさせず、かわいていいたときに飲ませず、 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからであろ」

そのとき、かれらもまた答えて言うであろう、「主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか」

 そのとき、彼は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである」』

 この二つの文の違いが、解りますか。

初めの文で、ドリール先生は「他人に対する最も大切な慈しみは、霊的なものを与える事であり、物的な施しは程々にしなさい」と言われています。

そして、イエスは「困っている人(イエスの弟子達)に、物的な施しをしなさい」と言われています。

ナニか、変ですね。

 それもそのはず、この二つの文は話している対象が違います。

イエスは、見ても見ず、聞いても聞かず、悟らない人々に対して一般道徳を語られています。

そして、ドリール先生は神秘学を学び始めた人に対して語られています。

この一般の人々と神秘学を学び始めた人々の違いとは何でしょうか。

それは、感情の制御を学んでいない人と学んだ人の違いです。

 ドリール先生は「神につながる理性を発達させ、肉に付随する感情を制御しなさい」と教えています。

なぜ、感情を制御しなければならないのかと言うと、それは因果との関連があるからです。

人は、五官を通して見聞きした情報から、様々な事を思い考え始めるものです。

その思考から想念が形成され、その人の周囲を漂いながら因と成って行きます。

人は、過去世で作り上げた因も自身の周囲に縁(ふち)の様に漂わせながら人生の輪を歩んでいます。

その時に、問題と成る事があります。

それは、喜怒哀楽と言われる感情から生じた、喜びも楽しみ等のポジテブな善因も、怒りや哀しみ等のネガテブな悪因に変わってしまう事があると言う事です。

また、その逆に怒りや哀しみ等の悪因も、喜びや楽しみ等の善因に変わる事があります。

ですが、感情のままに人生を歩いている人は、わずかばかりの善因も悪因に変えながら生きているものです。

そして、感情のままに生きていては、悪因を善因に変える事は中々できないものです。

なぜなら、その様な理性を発達させずに、感情だけで生きている人には、神の居場所が無いからです。

その様な神と無縁な生き方をし、真に善なる因を蒔かない人は、その持っているものまで取り上げられてしまいます。  (マタイ25―14~)

 何が、本当に変わる事が無い善き因でしょうか。

それは、3月につぶやいた義があるかどうかです。

神の為に理性を働かせ、思考し意志して発した義(ただし)き想念が真の善因だと言われています。

「人が、その様な義(ただし)き善なる想念を発する事ができる様にと助けてあげる事が本当の慈善だ」とドリール先生は言われているのです。

 昔、二人の雲水が旅をしていたそうです。

或る川にさしかかった時、川を渡る事ができずに難儀している若い女の人がいたそうです。

一人の雲水が「背負って渡ってあげましょう」と言い、その女の人を背負い川を渡ったそうです。

それから、しばらく行った時、もう一人の雲水が女人を背負った雲水に「あの様に、女人に接して善いのか」と言ったそうです。

女人を背負って川を渡った雲水が「なんだ、お主はまだ女人を背負っていたのか」と言ったそうです。

理性で感情を制御する事のたとえ話です。

 仏教の世界に阿羅漢と呼ばれる人々がいます。

その様な阿羅漢の人々は「我々の世俗的心にも幻的な五蘊(色・受・想・行・識)の生命的流が現れている。我々阿羅漢も、化身している限りにおいては、五蘊を保持している。なぜならば、この五蘊が、人をして現世的存在を為さしめているからである。だが、我々阿羅漢は人生の最後の時、死に際しこの五蘊を永遠に放棄する。我々阿羅漢は死に際し、自身の世俗的心を捨て去る。これが、最終的解脱であり、心の救いである」と言っています。

自身の肉体に対する慈善です。

 その為にも、ただ只管(ひたすら)坐し、イキを整え、心を静め、清明な意に神を映して行くのみです。

そうして行く内に、身が脱落し、そして心が脱落して行くものです。

ただ、感情を制御する事は、感情を抑圧する事とは違います。

お間違いなきように。

   祓

(てん)清浄(しょうじょう)()清浄(しょうじょう)

     内外(ないげ)清浄(しょうじょう)六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)

心性(しんしょう)清浄(しょうじょう)にして(もろもろ)(けが)()不浄(ふじょう)なし

我身(わがみ)六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)なるが(ゆえ)天地(てんち)(かみ)同體(どうたい)なり

(もろもろ)(ほう)(かげ)(かたち)(したが)ふが(ごと)く為す處行ふ處。

  (きよ)(きよ)ければ所願(しょがん)成就(じょうじゅ)

    (ふく)壽窮(じゅきわま)りなく。

最尊(さいそん)無上(むじょう)(れい)(ほう)。   (われ)(いま)具足(ぐそく)して(こころ)清浄(しょうじょう)ならむ。

神の国 (1/4/22)

