つぶやき(2026)

         顕教と密教     3/1/2026

日本の仏教の教えには、顕教と密教と言う二つの教え方があります。

この顕教と密教をネットなどで調べると、次の様に言われています。

顕教とは、経典などの文字を通して釈尊の教えを学んで行くもの。

密教とは、釈尊の言葉では無しに様々な行などを通して、大日如来の教えを学んで行くもの。

ですが、今の日本の顕教と言われている仏教を起こした法然(浄土宗)親鸞(浄土真宗)道元(曹洞宗)日蓮(日蓮宗)などの方々は、みな比叡山の天台密教を学んできた人々です。

その様な密教を学んできた人々がなぜ顕教を起こしたのでしょうか。

考えてみたいと思います。

 顕蜜を考えるために、先ずモーセの十戒をみてみましょう。

「仏教を観るのに、なぜ旧約聖書なんだ」などと言わないでください。

全ての宗教は、シャンバラから発せられたものだからです。

全ての宗教の頂点は同じですから、ご安心ください。

「唯佛与佛(ただ佛と佛のみが互いを知り得る)」です。

   [モーセの十戒]

1:私の他に、神が有ってはならない。

2:偶像を作ってはならない。

3:神の御名をみだりに唱えてはならない。

4:安息日を覚え、これを聖なる日とせよ。

5:父と母を敬え。

6:殺してはならない。

7:姦淫してはならない。

8:盗んではならない。

9:隣人に対し、偽りを言ってはならない。

10:隣人のものを欲しがってはならない。

 モーセの十戒は、1~4と5~10の二つの部分に分かれています。

1~4は、人と神との間の戒律です。

5~10は人と人の間の戒律です。

言葉を変えると、霊界における蜜なる決まり事と物質人間界における顕なる決まり事です。

これが、密教と顕教の違いです。

この違いの根本が、ナニか解りますか。

それは、自分の肉につながる心とは違う意識に目覚めているか否かです。

 人間は自分の内に神とつながる意識を持っています。

この神につながる意識に目覚めているか否かです。

この神につながる意識を目覚めさせるための教えが宗教です。

世の中には様々な意識レベルの人がいます。

多くの人に、意識と言っても理解し得ません。

その様な人には、モーセの十戒の5~10を学んで行く事から始まります。

これがキリスト教と呼ばれる宗教の学びです。

 これを無視してしまうとどうなるか。

今日のキリスト教には、カトリックとプロテスタントの二つの教え方があります。

カトリックは、イエスやマリアの像と言った偶像を用いて導いています。

プロテスタントでは、偶像を禁止し、聖書を唯一無二のものとして導いています。

でも、意識を知らない者が、モーセの1~4を行ったらどうなるのか。

過ちを犯してしまいます。

聖書を聖書に記されている文字だけを自分読みし、聖書の言葉の中に存する霊を解き放たねば、霊に怒られてしまいます。

文字だけを読んでしまうことから、神の存在を穢してしまいます。

個人崇拝が起こり、カルトの始まりと成ります。

「人を見て法を説け」とは、良く言ったものです。

意識に目覚めていない人は、先ずはたとえ話や絵本から始めなければ神への道は理解し得ないものです。

 中国の禅僧が、悟りへの道を表す「十牛図」の象徴をつくり出しました。

「十牛図」の初めに道に立つ子供がいます。

そして、次の図で子供が道に付いた牛の足跡を見つけ出します。

ですが、この子供や牛、そして子供が立っている道がナニを意味しているかは、意識に目覚めた人でなければ理解し得ないものです。

絵と言う象徴でも、描いた人のレベルまでに進歩しなければ、その意味は理解できないものです。

 「そんなものは解っている」と言う人に、イエスは次の様な言葉を残しています。

(マタイ十三章)

『その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。

 ところが、大勢の群衆がみもとに集まったので、イエスは船に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。

イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、

「耳のある者は聞くがよい」

それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか。

そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう。

だから、彼らに譬で語るのである。それから彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。

こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。

この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないからである』

 しかし、あなたがたの目はみており、耳は聞いているから、さいわいである。

あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。

そこで、種まきの譬を聞きなさい。

だれでも御国の言葉を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。

 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。

その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起こってくると、すぐつまずいてしまう。

 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。

また、よい地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」』

 文字や言葉をそのままに人間の心で読み聞く人。

文字と言葉の中の霊を神につながる意識で読み解く人。

 意識に目覚めていない人を導くために、人間の言葉を用いる学びが顕教です。

人の子として生まれ出て、自分の肉につながる心を克服し支配し、聖者(マスター)となり神の子となった釈尊やミラレバやドリール先生などの聖者方は、人の子の苦労を知っていることから意識に目覚めていない人々は共感し易いものです。

