つぶやき(2023)
集中とリラックス (12/1/2023)
長い息ができる様にと、頑張って訓練している人がいます。
ですが、この様な事は間違っていると思います。
発達した人達が長い息をしている事から、それを真似たい思いからかも知れません。
ですが、肝心な点を見落としています。
それは、リラックスです。
ゆるめる事です。
ゆるめる事が因となって、結果的に長いイキができるものです。
ゆるんでいて、イキも忘れて、一点に集中しているから、自然とイキも長くなるものです。
人は、常日頃から結果にばかり目が行き、原因を考え様とはしません。
因果です。
目に見える現象ばかりに気を取られているのは、間違いの元です。
目に見えるものの背後にあるものを観る様に努めなければ、正しい道は歩けません。
囲碁や将棋のプロの人々は、一時間も二時間も次の一手の為に思考します。
そして、勝敗がつきます。
その時の勝った人と負けた人との違いとは、ナンでしょうか。
それは、どれだけゆるんで集中しているかの違いです。
どれだけ、力が抜けて集中し得ているかです。
これは、囲碁や将棋だけでは無しにスポーツの世界でも言える事であり、私達自身の人生においても言える事です。
心身一如と昔から教えられています。
「心をゆるめたかったなら、身体をゆるめよ」また「身体をゆるめたかったなら、心をゆるめよ」です。
ですから、聖との一体を求める為のヨガは、身体をゆるめながら心をゆるめて行く事から始まります。。
そして、瞑想しえる状態へともって行きます。
集中です。
その為に、ヨガはあります。
ヨガは、神に集中する為にあります。
神とつながる為に、ヨガはあります。
瞑想とは、神とつながりを持つ為のものです。
その様につながりを持つ事で、知識を智慧が授かれるものです。
次の一手が観えてくるものです。
全ては、身体と心がゆるんでいるかどうかです。
ゆるんでいるから、深い集中ができるものです。 ドリール先生が「集中とリラックス」と言う事を大切にしておられた理由です。
理科と社会 (11/1/23)
私達は、小学校で算数・国語・理科・社会を習いました。
特に、この中の理科。
私達は、理科でナニを学んできたのでしょうか。
朝顔の種を蒔き、芽が出て、つるが伸び、花が咲く様を眺め、私達はナニを学んだのでしょうか。
この様な自然をながめながら、私達は自然を創り出している大元を観じ取る事が肝要ではないでしょうか。
自然をながめ、その背後で様々な自然現象を創り出している存在。
その存在に気付く為の学びが、理科だと思います。
朝顔だけではなしに、この私達を生み出し、育てている存在。
その存在に気付く事から、全ては始まるのではないでしょうか。
その気付き無しに人生を歩んで行ったなら、人は大きな過ちを犯してしまうのではないでしょうか。
理科の「理」の字を辞典などで調べると、「ことわり」「宇宙の根本原理」などと出てきます。
神秘学的に言うと「理」とは「聖法則」です。
この物質宇宙に顕現し得ない神が、自身の代わりに顕現させた霊力が「聖法則」です。
その聖法則の働きを、私達は自然を通して見ています。
その学びが「理科」です。
簡単に言うと「理」とは「神」です。
ローマ総督のピラトはイエスに「真理とは何か」と尋ねましたが、イエスは答えませんでした。
言い変えるならピラトは「神とは何か、教えろ」と言ったわけです。
有限な人間の言葉などで、無限なる「神」は語れません。
イエスは、答えられませんでした。
自分自身の周囲すべてが自然であり、自分自身を含めたすべてが神の顕れであるのに、それに気付かない人にはナニも語れません。
また、イエスは人々に「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされた、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」と言いました。 (ヨハネ6-53~57)
イエスは「私達の身体の肉や血を創り出しているものを知れ」と言っています。
人がその存在を知った時、その人はイエスを食べた者と成り、イエスによって生きる者と成ります。
朝顔と同様に自分の身体を観た時、そこに存在している理(ことわり)である聖法則、つまり神を知り得るかどうかです。
つまり、理科の授業を通して真に理(ことわり)を科学してきたかどうかです。