 ある人が、メルキゼデクの神殿(一神教)を訪れた時、そこに男の像と女の像の二体の像があり、不思議に思ったそうです。

世の中には、不思議な物がまだあります。

例えば、ギリシャ彫刻の男性器を持った女神像、インド・チベットの男女合体像などです。

この様な物を見た時、神秘学的知識の無い人々は戸惑うものです。

なぜなら、これらの象徴を象徴として観ないからです。

これらの象徴がナニを表そうとしているのか、解りますか。

古代の賢者達は、これらの象徴を通して“神の状”を伝えようとしてきました。

古代の賢者達は、神とはポジテブ(男性)でもネガテブ(女性)でも無い事を、私達に伝えようとしてきました。

以前に0=-a+aだと言いました。

古代の賢者達は、零が神の状だと教えています。

天(0)から雨の如くに降り降るみことのり(-a+a)。

私達は有限な-a+aは理解し得ても、無限なる零は理解し得ないものです。

この理解し得ない神の状を、理解して行く学びが、神秘学です。

ドリール先生は「この神の状を理解する為にカバラの生命の木を学びなさい」と教えています。

生命の木は、神を学ぶ為に最も論理的で矛盾も無く知的なものだからです。

生命の木では「十の数と二十二の文字を通して、神がこの物質界を創られた」と教えています。

その神が、天下った道を通りながら、この物質界を、この私達を創り出した過程を観てみましょう。

 まず、神たるホアが存しました。

そのホアは、自身を今以上に完全なものとしようと想い、意志し想念を発しました。

この意志し発せられた想念をへブリ・神の息・霊と言います。

この神(カミ・火水)の息(イキ・水火)は、古代ヘブライ・アルファベット三母字のアレフで象徴されます。

このアレフ(イキ)が、上なる水(メム)を打ち、メムに内在している火(シン)を解き放ち、創造が始まったと言われています。

また、このアレフ・メム・シンのヘブライ・アルファベット三母字によって、生命の木の第一光球ケテルが創り出されました。

この生命の木・第一光球ケテルの性状を、古代の人々は前記の男女(ポジテブ・ネガテブ)一体の状として示しました。

これが、古代智慧の知識を持たない人々を不思議がらせる結果となりました。

カバラでは、ケテル内の男性をアブ(父)とし、女性をアイマ(母)とし、この父母から息子・チョクマーと娘・ビナーの二光球が発し、霊界が形成されたと教えています。

また、チョクマーとビナーが親と成りティペレトと成ります。

 古代ヘブライ・アルファベットは、三母字の次にベト・ジメル・ダレト・カーフ・ぺ・レシェ・タウの七複字が続きます。

この七つの語を、七複字と言います。

ナニが複(ダブル)なのかと言うと、この七複字が聖心界と共にアストラル界(四次元界・形成界)の二つの界に作用し、私達の肉体の母型であるアストラル体の七つのチャクラを形成しているからです。

ヨガなどで言われている七チャクラです。

この七チャクラは、聖心界の真我を起点として発せられ、真我と私達とを結ぶ大切なものです。

 この七複字に次いで、古代ヘブライ・アルファベットはヘイ・バウ・ザイン・ケト・テト・ヨド・ラメド・ナン・サメク・アイン・ツェディ・コーフの十二単字が続きます。

この十二単字は、巷の人々が言う黄道十二星座とか十二支の元と成ったものですが、神秘学的に最も大切な意味は、私達のアストラル体に存する十二霊センターと体内十二チャクラを象徴している事です。

 人が、この物質界に生れ出る時、物質的な誕生日時に即した体内十二チャクラの一つが最も開いた状態でこの世に生れ出ます。

ですから、人は誕生日によって十二チャクラの内の一つとより強くつながった状態で生まれ出る事から、誕生日時によっても性格がある程度決まっているものです。

占星術などの占いなどでは、単に誕生の状態でその人を限定し未来を予測して行きます。

ですが、ドリール先生は、心霊、催眠術と共に占いを固く戒めています。

それは、その人と共に術者までもが限定されてしまうからであり、聖なる因果則をないがしろにする行為だからです。

 神秘学では、その人の一番アストラル体とのつながりが強いチャクラのつながりを更に強め、そのチャクラの周囲のチャクラとのつながりを強め、最終的には十二と七つの全てのチャクラを開花させアストラル界、聖心界を通して真我とつながり、ケテルへと戻り、神へと戻れと教えています。

「神が、天下って来た二十二の道をさかのぼり、神へと戻れ」と神秘学では教えています。

これが、神の国の求め方だとドリール先生は教えています。

その時、人は、零を“神の国”を真に知る事となります。

 『それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二の部族の名が、それに書いてあった。 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった』 (ヨハネ黙示録21-12~14)

