つぶやき (2025)
ヘブライ・アルファベット二十二文字 (12/1/2025)
ヘブライ・アルファベットの一文字一文字は、それぞれが或るものを象徴しています。
セフェル・イェツィラー(創造の書)では、この世の全てのものは十の数字とヘブライ・アルファベット二十二文字で象徴される三十二の道に沿って来たと言われています。
今回は、そのヘブライ・アルファベット二十二文字を取り上げます。
ヘブライ・アルファベットは、下記の三母字・七複字・十二単字からなります。
三母字:アレフ・メム・シン
七複字:ベト・ジメル・ダレト・カーフ・ぺ・レシェ・タウ
十二単字:ヘイ・バウ・ザイン・ケト・テト・ヨド・
ラメド・ナン・サメク・アイン・ツェディ・コーフ
創造の始まりを示す母なる三つの文字は、生命の木における第一光球ケテル内のホアを取り巻く三角形で象徴されています。
アレフは、ホアの息の象徴。
メムは、上なる水の象徴。
シンは、火の象徴。
そして「アレフたるホアのイキ(活氣)が上なる水(メム)を打った時、その水に内在するシン(火)が解き放たれ、創造が始まった」とビッグバンを教えています。
続く七複字。
この「複字」とは、生命の木の聖心界と形成界(アストラル界・四次元界)の二つの界に重なって顕現している諸力の象徴を示しています。
重なると言うよりも、聖心界と形成界の二つの界をつなげていると言った方が良いかも。
そして、この二つの界に重なって顕現している存在とはナニかと言うと、それはヨガなどで言われている七チャクラです。
松果腺のサハスララに始まり、尾骨(仙骨)のカンダの間に反映している、七つのチャクラ(センター)です。
そして、十二単字です。
十二単字とは、アストラル界の十二の門の象徴です。
人間は、この十二の門の内一つが微かに開いた状態でこの世に生れ出ます。
これが、十二支や黄道十二宮の事でもあります。
占いなどでは、その人の生れ月による運勢をとやかく言いますが、神秘学では現状に流されているのでは無しに、積極的に自身に微かに開いた門を、大きく開きながら他の門も開き、自身の人生の主人公になれと教えます。
この十二の諸門の中心にあるのが、サハスララ(松果腺)です。
サハスララを通し微かに開いた門から諸力が、私達の肉体に降りそそいぎ、私達の肉体を活かしています。
ですから、神秘学では肉体の松果腺を活性化させてる事に主眼をおきます。
そして、十二の門を開きアストラル体とのつながりを強めて行きます。
七チャクラやクンダリーニを揚げる事などは、その後の事となります。
この順番を間違うと、潜在意識が耐えきれずに変調をきたす事となります。
十二と言う数字は、私達の身近でもよく使われています。
時間は、十二ヶ月、十二時間、六十分。
そして、私達は十二をダースと呼んでいます。
酒類がそうですし、鉛筆などもそうです。
この十二が九つ(物質界での限界数)で百八となり、十二が十二で百四十四のグロスとなります。
人は七チャクラを開いて、聖心界へと昇ります。
ですが、聖心界から霊界へ昇るには、或る門を開かねばなりません。
それが、生命の木のティペレトとケテルの間にあるダースと呼ばれるセンターです。
このダース・センターを開かねば、人は霊界へと昇ることができません。
ですから、ドリール先生が教える生命の木ではティペレトとケテルの間を結ぶ線はありません。
「人が、肉体を離脱して形成界に上がり、自身のアストラル体を観た時、十二チャクラと七チャクラがアストラル体に輝いている状を観る」とドリール先生は言っています。
いつも私は、朝に「今日は飲むまい」と思います。
ですが、夜には「一杯くらいなら、まぁ良いか」と、朝の思いはどこへやら。
三日も持たず、半日です。
でも、そんな意志薄弱はどこへやら、くよくよせずに、一杯の焼酎にささやかな幸せを見出し、真我に「いただきます」の一言を伝へ、毎夜白麹の焼酎をチビリチビリと頂いている私です。
でも、なんでこう意志薄弱なのでしょうか。
と、考えても無理!
なぜなら、本当に酒を止めようとは思っていないからです。
自分で本当に思ってもいない事は、できるわけが無い!
そんな、私ですが一年に四回は、断酒しています。
それは、或る行をする際に断食してから行えとドリール先生に言われているからです。
断食すると、普段の不摂生による内臓などの疲れが一度に出てきて眠くて眠くて、酒を飲む暇が有りません。
それで、一年に四回は自然と酒を飲まずにいられます。
これナンでか、解りますか。
要するに意志の強さの問題なんです。
私の様な意志薄弱な者でも、強く意志さえ出せればできるんですね。
人は、様々な性(さが)を持ってこの世に生れ出ます。
この生まれながらの性は、自分ではどうしようもないものです。
この生まれながらの肉体的性は、人生を歩む上で善い事も悪い事も生じるものです。
ある人は、この自分に与えれた性によって間違いを犯してしまう事もあります。
その過ちが大きければ大きいほど、その人はその過ちと向き合い考えるものです。
その人は、その原因を探し出して行きます。
ただ、先月でも言いましたが、人は自身の今の人生での肉が為した行為だけを見てしまうものです。
親鸞聖人は、弟子に「お前は、俺に従うか」「俺の指示に従うか」と訊きました。
弟子は「はい、従います」と言いました。
親鸞聖人「それじゃ、出かけて行って千人の人を殺してこい」と言います。
弟子「そんな事はできません」と言います。
親鸞聖人「お前は、やりますと言ったじゃないか」
弟子「ですが、私には人を殺めるなどと言う大それた器量はありません」
そこで、親鸞聖人は「それが縁と言うものだ」「縁があれば、人を殺そうなどと思っていなくとも、してしまうものだ」と言い、因縁の怖さを語りました。
神秘学的には、肉が為した因は小さな因でしかありません。
その様な小さな因を取り除いたとしても、大きな一大原因が有る限り、人の人生においては常に様々な因を蒔いてしまうものです。
そして、人は化身を通してその蒔いた小さな因による果と出合って行きます。
人は、その小さな結果に囚われ、その背後に隠れている大きな因を見逃しているものです。
人が因果則を支配しようとした時、その隠れている一大原因を知り得るか否かです。
ですから、ドリール先生は「もし、あなたが完全な顕現(神)から自身が分離しているとの認識を取り除いた時、あなたは完全状で顕現し得る」と言います。
つまり、神との分離状が人間の一大原因だとドリール先生は言います。
そして、人が今の自分が神と分離している事に気付き、神との分離状を取り除き、神と一体となった時、一大原因は無くなり縁も無くなる(無縁)、とドリール先生は諭します。
それまでは、一大原因から人間の心を通して次々と因を出して行きます。
神と分離した人間には、どうしようもない縁です。
先月の終わりに「人間にしかできない反省とはナンでしょうか」と問いましたが、答えが解りましたか。
それは、一大原因を悟り、一大原因を取り除く様に意志する事です。
そして、神同様の完全状を悟る事です。
神同様に強く意志する事です。
これが、親鸞が「一生の内で真心を込めて一度だけでも念佛を唱えれば良い」と言っている意味でもあります。(念佛とは今の心を佛とする事です)
ただ、間違わないでください。
天につながる事を意志するなら良いのですが、地なるものを意志し様としてはなりません。
天につながる物事を強く真心を込めて念じる意志は、神につながる意識(魂)が働きます。
ですが、地につながるものを強く肉につながる心で念じても、それは心が働くだけで意識(魂)は働きません。
イエスは「まず、天の国と天の義を求めよ、さすれば、これらのものは全て添え与えられるであろう」と言っています。
ですから、賢者は「回り道をしろ」と教えています。
欲に駆られて、順序を間違えては何も得られない処か、全てを失ってしまいます。
肉に連なる心では無しに、神に連なる意識(魂)を働かせ得るか否かです。
イエスは「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない」と言います。
自分が変わろうとした時、今までの様に心に支配されたままでは、変わり様がありません。
無理に、肉に縛られている心で神を求めて行ったなら、その心は耐えきれずに折れてしまいます。
神を求めるには、意識(魂)を目覚めさせ、意識(魂)で神を求めて行かねばなりません。
それには、松果腺に意識を集中させてAUMを唱えて行くばかりです。
と、歯が浮くようなきれい事を幾ら並べても、中々にできないものです。
なぜでしょうか。
それは、私が酒を止められない事と同様に、この世の物事に執着しているからです。
神よりも物では、話が始まりません。
心底から神を真我を想い、共に遊べるかどうかだと思います。
反省するならサルでもできる (10/1/2025)
昔「反省するならサルでもできる」と言う言葉が流行った事があります。
サル回しの芸から始まったとか言われている言葉です。
「反省」とは、自分の行いを振り返り、その中での誤りを正して行くです。
でも、この反省。
サルでもできる反省では、意味はありません。
ですが、サルでもできる事をやらねば、サル以下と成ってしまいます。
まずは、間違ったら、謝る事が最低限必要です。
それから、どうするかでサルと差がついてきます。
どうしたら良いでしょうか。
一番いけない事は、自分のネガテブだけを見、ネガテブと戦う反省は、無意味と言うよりも、やる事で一層ネガテブの雪だるまができ上って行きます。
こうなっては、やらない方がマシです。
やらなければならない事は、その過ちを犯した原因を突き止める事です。
そして、その原因を取り除いて行く事です。
その様に、原因を突き詰めて行く時に神秘学を学ぶ者が為さねばならない事があります。
それは、肉につながる心で肉のした過ちを見ているのか、はたまた、霊につながる意識で意識的な過ちを観ているのかどうかです。
肉でした事を見ているだけなら、サルでもできます。
ですが、霊に、真我につながる意識で自分を観る事は人間にしかできません。
「因縁」と言う言葉があります。
大きな因の縁に付いている小さな因。
その小さな因を見て、その小さな因を消そうとしてもムダと言うものです。
なぜなら、ど真ん中に大きな因があるからです。
その中央の大きな因を消さない限り、その大きな因から小さな因が無限に湧き出てきます。
その大きな因とはナニか分かりますか。
それは、先月でも話した「神との不調和」です。
人間アダムは、わざわざ神とは不調和な存在と成り、神の代わりに神の仕事をするために霊界からこの世へと来た存在です。
この物質界に存在するために神とは不調和と成った事が、私達人間の一大原因です。
その一大原因があるから、ネガテブが寄ってきます。
それが嫌なら、元の神と調和状の第一番目のアダムに戻れば良いだけの話です。
神と調和状に戻る事を知る事は、人間だけができる反省です。
そのためには、ナニをしなければならないのか。
それを知る事が、真の反省です。
この真の反省は、人間一人一人が自身の内に入り、やって行かねばならない事です。
ただ、その際に注意しなければならない事が一つあります。
決して、安易に神秘的な技法を得ようとしてはならないと言う事です。
安易にチャクラやセンターを開けようとした時、その人が肉の欲から行った時には、ネガテブなチャクラやセンターが開いてしまいます。
もし、ネガテブなセンターが開いてしまったなら、取り返しがつかない事と成ります。
そうなったら、いくらサルの様な反省をしても元には戻りません。
松果腺(サハスララ)のつながりが切断され、暗黒に落ちて行くのみです。
ですから、ドリール先生は「私が教える学びは万人向けのものでは無い。私が教える学びは自身の物的人生を神のために積極的に努力し生きようとする者のためのものである」と言っています。
人間にしかできない反省について、お考え下さい。
P.S.
