つぶやき(2024)

   

           肉体を捨てるとは?

 『「人は肉体を捨てる事で、清明光を通して全てを観る事ができる」と言った時、人々は肉体を捨てる事とは四次元投射の事だと勘違いしている』とドリール先生は言います。

「肉体を捨てる」とは「自身の肉体や物的な心にしがみ付いている執着を捨て、肉体の束縛を超越するまでにとなる事」だとドリール先生は教えています。

「肉体を捨てる」とは、死ぬ事とは全く違います。

 人は人生において問題を抱えた時、人はその問題と立ち向かうのでは無しに、その問題から逃げようとするものです。

そして、その様な人の中には、神秘学に答えを得ようとして神秘学の門をくぐろうとする人もいます。

その様な人が神秘学をかじり、四次元投射(幽体離脱)を知り四次元投射する事で問題を解決しようとするものです。

ですが、たとえ肉体から離脱し得ても、その様な人はバルドの世界をさ迷うだけです。

なぜなら、霊界を守護している者達にはね返されて霊界(四次元界)へは入る事ができないからです。

聖なる霊と同調し得ない限りは、霊界へは入る事はできません。

そもそも、その様な人は「人が物質肉体を持つ意義と意味」を認識してはいません。

 人にとって自身の物質肉体を持つ意義と意味を知る事が、人の取っては一番大切な事です。

その事わきまえもせず働きの無い者には、何も与えられないものです。

何も得られない事から、その様な人は自身の内では無しに、自身の外へと向かいます。

自分の外に答えを得ようと、偽りの神頼みや心霊や催眠や占いなどに頼ろうとするものです。

人の内には、神へとつながる清明なる道があります。

ですが、人の外には暗黒へと落ち込む道があるのみです。

そもそも、その様な人は真の光を観じた事が無い事から、黒光も光と思い込んでしまうものです。

光と言うよりも衝動とも言うべき清明光(清浄光・クリアライト)、その光を観じた時から真の神秘学は始まるものと考えています。

 ですが「なぜ人は清明光を観る事ができないのか」と考えた時、そこに人が犯しやすい過ちがあるとドリール先生は言っています。

その過ちとは「意(こころ)が、純である」と言った時の「純」に対する理解の程度です。

人は「純である」と言った時「人は、常に善想念のみを持っていなければならない」と考えてしまいます。

ですが、ドリール先生は「この様な考えは過ちである」と教えます。

「意(こころ)が、純である」とは「善と言われる事を含め如何なる概念にも囚われない事だ」とドリール先生は言われます。

この物質界には、真の清明光も無いと同様に真の善も真の悪もありません。

「歪で不完全な、この世の幻的な状に気付け」と、多くの賢者達は教えています。

イエスは「幼子の様になれ」と言いました。

方々が言われる意味が、本当に解るかどうかです。

この様な事が解らない時、肉体につらなる心と、神につながる意識の区別ができないのだと思います。

ドリール先生が言われる「感情と理性の違い」です。

感情を殺すのでは無しに、感情を道具として使う事ができるかどうかです。

そうする事が、物質界の支配と克服となります。

自身の肉体と心を、神の為の働きを為す道具として使いこなせるかどうかです。

それができた時、その時その人は肉体を捨てる事ができた時となります。

     アトランティスの栄光と衰退    (3/1/2024)

 五万年程前に大西洋に沈んだと言われているアトランティス。

なぜ、沈んだかを考えた時、そこには二極の法則が存在している事を知ります。

 悪しき者らの攻撃からゴビの地を逃れてアトランティスの島々へと逃れた善なるシャンバラの人々。

そのアトランティスの地には、善きヘブライの人々と共に悪しき蛇族の者らがいました。

ゴビの地から来た人々は、蛇族と戦い多くを排除しましたが、少数の蛇族はアトランティスの地に隠れ住んでしまいました。

この残った蛇族も、後のアトランティスの衰退の一因と成っていきました。

アトランティスの人々が戦ったと言いましたが、今日の私達と違う事が一つあります。

それは「アトランティスの人々は、決して自分自身の内では戦う事が無かった」と言う事です。

人間において、自分の外と自分の内には大きな違いがあります。

 アトランティスの地を征服した人々は、北極そしてゴビの地で培ってきた理想、哲学、神への探究を、政治を含めた全ての物事よりも優先させると言う方針に従ってウンダルの島を哲学と宗教の為に整備し、アトランティスの中心としました。