「理性」と言う語があります。
この「理性」の「理」を「神」に置き換えると「神性」となります。
つまり「理性」とは「神から与えられた本質」です。
この「理性」の対語が、肉に付随した「感情」です。
一般的には「感情豊かな人は、人間味があり魅力的だ」と言われ、善き事とされています。
ですが、神秘学では「肉につながる感情は、理性で制御しなければならない」と教えます。
何事にも節度が大切です。
この世の物事は、全て陰平陽秘が肝要です。
ただ、感情をコントロールする理性(神性)は、私達がいくら頭で考えても得られないものです。
理性は、内に入り神や真我とのつながりを強めて行く事の中で与えられるものです。
理性とは他力です。
ドリール先生は「理性とは、心を使う事無しに湧き出る何かである」と言っています。
坐して静かにイキをし、感情につながる心を鎮めて行く事で、理性が湧き出て来るものです。
理性とは、自分で会得するものです。
そして、理性に目覚めた人は、初めて社会を学ぶ事ができます。
霊界とは異なり、いびつな物質界のあり様を学ぶには霊界の眼が必要と成ります。
その眼を通し、あの世とこの世の違いを通して、この世のあり様を学ぶ事が社会の授業となります。
朝顔の種を蒔き、芽が出て、つるが伸び、花が咲く様を眺め、私達はナニを学んだのでしょうか。
[グルの一言]
物の絶えざる変化を観察し、そを智慧の光もて調べたるとき、汝は直ちに解脱せる者とならん。
[おまけ]
「初めに真理(ロゴス)があった。真理は主と共にあった。真理は神であった。この真理は初めに神と共にあった。すべてのものは、真理によってできた。でたもののうち。一つとして真理によらないものはなかった。この真理は命であった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1-1~5)
思う事と行う事 (10/1/23)
ドリール先生は、先生の下を訪れる人々を観て、次の様に言っています。
「非常に多くの人々が、自分の知らないものを求めて我々の下へと来る。或る人々は、或る目的の為に来る。また、別の人々は、別の目的の為に来る。道には、様々な困難がある事は知っている。だが、その様な人々が求めているものは、道でありゴールでは無い。人は、ゴール(目標)を求めねばならない事を悟らねばならない。だが、人々はゴールでは無く、道を求めて我々の下へ来る」と、ドリール先生は言われています。
ただ、ドリール先生は言われてはいませんが、その様な人々はナニが道でナニがゴール(目標)なのかも解ってはいません。
つまり、その様な人々はナニも解ってはいないのです。
今、この文章を読まれているあなたにとってのゴールとはなんでしょうか。
あなたは、明確なゴール(目標)のイメージを持っていますか。
ゴールが明確でなければ、そこへの道も見出せはしないものです。
ドリール先生は「迷ったら、とにかく行動しろ」と、良く言われていました。
「迷ったら、よく考えてから行動しろ」では無いのです。
この違いが解りますか。
この違いとは、ゴールが明確に成っている人と、ゴールのイメージが描き切れていない人との違いです。
「ゴールに向かって行動しろ」なのです。
そうする事で「道は自ずと開けて来る。与えられる」と、ドリール先生は言われています。
言葉を変えて言うと「意志する」と言う事になります。
「志したなら、考えずに、進め」なのです。
なぜなら、神がそうしているからです。
神は意志し、氣(アレフ)を発し、上なる水(メム)を打ち、水の中に潜在していた火(シン)を解き放ち、創造を始めたからです。
神の子である私達も、ゴールを明確にし、ゴールを目指し、意志しなければなりません。
後は、自然と真我が導いてくれます。
こころに音を聴いたなら、それを志し、行動しなければならないのです。
こころで神からの音を聞きながら、思いあぐねいてはならないのです。
神の子である私達は、意思するのでは無しに、意志しなければならないものです。
神を真似て行く事が、私達の學びです。
ただ、ゴールが明確で無い人は、無理をせずに先ずは心を鎮める事です。
下手に考えたりはしない事です。 なぜなら「下手な考え、休むに似たり」だからです。
クソミソ (9/1/23)
「盲人とゾウ」と言うインドの寓話があります。