神の正しき義 (1/3/22)

 ドリール先生がよく引用されるマタイ6-33に「まず神の国と、神の義とを求めなさい。そうすれば、その他のものは、すべて添え与えられるであろう」とあります。

先月、象徴について語りました。

今月は“義”と言う語について考えて観たいと思います。

“義”と言う象徴を見て、あなたはどの様な意味を感じ取り、どの様なイメージを持たれますか。

 まずは“義”の語について調べてみましょう。

漢和辞典で“義”を調べてみると「ただしい・よい」とあります。

白川静氏の字通には、この“義”の漢字は『羊+我(ノコギリの意)で、いけにえとする羊にのこぎりを加えてきり、犠牲とする。その牲体に何らの欠陥もなく、神意にかなうことを「義(ただ)し」と言う』とにあります。

問題は、ここで記されている牲(いけにえ)の羊とは、何の象徴かと言う事です。

それは“人”です。

人の人生です。

ただ、その人とは「何らの欠陥もなく、神意にかなう義(ただ)しき人」つまり義人の事です。

 ところで、「義」の反対の語は何か分かりますか。

それは“利”だそうです。

非義や不義では無いのだそうです。

それは、孟子(約紀元前372~289)の言われた言葉『先義後利』から来ています。

「非利己的になれ」です。

「自分の事は後にして、神の事を先にしろ」です。

マタイ同様に「神の義を先に行う事で、物的な利益は添え与えられる」です。

「ギブアンドテイク(Give & Take)」です。

単純な事ですが、真に解って行える人は少ないものです。

 むかし、イタリアにガリレオと言う人いました。

ガリレオは、望遠鏡で天体を観察していて、天が地球を中心にして回っているのでは無く、地球が天を回っている事を実証しました。

いわゆる、天動説と地動説です。

「これが解りますか」とドリール先生は私達に訊かれています。

「天たる神を中心として、私達が神の周りを回っている事に気付いていますか」と訊かれています。

ですが、いかに「神をも含め周囲の全てが、自分を中心として回っている」と思っている人々が多い事でしょうか。

「そんな事は、百も承知」だ等と言う人は、義人からははなはだ離れた人で、何も解ってはいない人です。

真に解ったならば、今、この様なものは読んではいない事でしょう。

その様に解らない私達は、どの様にしたらよいのでしょうか。

神の義を行うとはどの様にすればよいのかと言うと、それは旧約聖書・ミカ書6-8に「人よ、何が善いことか、主があなたに求められるかは、お前に告げたはずだ。正義をおこない、いつくしみを愛すること、一歩さがって神と共に歩むこと、これではないか」と記されてあります。

そうは言っても、その肝心要の“神”と言うものが、解らない私達です。

古来より「写生」と言う語がありました。

生を写すと書いて「写生」

その“生”には「いきる、うまれる、あらわれる、いのち」などの意味があります。

“いのち“と言う語には”命“と言う漢字もあります。

そして、生と命で生命です。

その“命”には「いのち、さだめ、神のお告げ」などの意がありますが、字通では「神に祈り、その啓示として与えられたものを命という」とあります。

命とは口+令です。

口の漢字は、本来、神への祈願文を入れるサイと言う箱の事だそうです。

そして“令”とは「みことのり(神のお告げ)」の意です。

 ですから、正しき義の人が神に対して祈願をする際に、文をしたためてサイの箱の中に収め、天高くつるし、神からのみことのりを静かに坐していただく。

その“みことのり”として顕れたものが“生命”

そして、この世に顕れている神を写し取ることが“写生”

 古来より神の顕れを人々は絵にし、歌にし、音にして写し出してきました。

古来より、人々はこの世に顕れている神の状を写し出してきました。

「みずからをしからしめる」と書いて自然。

その神たる自を観じ、そこに顕れる生命・聖法則。

その生命を知る事が、神を知る事の始りとなります。

夏目漱石は「対象の中心点を描けばよい」と言っています。

一木一草を観、そこにナニを見出すのか。

「見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」(マタイ13-13)等と言われては人の義は解っても、神の正しき義は解らず終いです。

あなたは、神に対して自分の身を、イエスの様に牲として捧げる事ができますか。

ある禅僧が「結跏趺坐の形がナニを象徴しているか、解るか」と言われたそうです。

そして「結跏趺坐は、御祝儀袋の飾り紐の形であり、自分自身を佛に差し出している様を現わしている」と言われています。

 次回は“神の国”についてです。

松竹梅 (1/2/22)