そして、残りの九つの島々全てにアトランティスの政治形態を確立して行きました。

そのアトランティスの人々が、古くから学んできた基本的原理があります。

それは、「大本にある一なる無限意識が無ければ何ものも存し得ず、その無限意識は自身の写しを人間界に持っている」と言うものです。

つまりは「神が全てであり、神が全てを創造した。そして、我々も神の創造物であり、神と共に我々は存している」と言うものです。

その様なアトランティスの人々が、常に考えている事は「物質肉体を持つ意義と意味」だけでした。

この様にして真の神と共に歩み進歩した意識を持ったアトランティスの人々には、智慧と知識が与えられ、繁栄して行きました。

 その繁栄の陰で、アトランティスの衰退の因が創り出されていました。

太極図で「陽極まりて陰と成る」と言われている状です。

それは、高き意識を持った人々が次第に地球を去って、より高位に惑星へと向かって行った事です。

そして、高き意識の人々が去った後に、低位の惑星から低い意識の者達がアトランティスにやって来ました。

これは、アトランティスに限らず、全ての文明が発達した国々で見られる衰退の原因です。

ギリシャやローマなどの歴史を見ると良くわかります。

 その様な意識の低下したアトランティスの状況下において、アトランティスの一般大衆は物的な物事に目を奪われ、神を見失い、その結果として様々な物事を誘発して行きました。

先に、二極の法則と言いましたが、この世にはポジテブが存した時、ネガテブも共に存します。

ポジテブ(霊的)なアトランティスが生じた時に、ネガテブ(物的)なレムリアも生じてきた事は、聖法則上至極当然な事です。

それが、物質界における法則です。

そして、アトランティスとレムリアの戦いが起こりました。

この戦いにおける政情不安に乗じて、邪悪な蛇族が密やかにアトランティスの人々の中に入りこみ、政治上の重要な地位を得るまでに成って行きました。

その結果、アトランティスの栄光が廃れて行きます。

また、レムリアとの戦いにおいて捕虜となったレムリア人達が多数、アトランティスの地に住むようになりました。

そして、アトランティスの荒廃に拍車をかける事となりました。

ただ、その様な状況においてもウンダルの宗教と哲学を守護する人々は高貴を損なう事なしに存していました。

 そして、最終的に地球を守護する方々はレムリアとアトランティスの人々の余りにもバランスを欠いた有り様を正す為に、先ずレムリアを沈め、次いでアトランティスを水没させました。

その時、レムリアに残された人々は地球内部交錯界へと逃れて行きました。

また、アトランティスのウンダルにいた人々は、ホーレット師の指示の下に南アメリカやイギリスを含めたヨーロッパ、中東へと世界各地へ散って行きました。

そして、最後にホーレット師らはチベットへと向かわれました。

それが、今日のシャンバラの始りです。

 つまり、今日の宗教の基礎をホーレット師らが、つくり出したわけです。

世界の宗教は同根なのです。

そして、神も一なる神が存するのみです。

アトランティスの衰退と沈没が無ければ、今の世界に存在する宗教は存在してはいませんでした。

今日のユダヤ教とイスラム教は共に、中東へと逃れたトートら一団がアブラハムらに教えたカバラなどを基礎としています。

そして、インド・チベットのバラモンとそれから派生したヨーガやヒンズー教や仏教などは、チベットの地に退いたホーレット師らシャンバラの方々の教えから発しています。

また、世界各地に残されている同じ様な神話もアトランティスの記憶の産物です。

世界に散ったアトランティスの人々は、その地の人々に見合った教え方で同じ内容を教えたのでした。

 今から80年ほど前にドリール先生は、この様なアトランティスの状と世界のあり様を観た時、私達に警鐘を発しています。

それは、今日の世界のあり様がアトランティス沈没時と似ている事です。

世界の人々の余りにも神をないがしろにした状況を観て、ドリール先生は警鐘を鳴らしておられます。

 どうか、あなたの内に存する神や真我と戦う事が無きように願います。

    旧約聖書と新約聖書    (2/1/2024)

 旧約聖書・伝導の書・3に『わたしはまた、人の子らについて心に言った「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。 人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空(聖なるイキ・アレフ)だからである。 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを』とあります。