この寓話は、数人の盲人にゾウを触らせて、その感想を語り合わせると言うものです。
皆さんも一度は聞いた事のある寓話だと思います。
盲人達は、それぞれが触ったゾウの部位について語ります。
そして、盲人達はそれぞれに自分が感じたものが正しいと言い争います。
普通には、この寓話は人の視野の狭さを語っていると言われています。
ですが、そうでしょうか。
話は変わって、次の文はドリール先生が私達の為に作られた瞑想用資料です。
『平穏であれ。しかして我は神であると知れ。霊、光、生命、知識、寛容、聖、信、健康、富裕、統一、愛、喜び、平和、正義、智慧、善、優雅、真理、美、自由、原理等であると知れ』
『この「平穏であれ。しかして我は神であると知れ」の語句を「何回も何回も繰り返しなさい」
そして、この句の中の「神」と言う語を上記の「霊」から「原理」までの各語を代入して日々瞑想しなさい』とドリール先生は教えています。
そして、ドリール先生は『ただ、これらの語は同等のものでは無い。例えば「健康」と言う語は「霊」と同列で考え得るものでは無い。「健康」は、人間的であり世俗的であり物質的である。それに対し「霊」は、対照的に神秘的崇高で荘厳なものである。この二つの語の間には、大なる隔たりがある。
この大なる隔たりとは、霊と物、神と人との間の分離性である』と、私達が過ちを犯さないようにと注意されています。
「神と人」との違い「あの世とこの世」との違い。
古くから、この違いを私達が認識せずにミソ(神)もクソ(物)一緒くたにして大きな過ちを犯している事から、多くの賢者達は「ミソとクソの違いを知れ」と諭しています。
人々がミソとクソの違いも知らないことから、佛教でもこの違いを「四顛倒(常楽我浄)」として教えています。
ですから、先月に述べた三士の中でも、あの世の常(とこ)しえとこの世の無常の違いを知る事が道に立つ前には必要な事だと古き世の人々が教えている、と言いました。
この世が変化する世界であり無常の世界だと言う事を知り、あの世が常しえの世界である事を知る為の学びが、神秘学です。
そんな事は「百も承知」などと言う人は、何も知らないクソミソな人です。
少なくとも、知り始めた人は、何も言いません。
と言うよりも、言えません。
神やあの世の状を、人間の言葉で言おうとした時、過ちが始まります。
ドリール先生が言われた「霊と物・神と人との間にある分離性」を、人間の言葉で表現しようとした時に、人は過ちを犯してしまいます。
先の「盲人とゾウ」の寓話です。
幾世代も前の賢者達が、私達に残してくれた智慧を知らずにいる人の如何に多い事か。
この寓話の盲人とは私達の事で、ゾウとは神の事だと言う事が解りますか。
この世の宗教家と呼ばれる人々も、盲人ばかりです。
それ故に、真実を知ろうともせずに神を自分の物質的な感覚で言うだけです。
その果てに、言い争うだけでは済まずに宗教間で戦争まで行っています。
その様な事が「神の御心に叶う義」だと誰が言うのでしょうか。
“愛”と言う語と共に“真の正義”とは、クソの様なこの世では知り得ないものです。
真の”愛“や”正義“は、彼岸へ渡らない限り知り得ないものであり、神同様にこのクソの様な物質界には顕れようが無いものです。
少なくとも、神やあの世のミソは自身の外では無しに、自身の内で独り静かに思考し求めて行くものです。
神事は、自身の外で言うべきものではありません。
ましてや、言い合いをするものでは決してありません。
この様な人々を、般若心經では「一切の顛倒した夢想から離れなさい」と諭しています。
今月のオマケ
「まことでないものをまことであると見なし、まことであるものを、まことでないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついには真実には達しない」
(真理のことば・ダンマパダ 中村元訳 岩波文庫 より)
三 士 (8/1/23)
先月の会で、中庸(1-2)の「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と言う。発して皆節(聖法則)に中(あた)る、これを和(か)と言う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して天地位し、万物育つ」について話しました。