「松竹梅」と言う言葉があります。

この「松竹梅」とは何でしょうか。

単なる、めでたい縁起物でしょうか。

古代の人々は、この「松竹梅」と言う象徴を通して、現代の私達に何を教えようとしているのでしょうか。

 一つ言える事は、象徴と言われるものは、全て飾っておくだけのものでは無い、と言う事です。

象徴と言われるもの全ては、私達自身の人生に取り入れ、活かすべき知恵です。

松竹梅を一つずつ見ていくと、松は古くから薬効が高く不老延年の効があると教えられているものです。

また、竹・笹の葉も、古くからその高い薬効と共に高い防腐・殺菌効果から生活の中で多用されてきました。

梅・梅干しも、昔から「梅はその日の難のがれ」と言われ健康と共にその殺菌作用が利用されてきています。

つまり、松竹梅とは、私達が日々の生活において、いの一番に身体に取り入れていかなくてはならないものだと言う事です。

言い換えると、象徴とは自分の人生に活かして、初めてなんぼのものだと言う事です。

象徴を飾っていては、まさに宝の持ち腐れです。

十字や五芒星や六芒星などのシンボル(象徴)も同様です。

その意味を知ろうともせずに、ただ飾っておくだけでは、何らの効も無いものです。

 よく「エメラルド・タブレット」を読みました。

「ナニナニを読みました」と言われる方がおられます。

ですが、読んでナニかに気付き「人生に活かしています」と言われる方はいないものです。

 「聖書は、全て暗記しています」と言われる方もおられますが、その様な方は暗記する事よりもイエスの血を飲み、イエスの肉を食らう事の大切さを解っておられるのでようか。

合 掌 (04/1/22)

手を合わせる所作は、インド由来のものと言われています。

合掌は、佛や菩薩行をされている方々に対する感謝の印とされています。

また、合掌は一般的に祈りの所作とされていますが、ただ、祈りとは願いではありません。人は、問題にぶち当たり解決方法が見つからない時、困った時の神頼みとばかりに両手を合わせて、見えない神に頼み込むものです。

それが生じて、自分でできない物事を親や周囲の人々に頼む時なども、両手を合わせて頼み込むものです。

本来の祈りのポーズである合掌とは、「ありがとうございます」の受領書であるべきなどですが、人間の弱さからかいつの間にか「お願いします」の請求書に代わってしまっています。

そして、合掌し意志し念じれば物事が叶うと誤って思われてしまってもいます。

引き寄せの法則などと、まことしやかに言われているものです。

正に、弱い人間の吸い寄せ器です。

何ともはや、智慧や知識の無い人々が多い事か。

 合掌し、無心に祈った時、何かが与えられるかも知れません。

ですが、それは結果です。

合掌し感謝の念を以て、無心に神を想い、神に祈る事が因と成って、果が現れる事もあるでしょうが、その果を願っていては、真に無心とは言えません。

 古来から“念佛”と言われるものがあります。

念佛とは「今の心を、人に非ざる神とする」の意味です。

ですから、手を合わせ、自身の心で神を想い、ただひたすら神と同調して行く事が念佛です。

その時に一番大切な事は、自分が想う神の状です。

私達は、自分が経験した物事を基準として、自分の神を創造して行きます。

その自分が心の中に作り出した神の状が、如何に幼稚で不完全なものでも良いのです。

ただ、その自分が作り出した神の状に満足せずに、その神の状を壊し、新たな神の状を作り出して行く事が一番大切な事なのです。

 私達が何かに瞑想している時、様々な雑念が生じてきます。

その様な雑念から意識を躱(かわ)す意味から「南無阿弥陀佛」と称える事が有効となります。

その意味などに囚われず、自分の神の状を作り出して行く事です。

その際に、手を合わせる事で、氣が巡り、真我の導きを得られやすくなるものです。

只々、両手を合わせ「南無阿弥陀佛」と称え、神を想う事です。

 神を創造すると言う事での問題です。

-1+1= は、どうなりますかと言う問題です。

答えは0(レイ)ですネ。

そうしたら 0= とは、ナンでしょうか。

レイは 0=-1+1でも0=-10000+10000にもなります。

つまり、レイとは 0=-a+a です。

0から-1が出て来た途端に+1も出てきます。

0から-10000が出て来た途端に+10000も出てきます。

私達は、-a(ネガテブ、悪、不調和)+a(ポジテブ、善、調和)などは理解できます。

ですが、-aと+aが一緒に成り、-a(ネガテブ、悪、不調和)でも+a(ポジテブ、善、調和)でも無くなったレイの状がどの様なものなのかを考える事は至難の業です。

ですが、それが神を想うと言う事です。

それが、イノルと言う事です。

新たな年に、新たな自分と、新たな神と出会えますように。   合掌

白朋舎

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