この様な方々の人の子としての行いや言葉を学び、自身の意識に目覚めて行く学びが顕教の学びです。

それに対して、失落せずに神の子のままに、この地上へと来臨したイエスやハルジャスは、人の子の苦労はそれほど経験してはいません。

ですが、神の子としての霊的経験は人の子にはうかがい知ることはできないものがあります。

その言葉にもまた、霊的な神の言葉が豊富に潜んでいるものです。

神の言葉を学ぶ、これが意識に目覚めた者の蜜なる学びです。

つまり、密教とは神につながる意識で神を求める学びだと言えます。

これが密教と言われる神秘学(オカルト)です。

 イエスの弟子達は、イエスに神の言葉を教わる前に洗礼のヨハネによって顕教と密教の基礎を学んでいた事からイエスに「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されている」と言われたわけです。

 これらの顕教と密教を含めた人の進歩の状を、意識の三段階としてドリール先生は教えています。(神秘形而上学入門P74参照)

今あなたは、自分がドリール先生の教える意識の三段階のどの状にいるかが解りますか。

 最後に、ドリール先生が良く話されている「釈尊と二人の弟子」

兄弟子が釈尊に「自分は後何回生まれ変わると悟れますか」と訊ねた時、釈尊は「後、十回の生まれ変わりの後」と言いました。

それを聞いた兄弟子はあまりの長さに頭をかきむしって泣きました。

弟弟子も釈尊に「私は、後何回生まれ変わると悟れますか」と訊ねたところ、釈尊は「後、一万回の生まれ変わりの後」と言いました。

弟弟子は自分も悟れる事に歓喜しました。

 今、白朋を学ばれている方でもあなたは自分が後何万回生まれ変わると神の言葉を話す事ができると思いますか。

まさか、十~二十年で神の言葉を話せる等とは思ってはいませんよね。

白朋誌と言う顕教を、只管(ただひたすら)学んでいますか。

読むだけでは無く、書き写していますか。

それ位の学びをやらずに、顕なる教えは学べはしないものです。

白朋誌の内に秘されたドリール先生の想いを解き放つためにも、白朋誌を書き写すことをお勧めいたします。

     七日間メソッド    (2/1/2026)

白朋誌は、昨年の十二月号で600号となりました。

2000年に初めて富山の白朋舎を訪れ、白朋誌を購読し始めました。

それから十二年後の2012年1月から白朋舎を引き継ぎました。

そして、十四年です。

昨年で七年が二回の十四年です。

今年から新たな七年が始まりました。

 なんで「七」を取り上げるかと言うと「七」は周期の数だからです。

皆さんも生まれてからの七年毎を振り返ってみてください。

その七年毎にネガテブ(潜在)とポジテブ(顕現)周期が読み取られると思います。

ネガテブは悪いと言う意味では無く、貯える時期と考えた方が良いと思います。

その貯えたものが現れる時がポジテブと考えてください。

 でも、ナンで私だったかのか。

それは、うぬぼれからではありませんが「招かれる者多かれど、選べれし者少なし」の状だったからです。

多少、私の方がましだったと言う事です。

ナニがましだったかと言うと、神の方への向き方の問題だったと思います。

私も大いに自分の人生を見ていますが、神の方へも向いているつもりです。

白朋舎を引き継いで十五年目ですが、やはり見ていて自分の人生に囚われている方が多くおられる様に見受けられます。

そして、自身の人生に囚われている方は総じてその事に気付いてはいない御様子です。

そこが、一番の問題かと思います。

例えば、白朋誌601号「同調」でドリール先生が、病や家庭環境や貧困の状を改善した話が出ています。

その時に、人生に囚われている人は、自分もそう成りたいと願ってしまうものです。

でも、その様な人が見ているものは、ただ「結果」です。

その様な人は「原因」を観てはいません。

ドリール先生も、わざと「原因」については遠回しにしています。

なぜなら「その原因を探せ」との意味です。

「その原因に気付かない限り、囚われたままの人生だ」とドリール先生は言います。

 お年玉の意味から、その「原因」を言うなら「神との同調」です。

神と同調し満たされ完全な神の状が、不調和な不完全な人に顕れ、神の調和が現れたと言う事です。

高みにある水が、低地に流れ降る状です。

普段、人は高みにある水が流れ降る事を妨げています。

妨げる事を止めれば、流れ降るだけです。

これも、法則です。

 では、同調するためにはどうしたら良いのかです。

そこで無い知恵を振り絞ってもわからないので、願い教えてもらいました。

それが、次の七日間メソッドです。

 ただ、七日間を通して、沈黙し孤独になり内を向く事が大切です。

何らかの効がありましたら、真我にお礼を言ってあげてください。

神(聖法則)との同調のための七日間

一日目

沈黙の内に、自分の心(低級自我)を観察する。

自分の想念を見つめる。

二日目

沈黙の内に、神の概念、あなたが思う神を書き出す。

神の概念と自分の想念の違いを見つめる。

鏡を見「我は、神の○○を顕現させん」と言葉に出さずに心の内で誓う。

三日目

自身の内で、その神の概念と違う自分の想念に『No!』と言い否定しろ。

そして、自分の想念を神の概念の方へと変えて行け。

四日目

自分の想念と違う神の概念を一つ取り上げ、その概念を自分のものとして自身に顕せ。

五日目

神のためにナニか一つ行をおこなう。

(例えば、断食、瞑想、光明真言を百八回となえる、など)