その折に「『喜怒哀楽の未だ発せざる』の状とは実に味気ないものですね」と言われた方がおられました。
「喜怒哀楽があるから人生なので、喜びも哀しみも無い人生などは実に味気ないと思います」と言われます。
皆さんは、どうお考えになられますか。
と言う以前に、この事を「どの様にして考えますか」と言う事が大切になってきます。
つまり、神秘学的に物事を思考して行く事を瞑想と言いますが、内に入り瞑想して答えを求めて行くか否かです。
瞑想の「瞑」は「死んだ人の面を覆うもの」の意味です。
つまり、瞑想とは目を瞑(つむ)り内に入り死人の様に成って物事を思考して行く事です。
そうする事で、本当の喜怒哀楽の意味に近づいて行けるものです。
そして、解が与えられるものです。
ただ、この様なドリール先生が教える瞑想は、禅僧の方々が行っている座禅とはいささか趣きが異なっています。
ある禅僧の方が「座禅をする際に、目を閉じると内に入ってしまうので目は半眼にします」と言われていました。
ですが、ドリール先生が教える瞑想では目を瞑り、内に入って行きます。
ただ、その時には主に頭の中央にある松果腺(サハスララ)に意識を落ち着かせ、イキをして行きます。
その様に内に入って行った時、明確な方向と目標が無ければ不安になってしまうと共に眠気を誘ってしまいます。
そこは、教わらなければならないものです。
内なる眼と内なる耳とは、意識し意志して行かなければ開かれないものです。
また、ある座禅の会を主催している禅僧の方が、会に来られている生徒の方に関して言われていた事が次です。
その生徒さんが、ある日、会に来る途中の材木店で見た木目の美しさについて目を閉じて集中したいと言われたそうです。
会を主宰している禅僧の方は、座禅の初心者が犯しやすい過ちについて、次の様に言われていました。
その禅僧の方は「座禅とは思いを手放し、考え事をしない事だ」と言われていました。
「木目の美しいさに心に囚われるとは」と嘆かれておられました。
確かに、この禅僧の言われる事は正論なのですが、ドリール先生は今一つの道を教えています。
それは「美しいと思った木目について瞑想し、その美しさについて、その美しさの要因を全て洗い出せ」と教えています。
つまり、その木材の大きさや色目、木目の形、等々です。
それが、真の瞑想だともドリール先生は言われています。
そして「その木目の美しさの要因を一つずつ消して行き、最後に何が残るのかを観、その残ったものに集中しろ」とドリール先生は教えています。
この道に入ったばかりの人は、心と意識の違いが分かりません。
目で見、耳に聞こえる物事に、心を奪われて行きます。
ですが、私達はそこから始めねばならないものです。
入ったばかりの人々は、目に見え耳に聞こえる物事に囚われています。
それが正しい事と思っています。
目に見える美しいものや、幸せな家庭の状況に囚われてしまいます。
ですが、今、美しいと見えたものや幸せと感じられた事は変化して行き、美は醜に幸せは不幸せに変化して行きます。
この世は“無常”の世界です。
この世には“常しえ”はあり得ません。
ですから、先ほどの座禅の会を主宰していた禅僧は言われたのです。
幻から離れる為の座禅なるか故に、心を空(むな)しくして行かなければ真実が観えません、と。
その様な、目に見え耳に聞こえる物事に囚われている私達に対して、佛道では無常、常しえが無い事を思考しろと教えています。
全てのものが変化して行くこの世の無常を知る事が、道の始りだと佛道では教えています。
人が、この世の無常を悟った時、その人を小士と言います。
そして、その状を人天乗と言います。
その小士の人が、次に生まれ変わりを知り輪廻の環からの解脱をはかった時、その人を中士と言います。
そして、その人の状を小乗と言います。
その中士の人が、この世に舞戻り利他の人生を生きた時、その人を大士と言います。
そして、その人の状を大乗と言います。
この小士、中士、大士を三人士と言い、人の進むべき道と佛道では、教えています。
最後に、ドリール先生の言葉「真の愛は、慈善とは大きく異なっている」についてお考え下さい。
意識の違い (7/1/23)
ある店に小僧さんが、二人いました。
その二人の小僧さんの給金は、一人は週二ドルでもう一人は週六ドルでした。
週二ドルの小僧さんが店主に、自分の給金がなぜ低いのかを聞きました。