私は知らなかったのですが、最近安易にカンダの下に意識を下ろしセンターを開けようとしてるグループがあるそうです。
カンダの下には、三つのネガテブセンターが有ります。
ポジテブセンターは中々開かないものですが、ネガテブセンターは簡単に開いてしまいます。
ネガテブセンターが開いてしまうと上記の様な結果になってしまいます。
急がば回れです。 甘い言葉にはご注意ください
旧約聖書・創世記と生命の木―その四 (9/1/2025)
〇主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」
(旧約聖書・創世記・3―22)
「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」と神は言いました。
この言葉が、全てだと思います。
この神の言葉を読み解いて行きたいと思います。
先ずは、6月からのおさらいをしてみましょう。
エデンの園の中央に生えている善悪を知る木の実を食べたエバとアダム。
食べた事で、私達人間はポジテブ(善)とネガテブ(悪)の平衡を失い、光と暗黒が共存するこの三次元物質界で、神の働き人として生きる様になったわけです。
ポジテブ(善)とネガテブ(悪)が均衡状にあるあの世(霊界)とは異なり、不均衡状なこの世。
3-22で「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ」と「~からも」と言っている事から、エバとアダムは初め「命の木」では無しに「善悪を知る木」に生っていた実を食べた事が分ります。
でも、なんでそうなったのか。
それは、神が自身の周囲を観回した時、周囲には神とは不調和状の暗黒が存在していた事から始まりました。
神は、その暗黒を自身とも同調し得る調和状にしようとしましたが、神は暗黒を捕らえる事ができませんでした。
そこで、暗黒を捕らえる目的で不調和な暗黒とも接する事ができる三次元物質界マルキュトを創造しました。
そして、そのマルキュトで神の代わりに働くべき道具として、私達人間を神は自身のかたちに似せて創造しました。
私達人間は、創造当初は神同様のポジテブとネガテブが均衡状で存在する状にいました。
ですが、その様な均衡状にいては、物質界では存在し得ない事から、神は原初の人間アダムからそのあばら骨の一つを取り出し、そのあばら骨から女・エバを創り出しました。
均衡状にいたアダムが不均衡の男・アダムと女・エバとに分かれた瞬間です。
つまり、人間は不完全で不均衡で欠乏の状に置かれたと言う事です。
人間は不均衡で欠乏した状におかれた事で、容易にネガテブな事もできる者となりました。
人間は、簡単に暗黒とも接し、暗黒とも成れる者と成ったわけです。
これが、神が創り出した人間の本性であり、全ての大元の原因です。
と言うと、ナニか夢も希望も無い状態です。
ただ、神は私達人間に今一つの特性を与えています。
それは、神自身の霊を私達人間の内に吹き込み宿している事です。
私達人間は、自身の肉体を通して暗黒ともつながる事ができると共に、私達人間の内に内在する霊を通して神ともつながる事ができる存在です。
これで、三次元物質界における神にはできない仕事をするための働き人ができ上ったと言う事です。
人間が暗黒ともつながる事ができた事を確認した神は、人間をエデンの園から三次元物質界へと移す事にしました。
神は、自身の子な中から悪役に最もふさわしいサタンを選び、サタンに人間を霊界であるエデンの園から物質界へと転落させる役目を言い渡しました。
そこでサタンは光ある天使に偽装し、ポジテブな男アダムでは無しに、ネガテブと同調し易い女エバに近づき「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」とささやいた。
光ある者に偽装したサタンからそそのかされた女エバは、神から「死んではいけないから決して食べるな」と言われていた園の中央にある善悪を知る木の実を食べ、更には夫アダムにも食べさせてしまいました。
善悪を知る木の実を食べる迄は、善悪を知る事が無かったアダムとエバ。
それは、神の平衡の平衡の状では善も悪も共に存しながらも、バランスし互いに何らの動きも無い状態でした。
つまり、(+a)+(−a)=0と示されるゼロの状です。
「零」これが神の状です。
私達の物質界には、無限なる零は存し得ません。
私達の物質界には、有限な実数字が存するのみです。
古代の賢者達は、この神の状を表現するために「両性王」の様な様々な象徴を作り出しています。
この様な、ポジテブ(男)とネガテブ(女)とで互いに均衡を保っていた処を、サタンにそそのかされて善悪を知る木の実を食べて、完全に男と女に分かれてしまい、互いに初めてポジテブ(善・男)とネガテブ(悪・女)を知ってしまいました。
(ここで言う男と女とは象徴であり、肉体的な男女の事ではありませんから、お間違いなき様に願います)
善悪を知る木の実を食べた事が、私達人間の大元の罪(原罪)だと言う人々もいますが、神にあばら骨一本を取られ不均衡状にされたと言う原因が有っての事です。
善悪を知る木の実を食べたと言う結果は、不調和な物質界に神の働き人たる人間を存在させると言う必要が有ったから行っただけの事です。
罪では無く、結果でしかありません。
善悪を知る木の実を食べた事を知った神は、筋書通りに事が運んだ事に満足し、人をエデンの園・霊界から三次元物質界へと追い出しました。
そして、ケルビムと回る炎のつるぎを霊界への入口に置き、不調和な人間から霊界を守護しました。
この物質界を見た釈尊は「この世とは、一切が苦の世界だ」と言いました。
ですが、善悪を知る木の悪の実しか食べる事ができず、悪の実に毒されている私達は、釈尊のこの言葉が理解できません。
その様な私達は「苦しい事もあるけど楽しい事もあるじゃないか。この世もまんざら捨てたものでも無い」とこの世を認めてしまっています。
その様な私達に、真我は更なる苦を与えます。
真我は、この世の苦を知らしめるため、私達に苦を与えます。
真我は、私達に善の実を食べさせようと苦を与えます。
真我は、私達に自分から立ち上がって、手を伸ばし善の木の実を取って食べ、善悪のバランスを取らせようとします。
これが次の七仏通誡偈の前半で言われている事です。
「諸悪莫作(もろもろの悪をなすな)衆善奉行(もろもろの善を行え)」
ただ私達は、ここで言う善悪を完全に理解してはいないものです。
「悪をするな。善き事をしろ」と言った時、私達は自分の今の人生における行動について考えてしまいます。
一番の悪とは、一番の善とは、ナニかが私達には解ってはいません。
ですから、イエスは私達に「まず天の国と天の義とを求めよ」と言いました。
イエスは「イの一番に天と、その天の正しき義を求めなければ、ナニも始まらない」と、地と地の正義ばかりを追い求めている私達を諭しています。
つまりは、天なる神の状を知らなければ、神の懐く聖なる正義は知り得ないと言う事です。
そのためには、ナニをしなければならないのか。
賢者達は、次の様に教えています。
「想念を正し、言葉を正し、そして行いを正せ」
ですが、この様に言った時にも、私達は間違いを犯してしまいます。
地に縛られている私達は、自分の肉体や環境と言う地的な物事への想念を湧かせてしまいます。
そして、自分の過去の行いに縛られ、ネガテブ想念を更に膨らませていきます。
ですから、賢者達が教える下の句を行うことできません。
「想念を正し、言葉を正し、そして行いを正せ。
そして、想念と言葉と行いにおいて、霊を顕現させよ」
霊を自身の想念に顕現させ得た時に、人は初めて善の木に手を伸ばす事ができる様になると賢者達は教えています。
でも、なぜ私達は真我を霊を神を想う事ができないのでしょうか。
それに関して、イエスは「彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」と言っています。
つまり、イエスは「私達が、物事を内なる眼で観、内なる耳で聴く事をしていないから、その物事に潜在している霊を悟る事ができない」と言っています。(マタイ13章参照)
つまりは、想念と言葉と行いにおいて、霊を顕現できないから悪を知る木の実しか食べる事ができないと言う事です。
想念と言葉と行いにおいて、霊を顕現できる方々とできない私達との違いはナニかと言うと、それは悪を知る木の実の食べ方の違いです。
私達は、悪の実の食べ方が下手クソだと言う事です。
そもそもが、悪を知る木の実の悪・ネガテブとはナニかが解ってはいないとドリール先生は言っています。
先に言った様に、私達は真の善悪が解ってはいないのです。
「ネガテブを十分に理解せずに、どうしてネガテブの一部分でもポジテブに変質し得ようか」とドリール先生は言います。
そして「真にあなたがネガテブを理解するには、ネガテブを受け入れる事である」と言います。
「しっかりと悪を知る木の実たる苦を食べよ」とドリール先生は私達に教えます。
ドリール先生は八年間のチベットでの生活、そしてアメリカでの布教活動において様々な妨害や嫌がらせを受けながらの苦難を耐え忍んでこられました。
ですが、ドリール先生は、その苦を見てはいませんでした。
ドリール先生は、常に神を観ていました。
ドリール先生は、常に神と共に歩んでいました。
言い換えると、ネガテブに支配されている私達とは違い、ドリール先生らはネガテブな苦を支配し克服していました。
ですから、ドリール先生にとって苦は苦ではありませんでした。
ドリール先生は、苦の先にある善の木とその先にある命の木のみが観えていました。
その様なドリール先生が、常々引用されていた旧約聖書・詩篇・23篇・ダビデの歌「わたしが死の陰の谷を歩む時でさえ、わたしは災いを恐れない、あなたが共におられるから」