六日目

神の概念のまま二十四時間行動する。

七日目

何もせずに、沈黙の内で自分を観察する。

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七日間を通して、沈黙し孤独になり内を向く事が大切です。

そして、この七日間を3~4ヶ月おきに行いなさい。

     ソロモンと知恵    (1/1/2026)

ソロモンの父ダビデ(BC1040~961)は、ペリシテ最強の戦士でガト出身の巨人ゴリアテを石投げで倒し、古代イスラエル王国第二代国王(在位BC1000~961)となりました。

そして、ダビデの子ソロモン(BC1011~931)は、古代イスラエル王国の第三代国王(在位BC971~931)です。

 そのソロモンに神は、夢の中で一つの願いを述べるようにと言いました。

「ソロモンは,民を公平かつ賢明に裁くことができる、知恵と知識を願い求めました。

神は喜び、ソロモンに賢くて理解のある心を与えます。さらに、ソロモンが従順であり続けるなら、富と栄光と長寿を与えるとも約束しました」(旧約聖書・列王記第一・第三章)

これが「ソロモンの知恵」と言われるものです。

 今回、ナニが言いたいかと言うと「知恵とはナニか」です。

辞書を引くとチエには「知恵」と「智慧」があります。

「知恵」とは「物事の道理を判断し処理して行く心の動き」

「智慧」は仏教的な意味で「智とは相対世界を観る働き、慧とは相対世界における悟り、つまり、この絶対的世界とは異なる相対的世界における真理を見極める認識力」となっています。

このような「知恵」

多くの人々は、勉学に勤しむことで、人は知恵を付け得ると思い自力で頑張っています。

ですが、ここが知恵あるソロモンと私達の違いです。

ソロモンは、知恵とは神から与えられるもの、神から授かるもの(他力)である事を知っていました。

ですから、夢で神が「願いを一つ言え」と言った時、「知恵を与えてください」と言いました。

ソロモンは、知恵とは人間が努力(自力)しても得られないものだと言う事を知っていたから言えた言葉です。

そのような真の知恵を知らず、猿真似をして浅知恵に狂っている人々を、老子は次の様に諭しています。

老子第十九章

「智恵など追っ払い,知識など捨ててしまえ。

そうすると民衆は,百倍もの利益を得るだろう。

慈愛など追っ払い,正義など捨ててしまえ。 

そうすると民衆は,親族間の親愛を取り戻すだろう。

狡知など追っ払い,“効用”など捨ててしまえ。そうすると,泥棒や追いはぎなどいなくなる。このような三様の言い方では,表面的で,十分ではないので,民衆がわかる形で記してみようか──

 素朴さはそのままがよい。

生地のままで振る舞え。

利己は控えめに、欲はほどほどがよい」

 老子は、人々が知恵だ知識だなどと言っているものが、単なる情報にすぎない事を知っていました。

その様な情報をいくら頭に詰め込んでも、人のためにも自分のためにもならずにかえって害になると老子は言っています。

なぜなら、情報とは過去の記録にすぎません。

明日を創造するのに、過去の情報を基にしていたのでは、なんら新しきものは生み出されません。

こんな事を言うと「人類は進歩してきたではないか」と言う人達がいる事でしょう。

人類の進歩発展に寄与して来た人々とは、真の知識と知恵を神から授かった人々です。

その様な人々がいたから、人類は進歩し発展してきました。

ですが、その進歩を浅知恵にたけた人々が悪用してしまうものです。

それが、今の世界の状況です。

 いかに神とつながり、神から知恵と知識を授かった人の少ないことか。

偽りの知恵を持ち神をも恐れない人々が、神とつながり神から知恵と知識を授かった人達をどれ程までに迫害してきたことか。

ソロモンは、旧約聖書・伝道の書で言います。

『空の空、空の空、いっさいは空である。

日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。

悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ』

 最後に「他力と自力」についてですが、「他力と自力」とは言い変えたら「神を知った人と知らない人」と言えます。

神を知らず、神がいない人では、神や真我はナニもできません。

神を知らず、神がいない人には、神や真我は知恵を与えようがありません。

ですから、「神を求めよ」と言った時に、神を知らない人は単純にそのまま「神様!神様!」と神を求めます。

その様に神を求めるから、神は逃げて行きます。

では、どうしたら良いのか。

来月まで、お考え下さい。

これが「引き寄せの法則」につながります。

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