店主は、週二ドルの小僧さんに週六ドルの小僧さんの働きぶりを見せました。
と言うお話があります。
この話の最後に店主が「これで、お前の給金が違う理由が解っただろう?」と言った処で、話は終わっています。
あなたは、週二ドルの小僧さんは、週六ドルの小僧さんとの違いを理解したと思いますか。
私は、理解し得なかったと思います。
なぜかと言うよりも、この二人の違いとはナニかと言う事を先ず理解しなければなりません。
仕事ができるとは、氣が働くと言う事です。
そこで問題と成るのは、氣働きのできる者と氣が効かずに氣働きのできない者の違いとはナニかと言う事です。
それは、意識レベルの違いです。
ドリール先生は、人間の意識レベルを大きく三つに分けて教えています。
一,理性に目覚めず、感情を制御する事ができない人々、言うならば動物的で未開な意識状態の人々。
二,理性に目覚め始め、感情を制御し始めた人々、言うならば人間的に成り始めた人々です。
三,理性に目覚め、感情を完全にコントロールし得た人々。
動物肉体に備わった心からは、霊につながる氣は発せられません。
聖なる神につながる霊を通し、氣は流れて来ます。
人に霊が流れ始めた時、理性が目覚めはじめます。
ただ、問題は氣を発せられない人に、氣を理解させようとしても無理だと言う事です。
真の氣が発せられない人々が理解し得るものは、悪氣だけだからです。
昨年(2022)の八月のつぶやきで、秋田県の男鹿半島のナマハゲの話をしました。
鬼の様な異様な面をかぶり出刃包丁を持って「悪い子はいねかー、泣く子はいねかー」と言いながら家々を回り、子供らを恐怖でしつけて行くものです。
あなたは、この様な子供への教育をどう思われますか。
ドリール先生は、この様な子供に恐怖のイメージを与える行為を厳に戒めています。
人は、子供の時に植え付けられたイメージを終生持ち続けるものです。
ですから、子供の時に真の神の概念を教えて行くのなら善いのですが、神とは真逆なもののイメージを子供に植え付けて行く事を、ドリール先生は戒めています。
ドリール先生が大好きなH.スペンサーは「人間の持つ唯一の神は、その人自身が作り出したイメージである」と言っています。
この正しい神のイメージは、片側に恐怖を懐きながらでは創り出す事できないものです。
ですから、ドリール先生はインドで「悪い事をしていると次の世にはカエルやヘビに生まれ変わるぞ」と言いながら子供をしつけている様も戒めています。
ドリール先生は、この様な事を教えている大人達の意識レベルを一番心配していました。
感情だけで理性が芽生えていない大人では、子供の理性を芽生えさせる事はできないからです。
ドリール先生は「自分が保菌者だと言う自覚がないままに、菌をまき散らす人ほど手におえない人はいない」と言っています。
ナニが善でナニが悪かも知らずに、善悪の話はできません。
正しい神の概念も無しに、神は語れません。
まして、誤った神のイメージや誤った善悪を持ち、それを子供達に植え付けて行く事は、悪因を積み上げながら、知らず知らずに悪をバラまいている事です。
では、人が自身の意識レベルを上げ、この様な過ちを正して行くにはどうしたら良いのでしょうか。
佛教では、人の意識レベルを上げる方法として八正道を教えています。
八正道とは、正見(正しく見る)、正思惟(正しい思考)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進、正念(正しい想念)、正定(正しい集中)の事です。
ですが、これを行えと言っても中々にできはしないものです。
ナニが正しくてナニが間違いなのかも分からずに、正しく思い考え行おうとしても中々にできないものです。
実生活で正しくしようとしても中々にできないものですが、静かに坐しながらその様に成った自分を想像する事は出来ると思います。
その様な想いを懐き、その自分に集中する事が、正念であり正定となります。
聖法則の想念の法則を使う事です。
「人は、思う如くに成る」です。
実生活で行おうとしても難しい事が、想念の世界では容易くできるものです。
それが、完全な八正道で言われてる自分ではなくても良いので、今の自分で考え得る最良の正しき自分をイメージして想う事です。
ただ、それだけです。
そして、それを続ける事です。