私達では到底耐えられない様な過酷な状況の中でも歩まれてこられた方々。
この様な方々には、自身の内に真我が、神が、輝いて存していました。
言い換えるなら「中心が、しっかりと定まっていた」とも言えます。
神と言う中心が有り、その神を中心に回る事ができる人々。
その様な人々には、道がハッキリと観え、周囲のネガテブをポジテブな想念で包み込んで行きます。
ネガテブのポジテブ化です。
神と言う中心が無い私達は、自分を中心にして回って行く事から、周囲の人や物事とぶつかってしまいます。
中心の無い私達は、物事が上手く行かない事を周囲のせいにし、周囲の物事や人を罵り愚痴を言います。
それだけならまだしも、進歩しようとする人の邪魔までしてしまいます。
中心の無い私達の言葉には、神はいません。
中心の無い私達の言葉に有るのは、ただ不平不満の愚痴と恐怖だけです。
中心の無い私達は、悪の実を食べ続けながら、自分からネガテブを発し、ネガテブの中へと落ち込んで行きます。
その様な、中心の無い私達は、決して善の木に手を伸ばす事ができません。
その様な私達には、苦労が足りないからと、真我は更なる苦を与えて行きます。
苦しみもがき、初めて神を求めるだろうと、真我は更なる苦を与えて行きます。
人は、生まれ老いて行きます。
そして、病となり、死をかいま見た時、恐れに取りつかれ神を求めてゆきます。
真我が与えてくれた苦、私達はその苦から抜け出そうと神を求めます。
ですが、その様な状を観て、ドリール先生は「なぜ、人は神と同調し得ない不運なネガテブな時に、神に祈るのだろうか。なぜ、人は満ち足りて神と同調し得るポジテブな時に、神に祈らないのだろうか」と言います。
苦を与えられている事の意味をしっかりと知った人は、神と共に遊びながら同行二人で人生の道を歩んで行きます。
その様な人々は、自身の本性と原因と、自分が今ここに存在している意味をしっかりと認識していると言う事です。
その根本を作り上げる学びが、神秘形而上学です。
神と共に遊び歩む事を学ぶ、それが神秘形而上学に他なりません。
人が自身の人生を学び覚り遊ぶ事ができた時、人は初めて善を知る木に手を伸ばす事ができる様になります。
カバラに「先ずは喜び、ワイン(ネガテブの象徴)を飲み、パン(ポジテブの象徴)を食べ、全体の調和の内に、その間に立った時、世界にあらゆる恵みが存する」と言う言葉があります。
あなたは「喜んでワイン(ネガテブ)を飲む事ができるか」と訊いています。
喜んでワインを飲む事ができる者だけがパン(ポジテブ)を食べる事ができます。
そして「ワインを飲みパンを食べ調和と均衡を創り出した時、その者は命の木に至る」とカバラは教えています。
釈尊は、自身の学びの過程を通して命の木の実の食べ方を私達に教えています。
釈尊は、自ら難行苦行(ネガテブ)を六年し、悪を知る木の実を食べ続けました。
神を想い行じながら、悪の実を食べ、善を知る木の実を、そして命の木を求めました。
そして或る時、スジャータからかゆ(ポジテブ)をもらい食しました。
釈尊が、善を知る木に手を伸ばし、その実を食した時です。
そして、釈尊は命の木に手を伸ばすべく沐浴し、菩提樹の下の光明真言曼陀羅に坐し光明真言を唱え、命の木を昇りました。
釈尊が、中なる命の木(中道)を知った瞬間です。
カバラとは、カバラと言う本が有るわけではありません。
カバラとは、ヘブライの神秘哲学の事です。
カバラとは、ヘブライ語の「受ける」と言う意味です。
カバラとは、トーラーと呼ばれる旧約聖書―創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の五書を中心に旧約聖書を読み解き、更にそのヘブライ語の一字一字を解析し、その文字の底に潜んでいた真理を顕した神秘哲学そのものです。
ですから、トーラーをして「生命の木」や「義」と呼ばれています。
イエスはパリサイ人(ユダヤ教徒)達に「私は律法や予言者の教えを廃しするために来たのではない。廃しするためではなく成就するためにきたのだ」と言い、義でもあるカバラの教えを認めています。
全ては、ヘブライを通したアトランティスの智慧、シャンバラの智慧そのものです。
旧約聖書などの経典は、その文字を文字のままに読んではいては、真理は読み解けません。
その文字の奥に潜む霊を解き放たなければ、ならないものです。
「人は文字を見、霊を観ず。
人は文字の世界に住し、霊の世界には住まず」
旧約聖書・創世記と生命の木―その三 (8/1/2025)
〇更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
(旧約聖書・創世記・2―9)
私達が教えられている「生命の木」
この「生命の木」は真ん中にある「命の木」と左右の「善悪を知る木」から成っています。
左右にある「善悪を知る木」は、神とは異なる非平衡状の木です。
そして、この中にある「命の木」は、平衡の平衡なる神へとつながる平衡状の木です。
ただ、私達が今いるマルキュト(物質界)は、善(ポジテブ)と悪(ネガテブ)との二極が共に存在する界です。
そのマルキュトにおいて善と悪を平衡状にするも非平衡状にするも、私達人間しだいです。
善と悪とを平衡状にし、平衡の平衡を得た時にのみ、人は中の命の木を昇る事ができます。
〇さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」
(旧約聖書・創世記・3―1)
ここ創世記三章で「へび」が出てきて「へびは女に言った」とあります。
なぜ、男アダムでは無く、女エバにへびは言ったのか。
へびは、ヘブライ語では「カナシュ」です。
その「カナシュ」とは「光ある者」とか「利口そうに見ゆる者」の意味だそうで、良く読んでみると「カナシュ」は真逆の意味をもっています。
「カナシュ」の意味は、「光ある者」なのか「利口ではない者」なのかです。
その答えが、コリント人への第二の手紙・11―14にあります。
コリント人への第二の手紙でパウロは「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に偽装するのだから」と言っています。
パウロは、女エバの前に現われたへびは「光ある者に偽装したサタン」だと言っています。
つまり、カナシュには「光ある者」と「暗黒の者」の二つの意味があります。
人間同様に蛇にも善なる光ある蛇と邪悪なる蛇とがいると言うわけです。
その両者が、共に存在し得る界が物質界です。
二種類のヘビと言うと、東洋の龍と西欧のドラゴンでは、容姿もそうですが見方が異なります。
東洋の龍は善の象徴ですが、西欧のドラゴンは悪の象徴です。
この西欧における悪しきドラゴンのイメージは、この創世記に出てくる蛇が最初は手足が有った事に起因しているとも言われています。
それと、ネガテブの象徴としての女と、へびに偽装したネガテブな神の子・サタン。
ネガテブなサタンはポジテブなアダムでは無しに、同調し得るネガテブな女エバに言ったわけです。
でも、間違わないでください。
「ネガテブな女エバ」と言った時に、肉体的な女がネガテブ・悪だとは言ってはいません。
また、肉体的な男がポジテブ・善だ等とは言ってはいません。
女や男は、単なる象徴です。
女(エバ)とは、ネガテブな想念を懐いている人の事です。
男(アダム)とは、ポジテブな想念を懐いている人の事を言っています。
何事においてもそうですが、その物事のナニをみているかが一番大切です。
「皮肉骨髄」と言う言葉がありますが、その物事のどこまでみているかです。
物事のほんの上っ面だけを、肉体に付随する目で見ているだけなのか。
その物事の表面的なものを全て剥ぎ取り、その真髄を観ているのかです。
今、読んでいる旧約聖書・創世記にしてもそうです。
一語一語の意味を深く読み解いて行く事で、その情景は変わってゆきます。
ドリール先生の師が言った言葉ですが「人は文字を見、霊を観ず。人は文字の世界に住し、霊の世界には住まず」
文字の奥底に潜む、神秘を読み解く事ができるか否かです。
その文字の真髄を観た時、そこには霊の世界が広がっています。
〇女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。(旧約聖書・創世記・3―2~7)
「園の中央にある木の実」これは、園の中央にある善悪を知る木に生る、甘美な善の実と苦くてまずい悪の実、それと中に生えている命の木の実の事となります。
ネガテブな女エバは、どの実に手を伸ばしたでしょうか。
それは、苦くてまずい悪のネガテブな実です。
でもなんでわざわざ、甘美な善の実では無しに苦くてまずい悪のネガテブな実を取って食べたのでしょうか。
それは、女・エバの本性がネガテブだからです。
ただ、誤解しないでください。
先にも言いましたが、アダム・男もエバ(イブ)・女も、それぞれが象徴です。
この世の女性が悪で、男性が善だなどと思っては困ります。
ここでの男とか女とは、実際の物質肉体状の男と女ではありません。
ポジテブとネガテブと言う二極を表すための象徴です。
あくまでも、文字は象徴でしかありません。
でも、現実に「女は穢れているから神聖な場には上げてはならない」等と言っている人達もいます。
神は、アダムとエバに「死んではいけないから食べるな」と言いました。
でも、へびにそそのかされ園の木の実を食べてしまいました。
その結果「ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかった」とあります。
創世記・2―25には「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とあります。
善悪の実を食べた後、二人は肉体を持ち、感情が芽生え、肉体の目で自分を見て、裸は恥ずかしいと感じたと言う事です。