 コヘレトは「偽善者らは、人の子の顔をしているが、獣だ」と言います。

カバラでは「人間とは、獣の様な物質肉体に宿っている神直結の霊である」と教えています。

ですが、コヘレトは「人は、その事に気付いてはおらず、獣となんら変わりが無い生き方をしている。人は獣の様に生き、そして人は獣の様に死んでゆく」と嘆いています。

 その様に、神をないがしろにして獣の様に生きている偽善者らを真の神に目覚めさせ様として、神はモーセに十戒を授けました。

獣の様な人の子らが、自身の内に宿る霊(魂)に目覚めさせる為です。

モーセが授かった十の戒律とは、次です。

1)わたしのほかに神があってはならない。

2)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

3)主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

4)あなたの父母を敬え。

5)殺してはならない。

6)姦淫してはならない。

7)盗んではならない。

8)隣人に関して偽証してはならない。

9)隣人の妻を欲してはならない。

10)隣人の財産を欲してはならない。

つまり、神をないがしろにして獣の様に生きている人の子らは、自分勝手な神を持ち、神の名を好き勝手に唱え、七日に一度の安息日にも神を向かず、父母を侮り、殺しや姦淫や盗みをし、嘘をつき、隣人の妻や財産を欲していると、神は嘆きます。

その様にして諭そうとしても覚らない人々には、神は更なる災いをゼブラーを通して与えて行きます。

 その様な中で神は人の子らを観て、人の子らの中にも正しき義を行える子らがいる事を知ります。

正しき義を行える子らがいる事を知った神は、その様な人々を導く為にイエスを偽りの神々がいる中へと降臨させました。

そして、イエスは偽善者らから悪人と罵られている人々に教えを説きます。

イエスは答えられた、『第一のいましめはこれである「イスラエルよ、聞け、主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」第二はこれである、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」これより大事ないましめは、ほかにない』  (マルコ 12-29~31)

これが、獣の如くに生き死んでゆく人の子らと神との旧き契約に代わる、新しい契約です。

この新しい神との契約は、正しき義を行える子らとの契約です。

この新しい神との契約は、獣の如くに生き死んでゆく人の子らは、結ぶ事ができない契約です。

なぜなら、獣の如くに生き死んでゆく人の子らは、霊とまこととを以って礼拝し得ないからです。  (ヨハネ 4-22~24)

霊とまこととを以って礼拝し得る悪人と罵られる人の子達。

偽りの神を何も知らないままに拝んでいる偽善者たる人の子ら。

 いつの世でも、偽りの神を何も知らないままに拝んでいる偽善者たる人の子らの如何に多い事か。

その様な人の子らの想念が、地球を覆い、その想念が形を取って現れています。

人の子らは、この世の状を見ても変えようとも思わないのでしょうか。

自分に、その様な状が現れてからでは遅いのですが・・・

 『あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい(ゼブラー)。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである』 

(ヨハネ 8-15~16)

生まれ変わりと因果    (1/1/2024)

 ドリール先生は『私は、人々に「輪廻(生まれ変わり)を、信じていますか」とは尋ねはしない。私は、人々に「輪廻の法則を通して人生の諸状況を考えていますか」と尋ねる』と言います。

ですが、ドリール先生が本当に言いたい事は『私は、人々に「輪廻と因果を信じていますか」とは尋ねはしない。私は、人々に「輪廻の法則と因果の法則を通して人生の諸状況を考えていますか」と尋ねる』だと思います。

 私達の今の人生は、たった一回限りの人生ではありません。

私達は、果てしない生と死とを繰り返す輪廻を幾万回も繰り返してきました。

ただ、新たな肉体へと生まれ変わる時に過去の記憶を消されて生まれ変わる事から、人々は輪廻を真に受け止める事ができずにいます。

その様な人々を見た時、心ある方々は、私達に輪廻と因果を教えてきました。

釈尊は、この世の状を「一切皆苦」と言いました。

釈尊を含めた多くの方々は、人々に「いつまでも苦の中にいる事は無い」と諭しています。

そして、その苦しい人生を何回も繰り返す事を止める為の解決方法として、智慧ある方々は因果の法則を教えてきました。

 ここまで言うと「輪廻も因果も知っている」と言うかもしれません。

ですが、因果則を使い輪廻の輪を断ち切る事ができないから、私達は今ここにいます。

今の私達は、輪廻も因果も他人事の様にして、心底から知ろうとはしてはいません。

ですから、私達は輪廻の輪を断ち切る事ができずに、生まれ変わりを繰り返しています。

なぜ、輪廻を断ち切れないのでしょうか。

一番の問題は、因果則においてナニが善因で、ナニが悪因かを知らないからです。

今の私達は、善因を撒く事ができないから、輪廻の輪を断ち切る事ができずにいるのです。

そのヒントが「ルカによる福音書15章」にあります。

少し長いのですが、読んでみましょう。

 [ルカによる福音書 15章]