それが、意識レベルを上げる為の方法です。
そして、その想いを日々思い描きながらイキを整えて行く事です。
そうしながら、想い描く自分を少しずつ最良なものとして行く事です。
それが、正しい八正道の学び方です。
そうする事で、霊につながる氣も流れ入り始め、氣づき始めるものです。
ナニを氣づき始めるかと言うと、神の概念と物事の善悪です。
古き賢者は「善と悪の違いは、理解の度合の中にある」と言っています。
週給2ドルの小僧さんもこの様にして意識を高めて行ったなら、週給6ドルにも成った事と思います。
石田三成の三献茶 (6/1/23)
関ヶ原の合戦で一躍有名になった石田村の佐吉さん。
その始りは、近江長浜城主に成った羽柴秀吉に、父と兄と共に小姓として仕えた事とされています。
ただ、これとは別に十四才の佐吉と秀吉との出会いが「三献茶の話」として残されています。
それは、鷹狩りに出た秀吉が途中、喉の渇きから近くの寺に立ち寄り茶を所望した事から始まります。
応対に出た寺の小僧(佐吉)は秀吉を一目見て、ぬるいお茶を大き目の茶碗八文目ほど持ってきました。
秀吉は飲み干し、そして再度、茶を所望しました。
佐吉は、今度は少し熱めで濃い目のお茶を持って来ました。
秀吉は氣付き、再度、茶を所望しました。
今度、佐吉は熱く濃いお茶を小さな茶碗に入れて持って来ました。
その佐吉の氣働きに感服した秀吉は、早々に佐吉を小姓に取り立てたと言うお話です。
この話は後世の作だと言う説もありますが、要は、この話に石田三成の個性が良く表されており、それが逆に木下藤吉郎時代から育てられた武将達に反感を買った因とも成っているとも言える事です。
で、話は現在に代わり80近くになる白朋誌の読者のAさん。
ある日、古くからの友人のBさんから電話をもらったそうです。
そして、話をしている中でBさんに言われたようです。
「もう、そんなに長くないんだから、周りの事に振り回されずに、残りの人生は自分の好きな様に勝手気ままに生きて行くわ。あなたもそうするべきよ」
と、言われたそうです。
で、Aさんは話を聞きながら、何かがおかしいと思い「この様な場合には、どう言ったら良いのでしょうか」と、電話で尋ねてきました。
で、あなたならどの様に氣を働かせてBさんに対応しますか、と言う問いです。
ちなみに「氣」とは「气+米」から成り「客におくる食料」の事だそうです。
如何に、相手の事を思い考えるかと言う事です。
言い換えるなら、相手である客について、どの様に瞑想するか、と言う事です。
思考すると、Bさんが周囲の物事に対処しきれずに逃れようとして自棄になって自分を見失っている事が分かります。
Bさんにとっての客とは、どの様な方なのかは分かりませんが、その客を思う事もできず、考えただけでも嫌に成っている状態にBさんが陥っているのだと思います。
そんなに疲れているのなら、疲れが取れる迄何も言わずに、そっとしておいて上げる事だと、私は思います。
「人生とは、学校の様なものだ」とドリール先生は言われています。
その人その人に与えられた課題を自分で解いて行く事が、人生と言う学校です。
そして、課題を解く上で最も大切な事は、方向を間違わない事です。
言い換えるなら、客の上下を間違わない事が大切な事だと思います。
一番の上客とは、神だと言う事を忘れてはいけないと言う事だと思います。
その神を思い行動する事には、大義が生じます。
ですが、下客を思い行動する中からは、小なる義しか生じません。
石田三成は、なぜ関ヶ原の合戦で敗れたのでしょうか。
それは、大義が無かったからだと思います。
豊臣秀吉と言う一個人を思って行動を起こしても、そこには大義はありません。
神不在の行動は方向を誤っている事から、正しい答えが得られません。
とどのつまり、人生と言う試験に落第してしまいます。
そして再度、再試験会場へと導かれる事となります。
その問題を解決するまで、同じ様な問題が出されるます。
なぜなら、それがその人の一番の弱点だからです。
Bさん同様に私達も、早く合格したいものです。
それと、試験に合格する為には、もう一つ大切な事があります。
それは、人生における問題と遭遇し悩み苦しんだ後です。
悩み苦しみを通して、何かを得たかどうかです。
得た人とは、成長し、変わるものです。
悔い改めです。
言い換えるなら、自分を無くして行く事だと思います。