二人の意識体は、感情を有する有限な生と死を有する肉体に入ったと言う事の象徴です。
善悪の実を食べた後「喜怒哀楽」のポジテブ(陽)とネガテブ(陰)が発し、私達人間ができあがりました。
そして、今一つ大切なことがあります。
それは、喜怒哀楽が発したアダムとエバがエデンの園から追放されて降り立った物質界の状です。
釈尊は、この物質界の状を観て「一切が苦のみだ」と言いました。
それもそのはず、エバとアダムが苦くてまずい悪のネガテブな実を食べたからです。
その結果、この世は自分が思う様にならない四苦八苦の世界になりました。
まさに、神が言った様に、人は死を経験する様に成ったわけです。
更に、この世はあの世と違い、神から時間が付与されました。
時間と言う波に乗り人は、無常の世界を変化してゆきます。
時たま、甘美な善の実を食べる事ができても、すぐに苦くてまずい悪の実に手を伸ばしてしまいます。
この波を古来の賢者は「陰極まりて陽となり、陽極まりて陰となる」と太極図で教えています。
へびのサタンが言った様に人間は「善悪を知った者」となりました。
ただ神と同じ様に善悪を知っても、神は善悪を支配し克服していますが、人間は善悪に支配されています。
善悪の波にほんろうされながら、人は人生をただ流されてゆきます。
波が静まったかと思った瞬間、新たな大波が押し寄せてきます。
でも、その大波は誰が起こしたものではありません。
その大波は自分自身で起こした波です。
苦くてまずいネガテブの悪の実を手にしたから起きた波です。
そして、それに気付かない人。
その様な人は、自分の苦労や不幸を他人のせいにするものです。
その様な人は、世界が自分を中心にして回っていると思い違いをしています。
我儘な自己中です。
それに気付かない愚かな人、真我から観たなら悲喜劇を繰り返している人。
早く気付けと、真我は苦くてまずいネガテブの悪の実を、その様な人に与え続けます。
この世は、全て神を中心にして回っています。
柔和でへりくだった者となり真の利他に目覚めるまでは、人は重き荷を背負いながら生と死を繰り返す事となります。
旧約聖書・創世記と生命の木―その二 (7/1/2025)
〇主なる神は土のちりで人を形づくり、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。 (旧約聖書・創世記・2―7)
神の神であるホアは周囲を観て、自身とは同調し得ない不完全なネガテブを見出しました。
ホアは、この不完全なネガテブを自身とも同調し得る完全な平衡状としようとの想いを懐きました。
そして、ホアは意志し氣たる霊を発しました。
この氣は、ヘブリ(H・B・L)聖なるイキやアレフとか空氣とも言われるホアの活氣です。
この聖なる活氣は、上なる水・メムを打ち、メムに内在した火・シンを解き放ちました。
いわゆる、ビッグバンです。
そして、シン・火が冷えて塵ができました。
この塵が、コスミック・ダストです。
このコスミック・ダストが固まり、土ができ、星々ができて行きます。
このアレフ(空氣・風)、メム(水)、シン(火)は生命の木のケテル内の三角形で象徴されています。
そして、シンの残渣とも言える土は生命の木のどこに有るかと言うと、マルキュトたる物質界です。
つまり、物質の全てが、この上なる水の燃え残りのちりからできています。
これが「地水火風」の由来となります。
また、地は水・火・風の全ての力を受けて出来上がっています。
神は、この土のちりであるコスミック・ダストを使って、人を創り出しました。
人間アダムの肉体の完成です。
ただ、土くれの肉体はできましたが、まだ生けるものには成っていませんでした。
なぜなら、この土くれは直接的に神とはつながってはいないからです。
そこで、神は人の鼻から聖なる息・ヘブリを吹き込みました。
人は、空気を肺で吸い生きていると思っている方もいると思いますが、人は空気中の酸素を肺で吸って生きているだけではありません。
人の鼻の奥には視床下部へとつながる細い管があります。
その管を通して、人は空気中に存在する二種類のプラナ・エネルギーを吸収しています。
視床下部に昇った二種類のプラナ・エネルギーは脊柱の左右(イダとビンガラ)を通りカンダ(尾骨)へと降ります。
イダとビンガラを降りながら、途中にある多くの通路を通りながら、身体全体へとプラナ・エネルギーは運ばれて行きます。
こうして、人は生きる者となります。
人が、死ぬのは酸素が体内に入って来ない事よりも、ホアの聖なる息が体内に入って来ない事により死を迎えます。
旧約聖書・伝道の書・12―6~7には、次の様に記されています。
「その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。
ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」
(人が死ぬ時には、真我とつながる銀線が切れ、松果腺と脳下垂体と視床下部がその働きを止める。そして、人はそのちりで出来た身体を元の土とし、内に存していた霊を神に帰す)
〇主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その創った人をそこに置かれた。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。
(旧約聖書・創世記・2―8~10)
古代の人々は、地水火風を東西南北に割り振り、色を付けて象徴化しています。
地は、西でその色は白で象徴されます。
水は、南で色は赤で象徴されます。
火は、北で色は黒で象徴されます。
風は、東で色は青で象徴されます。
そして、その東西南北の中央には、黄で象徴される霊が存します。
相撲での四本の柱と中央の土俵は、この象徴を表しています。
四本の柱は、四神でもあります。
それは、白虎、朱雀、玄武、青龍の四神です。
この四神と中央の霊(神)との象徴が、五芒星であり、ピラミッドです。
また、この四神をヨハネ黙示録(4―6~8)では次の様に記しています。
『御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後ろにも、一面に目がついていた。第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた』
神は、土の塵から創り出した人・アダムをエデンの東の風・アレフが支配する地に置いたと言われます。
そして、神は風の対極・西に存する地に木々を生えさせたと言います。
そして神は「エデンの園の中央に命の木と善悪を知る木とを生えさせた」と言います。
地水火風で示す十字の中央に生命の木を創り出しました。
その生命の木の中央が命の木です。
そして、その命の木の両側にはポジテブとネガテブの二極が対極で存在しています。
この両側の木が「善悪を知る木」です。
釈尊は中道を教え、一休禅師は「橋の端を渡るな」と教えています。
また、中国の古代の人は「中庸」を教えています。
何千年にも亘って賢者達が「中」を教えているのも関わらず、橋の端しか歩めないのはなぜでしょうか。
なぜ、人は端にある善悪しか歩めないのか。
なぜ、人は「中」を歩めないのか。
お考え下さい。
〇そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
そのとき、人は言った。
「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
(旧約聖書・創世記・2―2~25)
神が眠らせた人とは、ケテルの象徴です。
ここで言う人を、男とは言ってはいません。
つまり、両性であり神の似姿をした第一のアダムである事を暗に示しています。
そして「神は眠らせた人のあばら骨の一つを取り出し、女を創った」とは、ケテルからケテルのネガテブを取り出し女・ビナーを創造した事を示しています。
また、ネガテブを取り去られたケテルは、平衡を失いポジテブなチョクマーと成りました。
最初の三つ組み・霊界が創造された事を象徴しています。
ここで、大変に重要な事があります。
それは、最初の完全なる第一のアダムのあばら骨を一つ取ると言う事は、神同様に完全で満ちていた状にあったアダムが、欠けた状態と成り、不完全と成り不足の状に成った事を意味しています。
第二のアダム(チョクマー)とエバ・イブ(ビナー)の出現です。
このアダムとエバは、完全なる神のかたちでは無くなりました。
第一の平衡状にあるアダム・ケテルが、ポジテブ・善なる男アダム・チョクマーとネガテブ・悪なる女エバ・ビナーとに分かれた事で、この二人は平衡を失い善と悪を知り得る者と成りました。
キリスト教会では私達人間を罪人と言います。
人間は、生まれた時から罪を背負っていると言います。
或る意味、正しいものだと思います。
ですが正確には、平衡の平衡にある神は自身の周囲、言い換えるとボイド(大深淵)の内に存する非平衡状(暗黒の生命の木の原型・キュリポト)のネガテブを平衡状に戻すために、生命の木と私達・第二のアダムを創り出しました。
神の完全なる平衡状では、非平衡状のネガテブを捕らえる事ができない事から、神は自身の平衡状をわざと崩し、ネガテブとも接し得る非平衡状の存在である第二のアダムを神は創り出したのです。
ですから、神は第二のアダムを罪人と言うよりも罪を犯す事もできる欠けて不完全な状態にしたのでした。
完全なる平衡状にあるものは、善悪を知り得ません。
平衡状を崩し、ポジテブとネガテブとに分かれて、初めて互いに善悪を知り得るものと成ります。
不完全な私達人間は、暗黒と接すると言う目的のために創り出された存在です。
善にも悪にも成れる存在、罪を犯す事もできる存在が、私達人間です。