さて、収税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。

そこでイエスは彼らに、この譬をお話になった「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜しに歩かないであろうか。 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めが必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」

  また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。 そして見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」

また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たした。 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。 そこで彼は本心に立ちかえって言った『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません』しかし父は僕たちに言いつけた『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』それから祝宴がはじまった。ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、 兄は父にむかって言った、『わたしは何年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」

 このルカによる福音書15章で、イエスが言わんとしている事が解りますか。

イエスは、私達の様を観ています。

そして、自身の外なる一切皆苦である物質界に囚われ、死んだ様に人生を歩んでいる私達が、自身の置かれている苦の状に苛まれ、自分の無力さに打ち負かされた時、人はどの様な行動を取るのでしょうか。

豚のエサまで食べようとするまでに落ちた時、人の取る行動には三種類あります。

 その一つは、自分の今の状に怯えすくみ、何もできずにいる事です。

何もせず、立ちすくんでいるだけですから、何も変わり様はありません。

今一つは、自身の外に助けを求める事です。

外に助けを求める人々は、神社仏閣や占いや心霊にすがるものです。

ですが、その様な弱き人々も、真に本心に立ち還っているとは到底言えません。

ですから、その様な弱き人々も救われる事はありません。

もう一つは、自身の内に助けを求める事です。

内を向き、自身を真摯に見詰め、真に本当の自分に気付き、真の自分に助けを求める事です。

その様な時、真の自分が助けてくれるものです。

それが他力の力です。

親の子に対する思いとも言えるものです。

その親の思いを知り、内なる親の方を向き、親と一体となる事が、善の善です。

それが、善因となります。

善因を撒く事から、善果が与えられます。

それが、法則です。

 そう言うと「私は、いつも神の方を向いて拝み祈っている」と言うかもしれません。

ですが、思いの深さ、真剣さは、どん底を味わった者と、一見平穏そうに過ごしている者とでは、雲泥の差があります。

イエスは、勤勉な兄と放蕩者の弟で、その違いを言っています。

イエスは皮肉を込めて、パリサイ人や律法学者たち善人を勤勉な兄とし、収税人や罪人たち穢れた者たち悪人を弟として語っています。

自身の罪に目覚め、自分の悪に真に気付いた人は、自分を「私は悪人だ」と言います。

そして、自分の悪に気付く事が無い人は「自分は善人だ」と言います。

イエスは『なぜ、兄弟の目の前にあるちりを見ながら、自分の目の前にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりをとりのけることができるだろう』とマタイ7で言っています。

イエスは「私は善人だ」と言っている人々は「偽善者だ」と言っています。

イエスは、兄やパリサイ人や律法学者たちを含めた私達を偽善者だと言っています。

イエスは、その様な偽善者達は狭き門をくぐる事はできないと言います。

 悪者は、何事にも自分が悪者になって相手を観るものです。

悪者は、自分に非があると言う点に立って物事を考えます。

ですが、偽善者は自分を善人として相手の悪を見出そうとするものです。

偽善者は、相手に非があるはずだと言う観点に立って相手を見ます。

ですから、私達偽善者は、いつまで経っても自身が犯した罪を認め事ができずにいます。

私達偽善者は、いつまで経っても神と向き合う事ができず、アダムとイヴが犯したと言われる原罪(天の国からの失落)を克服する事はできないものです。

偽善者は、いつまで経っても輪廻の輪を断ち切る事ができないものです。

 人は悪人となって、初めて自身の犯した過ちに気付き、自身の本当の自分に気付き、初めて神と向き合って「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」と言えるものです。

そうする事が、善因を積む始りとなります。

 昔、日本にも一人の悪人が誕生しました。

それは、親鸞です。

親鸞は、悪人になって初めて知りました。

そして、親鸞は「善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と言いました。

親鸞は越後へ流される前の自分を善人とし、流罪となった自分を悪人としています。

 本年こそは、自分が悪人と成れる様にと頑張ります。

皆様にも、悪人に目覚められ本心に立ち還られます様にと願っております。

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