自分と言う存在があるから、様々な問題と出合ってしまいます。
低級な自我が消えて行く事で、真の自我が顕れてくるものです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」です。
それは、この人生における最後の最後の瞬間にでも許される事です。
イエスは「夜の十一時にでも悔い改めたなら許される」と言っています。
グルの教え (5/1/23)
以下は、先月のオマケで載せた「グルの教え」です。
1)真剣に霊的人生に自身を捧げている者にとっては、世俗的な活動を差し控えていようが控えまいが同じ事である。
2)心の超越的特性を悟った者にとっては、瞑想していようがいまいが同じである。
3)世俗的快楽贅沢への執着から解脱した者には、禁欲生活をしていようがいまいが同じである。
4)実在を悟った者にとっては孤独で、遠く離れた山中に住もうが大衆の中をさ迷うが同じである。
5)心を支配した者にとっては、世俗の楽しみを楽しもうが楽しむまいが同じである。
6)真の慈悲(ケセド)を悟った者にとっては、独りで瞑想していようが大衆の中で他人の善の為に働こうが同じである。
7)謙虚で師への尊敬の信が揺るがない者にとっては、師と共にいようといまいと同じである。
8)自分の教わった教えを完全に理解した者にとっては、幸運に遭おうと不運に遭おうと同じである。
9)世俗的な人生を捨て霊的真理の実践を為している者にとっては、因習的行為規範を守ろうが守るまいが同じである。
10)崇高な智慧を授かった者にとっては、奇跡的とも思われる様な力を使おうが使うまいが同じである。
この10項目、お読みになられて解りましたか。
私には、未だ、理解し得ません。
なぜなら、これは師に認められチェラ(弟子)となった方々へのグル(師)の教えだからです。
道の前に立つ門をくぐってもいない私達に対する教えではないのです。
門前に立ち道に入ってもいない私達には「真剣に霊的人生に自身を捧げている者」や「心の超越的特性を悟った者」や「世俗的快楽贅沢への執着から解脱した者」や「実在を悟った者」や「心を支配した者」や「真の慈悲(ケセド)を悟った者」や「謙虚で師への尊敬の信が揺るがない者」や「自分の教わった教えを完全に理解した者」や「世俗的な人生を捨て霊的真理の実践を為している者」や「崇高な智慧を授かった者」などの状をハッキリと解ろうはずが無いからです。
先月、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道を語りました。
天道や人間道にいる方々からは、下位にいる人々の心は手に取る様に解ります。
ですが、修羅道や畜生道や餓鬼道や地獄道にいる私達には、人間道や天道にいる上位の方々の状をうかがい知るすべもありません。
世俗的な人生を捨て、因習的行為規範に縛られる事が無い一休禅師が、色街で酒を飲み肉を食べ女と遊んだとて、その遊びと私たちの遊びとでは違います。
もて方が違います。
私達からは下種の勘繰りをするばかりで、真の禅師のココロには至りません。
その様な下種の私達に、一休禅師は次の様に諭す事でしょう。
(1)真剣に霊的人生に自身を捧げていない者は、世俗的な活動を差し控えなければならない。
(2)心の超越的特性を悟らない者は、瞑想していなければならない。
(3)世俗的快楽贅沢に執着している者は、禁欲生活をしなければならない。
(4)実在を悟らない者は、孤独と沈黙を守り、大衆の中をさ迷ってはならない。
(5)心を支配していない者は、世俗の楽しみを楽しんではならない。
(6)真の慈悲を悟らない者は、独り沈黙の内に瞑想し、大衆の中で他人の善の為に働いてはならない。
(7)謙虚で師への尊敬の信を確立していない者は、師と共にいなければならない。
(8)教えを完全に理解していない者は、幸運に出合い喜び、不運に出遭い悲しむ。
(9)世俗的な人生を捨て霊的真理の実践を為していない者は、因習的行為規範を守っていなければならない。
(10)崇高な智慧を授かっていない者には、奇跡的な力は使えない。
この中で、(6)の「大衆の中で他人の善の為に働いてはならない」が、普通の人々には理解し得ないものだと思います。
「人助けはしてはならない」と言っているのです。
この言葉、理解できますか。