「善き事を為し、悪を為すな」と言いますが、初めから人間は非平衡状で欠けた不足状で悪を為す様に神から創り出された存在なのです。
その状が、私達人間の仕事の始まりです。
言い換えるなら「人は、ネガテブと成って初めて神の働きを始める」とも言えます。
「それで人は、その父と母を離れて」と記されている「父と母」とはケテルです。
ケテルは、自身の内に父・アブと母・アイマが平衡状で存しています。
そしてケテルから分かれた非平衡状のチョクマーとビナーの状が、今の私達の状の原型です。
その悪にも成れる状から私達人間はどうしたら良いのかを、旧約聖書では次の様に教えています。
「妻と結び合い、一体となるのである」
言い換えるなら「ネガテブを受け入れ、そのネガテブと平衡を取れ」です。
ドリール先生がいつも言っている「ネガテブのポジテブ化」でもあります。
また、チベット等で見られる男女が結び合っているヤブユム・歓喜像で象徴される状です。
理趣経で「男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である」と象徴的に言われているものでもあります。
つまり「人は、自身の内のポジテブを以てネガテブと交わり、神の平衡状を得よ」と教えています。
チョクマーとビナーが一体と成り、神の平衡状を得て、その子・ティペレトを生み出した様に、私達にもそうしろと教えています。
ただ、この霊界にいるチョクマーとビナーは、善悪の実を食べてはいなかったので、人の肉体に付随する心や情緒も無く、喜怒哀楽を発してはいませんでした。
純粋無垢で情緒が無く欲も無い事から「アダムとエバは、裸でいても恥ずかしいとも思わなかった」と言っています。
その様なアダムとエバですから、容易に一体とも成れたのでしょう。
物質界にいる我々が、一体と成り平衡状を得る事に苦労しているのは、心があり喜怒哀楽の情緒に縛られているからです。
〇そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が創られたその土を耕させられた。
神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
(旧約聖書・創世記・3―23~24)
第二のアダムとエバがエデンの中央にある善悪を知る木の実を食べた事から、神はアダムとイブをエデンの園から追放されたと言っています。
これが、霊界から物質界へと転げ落ちた人間の失落の状です。
ネガテブに囚われ過ぎて、霊界とは異質な存在と成ってしまい、もはや霊界へとは上がれない、今の私達の存在と成った事を意味しています。
完全な平衡状を失った人間達を神は霊界(霊界・聖心界・四次元界)から、コスミック・ダストの土からできた地へと追い出しました。
追い出したと言うよりも、暗黒界と同調する事ができ、霊界とは同調し得ない存在と成った人間は、霊界とは反発状態と成り、自然と霊界から離れて行く事と成ったわけです。
その状を観た神は、霊界とは同調し得ない人間が四次元界(アストラル界・形成界)に間違って入られては困ると言う事で、四次元界の境界域にケルビムと回る炎の剣とをエデンの園の東、神のイキが支配する地に置き、神と同調し得ない人間達が霊界へと入ってくる事を防いでいます。
ケルビムと回る炎の剣に関しては、エゼキエル書・1章を参照ください。
旧約聖書・創世記と生命の木―その一 (6/1/2025)
〇はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。
神はその光とやみとを分けられた。 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
(旧約聖書・創世記・1―1~5)
旧約聖書・創世記の出だしです。
その出だしに「はじめに」とあります。
「はじめ」が有るから「おわり」が有ります。
つまり、始まりも終わりも無い無限では無く「はじめに」と言った時、それは有限を意味しています。
その有限な「天と地」を、無限なる神は創造したと言っています。
天と地、生命の木で象徴される形成界から上の天なる霊界と、地なる物質界です。
神は、生命の木で象徴される霊界・心界・形成界・物質界を霊力で創造形成し、ケテル内の無限空間へと引き下がりました。
つまり、生命の木で象徴される霊界を含めた四界の世界は、有限な世界です。
有限な世界には、無限な神(ホア)は存在する事はできません。
その地なる物質界は、初めはただコスミック・ダスト(原子の材料)が漂うだけで、未だ形を成してはいない虚しい状でした。
その形も定まらない物質界の上部は上なる水が霊と共にきていましたが、その物質界の淵はやみである暗黒が蔽っていました。
つまり、物質界の外周にはネガテブな暗黒が存在し、天地創造の初めには暗黒が物質界を全て覆っていたと創世記では言っています。
つまり、初期の物質界は暗黒に覆われた地だったと言う事です。
なぜなら、物質界は神がネガテブと接するために創り出した界だからです。
暗黒が存在し得ない界では、ホアがわざわざ四界を創り出した意味がありません。
ただし、形成界以上の霊界にネガテブな暗黒が入り込んではならないので、物質界から上部には神の霊が上なる水と共に守護していました。
ですが、この状態を観た神は、これを「良し」とはされませんでした。
なぜなら、この状態では自身の分身の写しである私達人間が暗黒に飲まれ物質界に存続し得なかったからです。
そこで、神は意志し「光あれ」と意志を発し物質界に光を顕現させました。
そして、光と暗黒が共に存在する物質界ができ上りました。
これは、聖生命の木(ポジテブ・男性・アダム)と暗黒生命の木(ネガテブ・女性・リリス)ができた瞬間でもあります。
物質界に光が発せられた事で、物質界に私達人間が顕現し、光と共に暗黒とも接する事ができる状態となりました。
この状態を観て、神は「良し」とされました。
神の光が輝く昼と、闇が支配する夜とが共に存在し、人間は善の果実でも悪の果実でも自由に採って食べる事ができる事になりました。
また、やみを夜と言った時、夜をリリスと言い、アダムの最初の妻とも言われています。
リリスは、ヘブライ語リリトから来ているとも言われています。
リリスは、ネガテブ(女)な暗黒生命の木を象徴しています。
そしてリリスの夫アダム(男)は、ポジテブな聖生命の木を象徴しています。
旧約聖書・箴言には、次の様に記されています。
「彼女(リリス)は若い時の友(アダム)を捨て、その神に契約したことを忘れている。
その家は死に下り、その道は陰府におもむく。
すべて彼女のもとへ行く者は、帰らない、また命の道にいたらない」
(箴言・2―17~19)
「しかしついには、彼女(リリス)はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
彼女(ネガテブ)はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない」 (箴言・5―4~6)
リリス(暗黒生命の木)のもとへ行く者がいる、と箴言では言っています。
リリスは、人生において人を迷わせ聖への道では無しに暗黒生命の木の道を下らせる、とソロモンは言っています。
そしてソロモンは、その道は冥府につながる道だと言っています。
なぜ人は、リリスに迷わされて冥府に落ちて行くのでしょうか。
その答えが、暗黒生命のイソドの位置にあります。
暗黒生命の木のイソドは聖生命の木のイソドとは異なり、中間域(バルド界)に存しています。(暗黒生命の木は、白朋誌を参照ください)
これが、ナニを意味しているか解りますか。
人は寝ている時、バルドの中間状か夢状に行きます。
暗黒生命の木のイソドが、そのバルド界に存しているので、暗黒の者達が暗黒のイソドに来た人々の想念を眺めていると言う事です。
聖生命の木のイソドに行けば良いのですが、その人がネガテブ想念を懐き、ネガテブ創造をしていたなら、その人は容易に暗黒のイソドへと向かってしまいます。
旧約聖書・ヨブ記・2―1~2に、次の様な記載があります。
『ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。
サタンもまたその中に来て、主の前に立った。
主はサタンに言われた「あなたはどこから来たか」
サタンは主に答えて言った。
「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」』
神も神の子であるサタンも、物質界では顕現できません。
ですから、神は法則を自身の代わりに物質界に機能させています。
「神は、法則なり」です。
そして暗黒の者達は、暗黒のイソドをバルドにおいて、人々の夢を通して、その人達を観察しています。
そして、使えそうな者がいたなら、その者にエレメンタルを憑りつかせて、利用して行きます。
エメラルド・タブレットの中でアトランティス人トートは「暗黒は暗黒同胞らの旅する道なり、彼らは人間の夢を通して地球をあまねく旅しておれり」と言っています。
人が物的な欲望に強く駆られている時、その人はバルドの夢状を通して暗黒生命の木の中間域で暗黒の者らと接触し、彼らに支配されてしまいます
(エレメンタルに関しては白朋誌593号参照)
〇神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 (旧約聖書・創世記・1―27)
神は「自分のかたちに人を創造した」と言います。
それも「男と女とに創造した」とあります。
ですが、神は姿も形も肉体も持たない存在です。
神は、意識体です。
その意識体である神が言う「自分のかたち」とは、どの様なものだと思いますか。
そして、ここで言う「人」とは、どの様な「人」の事を言っているのでしょうか。
中庸・1―2の初めに「喜怒哀樂之未發。謂之中」(喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と言う)とあります。
ここで言う「喜怒哀楽」には、ポジテブ・ネガテブと言う意味と共に、肉体と言う意味もあります。
つまり、中庸のこの言葉は、肉体に備わるポジテブ・ネガテブの喜怒哀楽の感情が発生する以前と言う意味です。
中庸で言う”中“の状態とは、肉体も無く、肉体が無いから、肉体に付随する感情も心も無い状態です。
ポジテブの象徴である喜楽もネガテブの象徴でもある怒哀も未だに顕れていない状態。
言い換えるなら、ポジテブとネガテブとが内在し外には発せられていない状態です。
ここで付け加えるならば、ポジテブの象徴は男であり、ネガテブの象徴は女です。
男(ポジテブ・聖生命の木)と女(ネガテブ・暗黒生命の木)が顕れていない状態。
これが“神のかたち”です。
ですから、神が“均衡の均衡”と言われている理由でもあります。
一なる状です。
その一の中に男(ポジテブ)と女(ネガテブ)の二が均衡して潜在している状態です。
この神のかたちを表現しようと古代の賢者達は考えました。
ギリシャ彫刻に見受けられる両性有具の彫刻物です。。
また、王と女王が一つの身体にいる状を示した両性王の象徴などもあります。
これらは男(ポジテブ)と女(ネガテブ)が、共にバランスしている神の状を象徴しています。
生命の木において、この状態はアブ(父)とアイマ(母)の二つの特性を内在させているケテル・王冠として表されています。
そして、このケテルの王冠は誰がかぶっていると思いますか。
それは、アダムです。
アダムと言っても、アダムには二つの存在があります。
ここで言うアダムは、失落以前の原初のアダムです。
今の私達の原型でもある両性のアダム・カドモンです。
ここで言う「自分のかたちに人を創造した」と言う人とは、今の私達の様な人では無く、失落以前の完全な均衡状にある人です。
ですから、ドリール先生は旧約聖書・創世記には二人のアダムがいると言っているわけです。
二人のアダム、聖なる失落以前の両性アダム、そして今の男と女との分かれた私達二番目のアダムです。
(白朋誌588号・二人のアダム参照)
【おまけ】
アダム・ADAMとはイエスの前世とも言われています。
A:アヨロス
D:ダビデ
A:アーロン
M:メルキゼデク
抗するな (5/1/2025)
「抗するな」と言う言葉があります。
ですが、この文にはナニかが欠けています。
何が欠けているかと言うと「ナニに抗するな」なのかが不明瞭だと言うことです。
つまり、この文は「○○に抗するな」となるべきです。
問題は、この「○○」とはナニかです。
と言うと「そんなのは分り切ったことで○○は「アク」だ」と言う人が多いと思います。
私も、以前はそのように習ったので、○○はアクだと思っていました。
ですが、最近になって考え直してみると「アク」は間違っているのじゃないかと考えるようになりました。
皆さんと一緒に考えてみましょう。
それにしても、聖者方は人が悪いです。
マタイ5章でイエスは「悪人に手向かうな、もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい」と言っています。
そして「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とも言っています。
まさに「悪に抗するな」です。
ですが、マタイ21-12には「宮の庭で売り買いをしていた人々をみな追い出し、両替人の台や、はとを売る者の腰掛けをくつがえされた」と記されています。
イエスが、悪に抗している様子が記されています。
この真逆なイエスの様を見て、私達はどのように解釈したら良いのでしょうか。
そのヒントとなる記述が、マタイ12-31(マルコ3-28~29)にあります。
それが次の言葉です。
「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」
つまり、人が犯す罪や神を汚す言葉を言っても許す事ができるが、私達の親である神が私達を想い発した聖なる霊を汚す事は許すことができないとイエスは言っています。
神が自身の子ら(私達)を案じ想っている、その親の想いを踏みにじることだけは決して許されない、とイエスは言っています。
ですから、神聖なる神の御前で物的な金儲けだけをしていることがイエスには許されなかったのです。
イエスは、そのような聖なる場で聖なる霊を汚す行いを許すわけにはいかなかったのです。
逆を言えば、その聖霊を汚していた人々を救ったとも言えます。
聖なる霊を汚す行いを力づくで止めさせ、それ以上の悪因を積むことを止めたのですから。
ここで二つの事が解りました。
その一つは「アクに抗するな」と言った時には、条件が付くと言うことです。
「聖霊を汚す悪だけは許されない」と言う条件が付きます。
つまり「アクに抗するな」と言った時、それは絶対の言葉では無いから、聖なる法則とは言えない、と言う事です。
それならば聖法則である「抗するな」はどの様なものなのか、です。
それと今一つは「宮の庭で金儲けしていた存在と、悪因を積んでいた存在の二つの存在があった」と言うことです。
その二つの存在とは、ナニかと言ったなら。
一つは、物的な金儲けをしていた存在とは肉体。
今一つは、それによって悪因を積んでいた存在である、その肉体に入っている神につながる意識です。
ヨハネ 3―06に次の様な記述があります。
「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」
私達は、肉体を持っています。
そして、その肉体に付随する心があります。
それとは別に、私達の肉体には神につながる意識(魂)があると言うことです。
心と意識とは、別物です。
このことが、理解し得ない限り、釈尊やイエスやドリール先生は理解し得ません。
このことを理解できない人は、聖書の言葉をその文字のままに受け取ってしまいます。
これが、全ての過ちの始まりともなります。
旧約聖書も文字のままに読んでいる人々がいたから、イエスは「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」と言っています。
つまり、イエスは「私は、人々の間違いを義(ただし)にきた」と言っています。
また、イエスは言いました「汝の敵を愛せ」
この文における「汝」とはナンでしょうか。
「敵」とはナンでしょうか。
「愛」とはナンでしょうか。
この様な問いを、内に入り考えて行くことが瞑想となります。
「汝」自分とは、私達のこの物質肉体ではありません。
この肉体は、意識が活動するための道具です。
ただ、この意識に目覚めているかどうかが問題ですが。
言い換えるなら、心と意識の違いが解るかどうかです。
そのためには、ただ坐してイキを整えて心を静めて行くことです。
心が静まってくると、奥底にいる意識が顔を出してくるものです。
次の「敵」ですが、この「敵」には外の敵と内の敵の二つの敵がいます。
内と外と言いましたが、言い換えると、肉体的心から見た敵と内なる意識から観た時の敵です。
肉体的心から見た敵とは、肉体的な利害関係において害のある者です。
マタイ5章で「悪人に手向かうな、もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい」とイエスが言った言葉を文字通りに読んでイメージした時の敵が、肉体的な目から見た敵です。
そのイメージを持っていては、イエスが言おうとしている真の意味をはき違えてしまいます。
そして内なる意識から観た時の敵とは、真の自身が乗っている肉体です。
肉体と心とは、意識から観た時の最大の敵です。
ドリール先生が良く言われている「物質界を支配し、克服しろ」と言われている意味でもあります。
物質界とは、物質肉体の事です。
イエスは「肉体と言う悪人には手向かうな」と言っているのです。
そして「肉体が犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」とも言います。
意識から観て、子供とも言える物質肉体を躾ける時の教えです。
言う事は聞いてあげても、してはいけないことと、しなければならないことはハッキリと教えなければならない、と言うことです。
聖霊を汚すことはしてはならないことで、しなければならないこととは、神を向くことです。
神を向かねければ「愛」が解りません。
「愛」とは神の世界における一体状です。
それに反し、物質界は個々粒々の世界です。
この物質界には真の愛はありません。
ですから「汝の敵を愛せよ」とは、あなたの意識を知り、その意識で肉体を支配克服し、意識と肉体を一体状とせよ、と言うことです。
これが、私達がこの世でしなければならない働きです。
なぜなら、肉体とは神とは不調和状で存在しているものだからです。
それを支配し、神と調和状になった時が克服した時です。
それが、私達が真我から与えられた課題であり、勤めです。
イエスは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言っています。
と言うことで「○○に抗するな」の○○とは火水(カミ)です。
「神に聖なる霊に抗しない様に、自身の肉体と心とを躾けなさい。そして、意識と心とを神同様に調和状として人生を歩みなさい」との意味です。
それが、神的に義(ただし)いこととであり「神の義」です。
ついでに言っておきますが、外なる敵を見た時、その敵の内に存する意識を観ることができるかどうかです。
その内にいる意識は私達の同胞です。
ただ、その肉体は、その同胞が真我から与えられて課題です。
その課題は、それぞれの意識が解いていかねばならないものです。
他の意識からは、何もできはしません。
ただ、背中を見せることくらいです。
神の言葉、人間の言葉 (4/1/2025)
先日、ペットショップに水槽用の濾過マットを買いに行きました。
或る親子が、同じ店内で販売している子犬を見ていました。
親子は「可愛いね」と言い合っていました。
極々、当たり前の会話かもしれません。
その時、私は田村隆一氏の詩の一節を思い出しました。
田村氏は「あなたが美しい言葉に復讐されても そいつは ぼくとは無関係だ」と詠んでいました。
人間は、心のままに思った事を言葉にします。
それも、感情を込めた言葉を人間は発します。
それが、どう言う結果を呼び寄せるかも考えずに、人は感情を言葉にして発しています。
「喜怒哀楽」と言われる人間の持つ感情。
でも、これが表裏一体になっている事を、どれ程の人が知っているでしょうか。
昔から言われている様に「陽極まれば陰と成り、陰極まれば陽と成る」です。
陽が陰に変わり、陰が陽に変わって行く無常の世界が、この世の状です。
この世では、時間をかけながら喜びや楽しみが怒りや哀しみに変化して行きます。
また、怒りや哀しみが時と共に喜びや楽しみに変化して行きます。
そんな無常の世界の生き方として、昔の賢者は「陰平陽秘」を教えています。
陽が小さければ、その後に生じる陰も小さいと、昔の賢者は教えています。
また、その逆もそうです。
これは「禍福は糾える縄の如し」と言われている様です。
それと今一つ「理性を知れ」と昔の賢者は、私達を諭しています。
ここに神秘学的学びにおいて、とても大切なことがあります。
それは「理性を知れ」と言われた時「その言葉の中で疑問に思う事がありますか」と言う事です。
この「理性を知れ」と言う文の中に?はありませんか、と言う事です。
疑問―?を見出し、それに瞑想して行く事が、神秘学の学びです。
「理性」をあなたは知っていますか。
感情は肉につながる心のものですから、普段から使い慣れているから解ると思います。
ですが、理性は、神につながる意識と共にあります。
その「理性」を知ると言う事は、自身の意識を知る事であり、神の片鱗をかいま見るものです。
「理性」とは、ナンでしょうか。
それに疑問を持ち、瞑想し、真我とのつながりを深め、解を与えて頂く。
その与えて頂いた解を「悟り」と言います。
私達は、自分の脳ミソを使って考える事を教わり、それに慣れ過ぎています。
その様な自力的努力を捨て去る事から、神秘学的学びは始まります。
神秘学的な学び方を学ぶ事が、理性を知る事であり、真我とつながって行く事です。
イエスが「まず、天の国と天の義を求めよ」と言ったままです。
人が理性を悟った時、人は人間の言葉では無しに、神の言葉を話す事ができるようになります。
ドリール先生は「エメラルド・タブレットを百回は読め」と言われました。
「百回も読めば、少しは解るだろう」との考えから言われています。
でも「少しは解るだろう」とは「なにが解らないかが解るだろう」との意味です。
「百回も読めばエメラルド・タブレットが少しは理解できるだろう」ではありません。
ここで、問題です。
次の言葉の?を見出し、その?に瞑想してみてください。
「はじめに神は天と地とを創造された」(旧約聖書・創世記・1-1)
余談
私は、水槽でヌマエビとメダカと水草を飼っています。
なぜか、解りますか。
下なる水でも、あると落ち着くからです。
天の物差し、地の物差し (3/1/2025)
人はそれぞれに自分なりの物差し、ものの見方をもっています。
そして人は、その自分の物差しを基にして、自分の人生を生きています。
今から六百年ほど前の室町時代に、一休禅師と言う僧がいました。
この一休禅師は、酒場や色街に入り浸ったと言います。
それも、隠れてコソコソとでは無しに堂々と入り浸っていたそうです。
その様な事から、一休禅師は他の人々から「破戒僧」とも言われました。
ですが、一休禅師は素直に自身の物差しで自身の人生を生き抜きました。
この様な生き方は、悟った人でなければできないものです。
私などは人の目を気にして、他人の持つ物差しに合わせて生きているものです。
情けない限りです。
言い換えるなら、一休禅師の様に悟らない私達は、常に因習的行為規範に自分を縛り付けて生きているものです。
ドリール先生の師は言いました。
「世俗的な人生を捨て霊的真理の実践を為している者にとっては、因習的行為規範を守ろうが守るまいが同じである」 (2023/5のつぶやき参照)
そうなのですよね。
霊的に目覚めた人は、私達が持っている様な歪でねじ曲がった地の物差しなどでは無しに真っ直ぐな天の物差しで自身の人生を生きているんですね。
その様な天の物差しを持った人を、私達の様な地の物差ししか持っていない者には理解できないものです。
ですから荘子は、次の様に言っています。
『北方の海洋に,魚が棲んでいて,名を鯤(こん)と言う。その大きさは何千里なのか見当がつかない。鯤は変身して鳥となり,その名を鵬(ほう)と言う。鵬の背の広さは何千里あるのか,これも見当がつかない。鵬が動き,飛び立つとき,空は雲が立ちこめるときのように,日が陰ってしまう。
蝉と若鳩とが笑って言った,「おい,おれが力いっぱい飛んでも,木から木へ飛び移るのがやっとなんだぜ。時には,途中で地面に落っこちちゃうのにさ。奴ときたらさあ,南へ出かけるのに,九万里も飛び上がるなんざあ,いったいどういうことなんだよ,ばかばかしいったら!」
田舎の方へ出かけ,三度の食事をして帰ってきても,その者は出かけたときと同じように腹を空かせないでいるだろう。しかし百里を旅する者は,一夜を過ごすためにじゅうぶんな米を用意しなければならない。さらに千里を旅する者は,三月もの間かかって,食料を調達しなければならない。
鵬を笑った小さな生き物たちは,何を知っているというのだろう』
本当に、私達の様な小さな者は、ナニを知っているのでしょうか。
善も悪も生も死も無い神の世界を、私達が持つ善悪の物差しでは測りようがありません。
神に近づいた人達を、小さな私達の持つ歪な地の物差しでは測りようがありません。
ドリール先生は「人は困難な経験から得られた光の知識だけが、その人に真の物差しを与えてくれる」と諭しています。
そして「困難を、自身で乗り越えよ」と言います。
一休禅師の労苦も知らずに、一休禅師のことをとやかく言うことなどできはしないものです。
でも多分、一休禅師は私達から見たなら苦労を苦にせずに為したのだと思います。
苦にも囚われること無しに人生を歩んだのだと思います。
そんな一休禅師が七仏通誡偈(諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教)の前の二句「諸悪莫作、衆善奉行」のみを書にしたためました。
「悪い事はするな。善い事をしろ」です。
でも、一休禅師は「本当か」と私達に問いかけてきます。
一休禅師は私達の持っている歪な地の物差しで観てはいません。
天の物差しで推し測った時「諸悪莫作、衆善奉行」の二句は違った顔を見せてくれます。
ヒントは「このはしを渡るな」です。
佛教で言う中道であり、カバラの生命の木で言う中柱(均衡の柱)です。
先に言ったように、神の世界には生も死も、そして善も悪もありません。
地的な善悪に囚われていたら、神の世界は知りようもありません。
そのような中で、天の物差しを得ようとしたなら、どうしたら良いのか。
ドリール先生は、次の様に言っています。
そのためにも「先ず、この物質界の意味と、この物質界にあなたがいる意味とを知らねばならない」
そして「地の物や地の義では無しに、天の国と天の義とを求めよ」と言います。
無 常 (2/1/2025)
「常」とは、天界の絶対にして永遠なるとこしえの状です。
それに対して、この人間界は絶対なるものも永遠なるものが無き「無常」の状です。
昔から「この世の無常を悟れ」と多くの賢者達が、愚かな私達に諭してきました。
「諸行無常」です。
親鸞聖人は、火事になりかけている家の中で幻と言う遊び道具に夢中になっている私達に対して「火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごと、たはごと、まことあることなきに」と諭しています。
でも、なぜ、私達は“この世の無常“を知る事ができないのでしょうか。
乗物などに乗って周りの風景を眺めていると、周囲の風景は変化して行きます。
ですが、その風景を眺めている自分の変化には気付きはしないものです。
なぜなら、自分が見えていないからです。
人は、自分が見えていないから、自分の変化に気付きません。
老人になっても、自分だけ若いつもりでいます。
そのような中、ある日、自分の白髪に気付いたり、病になったりして、自分の身体にも変化が起きていることを気付くものです。
でも、身体の変化は、鏡を見たり、健康診断で知ることはできますが、一番やっかいなのは“心”です。
心はいつまでも、昔の楽しかったことなどの自分にとって居心地の良い状を握りしめ、この世は常しえだと思い続けているものです。
その時、苦が生じてきます。
極端な例で言うと、競馬などのギャンブルで一度大穴を当て、それが忘れられずにギャンブルにはまって行くようなものです。
自分で汗もかかずに、楽に大金が手に入ることが忘れられずに、ギャンブルにはまり込んで行く。
親鸞聖人が言ったように、すべては、空ごと、絵空ごとであり、戯言です。
そして、この世のすべては、変化する幻です。
すべては、移ろい行きます。
善き事も、悪しくなります。
その逆も、またしかりです。
そして、自分が置かれた状に即して、自分の心の中も変化して行かねばならないものです。
自分の身体を含めたすべてが変化して行く中で、心だけが昔の居心地の良い状を握ったままでは軋轢(あつれき)が生じます。
車に例えたなら、自分の身体を含めたすべてはアクセルを踏んでいるのに、そこに乗っている心だけがブレーキをかけていては、その車は壊れて行きます。
心も壊れて行きます。
話も変わって、戦国時代の人、織田信長。
織田信長と言うと、良く「敦盛」を舞っている姿を目にします。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」と言う幸若舞です。
「人間界の五十年などは、天界から観たなら一瞬であり、人間界の一生は夢幻のようなものだ」と言っています。
その中で、大変重要なことは「天界から観たなら人間界の一生は夢幻のようなもの」と謡いながら、常日頃からこの世の無常を心に刻んで行くことです。
そうしながら、意識して自分の心を見つめ直して行くことが大切だと思います。
そうして、心もアクセルを踏んで行くようにし、軋轢を無くしてことです。
そうすることで、この世の無常も観じ得るようになると思います。
簡単に言えば「今を生きる」です。
過去を引きずって今を生きていては、今が輝きません。
それには、信長さんのように舞わなくとも「無常」の文字を日々見つめるだけでも良いと思います。
そして、一番大切なことは「無常」を想いながら、「常(とこしえ)」を知ろうとすることにあります。
天界の絶対にして永遠なる状に想いを馳せ、真実なる世界である天を目指すことです。
親鸞聖人は「火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごと、たはごと、まことあることなきに」の後に「ただ念仏のみぞまことにておわします」と念仏(今の心を佛・神とする行)を通して真実なる存在を知るようにと諭しています。
チベット仏教に「三士の教え」があります。
無常を思い、次の化身を大切にしようとしている人を、小士と言います。
輪廻の輪からの解脱を求める人を、中士と言います。
解脱して利他のために働くことを目指す人を、大士と言います。
人は、まず無常を悟りながら、次の化身を善きものとして行くことから始まります。
小なる士にもなれない人は、火宅無常の世界を幻と共に無限地獄をさ迷い、苦しみ抜いて行くのみです。
水火(イキ) (1/1/2025)
今まで余り語りはしてきませんでしたが、今回は日本の歴史について独断と偏見に満ち満ちた私見を述べたいと思います。
歴史の教科書で、日本の歴史は前14000年前までを旧石器時代としています。
その時代は、気温が低く海面は低下していて大陸と陸続きで動物と共に人々が大陸と行き来していたそうです。
そして、温暖化が始まり海面が上がり日本列島は海に囲まれ孤立し、人々は海や山の物を採って生活する縄文時代がはじまりました。
前14000年前から前1000年頃のことです。
いわゆる神代の時代です。
そして、前1000年ころ稲作技術を持った人々が日本にやって来て弥生時代が始まりました。
そして、300年頃に新たな民族が日本にやって来ました。
大和時代の始まりです。
九州から始まり畿内まで新たな民族が支配して行く事になりました。
それが、今日の日本の始りだと教科書では言われています。
この支配者の変遷を通してナニが起こったのか。
古き力に代わって新しき力が取って代わる。
そこには力のぶつかり合いが生じていました。
最近の話では、1945年に第二次大戦が終わり日本は負けて終戦を迎えました。
そして、日本はアメリカを主体とする連合軍の占領下におかれました。
アメリカによる主導のもとに、日本の様々な行動様式が変えられ今に至っています。
殊に、西暦300年から始まった大和朝廷でも大きな変化がもたらされました。
この様なことが、古代の日本でも行われてきました。
まさに弱肉強食の世界です。
物事の良し悪しではなしに、力の大小による世界です。
今回の問題点は、ナニをして日本の文化と言うのかです。
大和朝廷の命をうけて古事記や日本書紀が編纂されました。
なぜなら、大和朝廷は自分らが滅ぼした弥生文化については知っていても、その弥生文化が一千年以上前に滅ぼした縄文文化については良く分からなかったからです。
良く分からなかったから、縄文以前を神代としました。
そして、その神代の時代から自分らは日本にいたと言いたかったようです。
古事記などは、大和朝廷に即した歴史書と思われていますが、その中には縄文以前の人々の文化(神代の古言)が密かに隠されたいました。
そもそも「あいうえお」の五十音は、なぜ有るのか。
漢字が渡来して、書き言葉の「あいうえお」や「イロハ」の文字ができたと言われています。
そして、五十音の「あいうえお」の順はサンスクリット語から来ているとも言われています。
ですが、これは発音としての、話し言葉としての「あいうえお」が神代の時代から有ったからの話です。
話は飛びますが、江戸の天保年間に「水穂伝」と言う書を残した山口志道と言う方がいます。
山口志道は伏見稲荷に伝わる「稲荷古伝」と山口家に代々伝わる「布斗麻邇御霊」とを使って古事記を読み解きました。
そして「あいうえお」五十音を読み解き「水稲伝」として残しました。
また「日月神事」で有名な岡本天明は「水穂伝」を学び口語訳を残しています。
古事記「天地のはじまり」には「天地のはじまりの時、高天原という場所に、神々が出現した。はじめに出現したのは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかむむすひのかみ)、その次に神産巣日神(かみむすひのかみ)だった」とあります。
山口志道は「水穂伝」で『天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは「天地のはじめ虚空(そら)の正中に`の氣(イキ)なる」と言う御名にして⨀である』と記しています。
そして、その五十音の説明を下記のように記しています。
ア: アは空水(そらみず)の灵(たま、レイ)にして、五十連(いずら、五十音)の水火(イキ)の意。五十音はアから出てアに帰る。
メ: 回るの意。五十連の水火(イキ)の回るを天と言う。
ミナカ:ミは中の意にして、ミナカとは中に中をかさねて言うことばであって、正中(真の中心)の意
ヌシ: ヌはノの濁ったものであり、シはシルシの略。
また、高御産巣日神(たかむむすひのかみ)と神産巣日神(かみむすひのかみ)に関しては次のように記しています。
タ: 灵(たま、レイ)である。
カミ:カラミのラを省いたものにして、タカミとは「灵搦(たまから)む」の意。
ムスヒ:「結ぶ」の意にして父の`(点・チョン)が母の〇に搦む結ぶの火水(カミ)の意。
(山口志道著・岡本天明口語訳「稲穂伝」より)
これ、読んでいて気づきましたか。
これ、カバラ生命の木のケテル、チョクマー、ビナーの三光球の説明であり、ケテル内のホアとホアが発したイキ(HBL)です。
天之御中主神とは、生命の木におけるケテルの中の点で示されているホアです。
⨀(マルチョン)です。
〇(円)がケテルで、中の`(点)がホアです。
(岡本天明は、このマルチョンを「日月神事」の中でよく使っています)
生命の木のケテルの中にある△がホアの創造の基本原理アレフ(創造の聖なる息)・メム(上なる水)・シン(火)です。
(ホアは先ず、創造を始めるためにヘブライ・アルファベットのアレフで象徴される、創造の聖なる息である氣・ヘブリ・HBLを発し、メムで象徴される上なる水を打ち、メムに内在した火・シンを解き放ち創造を始めた。詳しくは「神秘形而上学入門」)
山口志道は、この△を読み解きました。
と言うよりも「稲荷古伝」と「布斗麻邇御霊」の中にカバラ生命の木と同じ内容が記されて いたと言う事です。
記されていたから、「あいうえお」五十音のナゾも読み解いたのです。
五十音とは、ビナーの五十門やバルドの五十の状です。
生まれ、死し、そしてまた生まれる。
まさにアから出てアに帰ります。
アルファからオメガです。
つまりは、神代の時代に海洋民族であるヘブライ人かアトランティス人が日本に来ていたと言う事です。
イスラエルの失われた十氏族ではと言う方もいますが、アブラハムが紀元前1700年頃の人だとすると縄文時代の終わりのころです。
それから、日本へと渡来したとなると時代的には合わなくなります。
また、カタカムナで有名な楢崎皐月は、満州に工場長として行き、吉林・老子廟で蘆有三道士から老子の思想を教わった際に、道士から「これらの事は昔あなたの国から来たものです」と言われたそうです。
また、日本語の発音がヘブライ語と似ていると言われています。
それと、なぜ高句麗(扶余)の人々は海を渡って日本へと来て大和朝廷を作ったのか。
海を渡ってまでも日いづる国に来たかった理由があったのでしょうね。
山口志道さんの事に戻りますが、志道さんは最終的にアレフ(聖なる息)に行き着きました。
水火と書いてイキです。
全てものの始りです。
ホアは意志し発したイキで全てのものが創造されました。
今も、ホアはイキを吐き続けています。
そのイキを頂く事に志道さんは気付き、自身の呼吸法を作り出しました。
朝日に向かい口を大きく開け、日の光を吸い込む事でした。
神秘学やヨガでは、人は空気を肺で吸い込んでいるのでは無しに、空気中のプラナ・エネルギーを吸い込んでいるのだと教えています。
プラナ・エネルギーは空気中の酸素以上に大切なものです。
魚は水を通してエラから酸素を吸収していますが、人は鼻咽喉にある管を通してプラナ・エネルギーを吸込み多くの通路(経絡)を通して全身に行き渡らせています。
それから、高句麗の人々が日本へと来る以前に秦の始皇帝は徐福に命じ不老長寿の秘薬を日本に求めさせました。
弥生時代のころの話です。
不老長寿の妙薬とは、なんでしょうか。
それは、アに始まりアに帰す五十音の輪を断ち切る事です。
それによって、人はホアの下に帰すことができ、死を乗り越えることができます。
真に生きる者となります。