この言葉が理解し得ない人は、修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道にいる証拠です。
天道や人間道にいる人々の気持ちを推し量る事ができない証左です。
この言葉は、真に神を求め無い人、神秘の道や密教の道に入ってはいない人には関係が無い言葉です。
ですが、神を求め、神秘の道や密教の道に入ろうとしている人には理解しなければならない事です。
マタイ8-21~22に『弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい』と記されています。
「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」が理解できますか。
“死んでいる様な者”と“生きる者”との違いが解りますか。
イエス流に言えば「死人に施しをすることは、死人に任せておくがよい」です。
人生を真に生きようとし、門前に立つ者が死んでいる様な者達にかかわりを持ってはいけないのです。
未熟な者には「他人の善の為に働いてはならない」のです。
それは、少なくとも道に立ち歩き始めてからの話です。
道に立ち歩き始めた時、初めて「学んだ事の範囲で善を施せ」とドリール先生は言われています。
道に立ってもいない者が、ボランティアなどの人助けをしたなら、どうなるか解りますか。
車のブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込んで行ったなら、どうなりますか、と言う事です。
当然、車は壊れてしまいます。
それと同様に、その人の身体が壊れて行きます。
白朋誌を読まれている方の中にも、何人かその様な方がおられます。
「白朋誌を読むだけがナニ」では無いのです。
それが、神秘学の怖さです。
ドリール先生は「ほとんどの人達は、真理を抽象的なものだと思っている。しかし、聖真理が現実的なものと成った時、気が付く事であろう」と言われています。
それと同様に、未だ学んでもおらず門前に立っている未熟な者には「他人の善の為に働く」(他人の因果の輪の中に入って行く)等と言う事は力不足なのです。
もし、そうしたければ学ぶ事です。
その様な事を行うだけの時間が有ったなら「あらゆる教派の聖者方の教えを、非個人的に学べ」とドリール先生は教えています。
物事には、順番があります。
今なにをしなければならないかを間違ってはならないのです。
それが嫌なら、早々に神秘学の学びを止め、死者達の中に戻る事です。
親鸞が歎異抄の中で「次の生で浄土に生まれ、佛陀になったときには、誰彼の差別なしに救わなければならないものです」と言っているココロが解りますか。
十牛図で中国の禅僧が、ナニを語りたかったのか解りますか。
お考えください。
さもなくば、心を迷わせ困らす人々の中へと戻り死人の如くに人生を漂い行く事です。
人生を、独り死人の如くに漂い行く者
人生を、神と遊びイキする者
人助け(4/1/23)
法然上人や親鸞聖人が大切にした経典に浄土三部経の一つ「大無量寿経」があります。
その中に阿弥陀仏の四十八願というものがあり、法然上人は特に第十八願を大切にされたそうです。
その第十八願とは「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)るものだけは除かれます」と言うものです。
五逆とは、、父母や聖者を殺めたり、佛を傷つけたり、教団に危害を加える事です。
で、へその曲がった私は、ここで考えてしまいます。
ナニを考えるかと言うと、歎異抄第五条です。
その第五条では『親鸞聖人は「亡き父母に孝養を尽くすために追善供養する」と言うような意味をこめて念仏を申したことは一度もありません。なぜなら、すべての生ある者は、みな生まれかわり死にかわりを通して、互いに、あるときは父母となり、またあるときは兄弟ともなったものだからです。この生を終わって、次の生で浄土に生まれ、佛陀になったときには、誰彼の差別なしに救わなければならないものです』と言っています。
人は、生まれ変わり死に変わりを繰り返しながら、人生とバルドの輪を回っています。
物質肉体は、死を通して原子・分子に戻って行きます。
ですが、肉体内に入っていた意識(魂)は、この物質界からバルドの界へと行き、普通は再び物質界へと戻り、新たな赤子の肉体に入り、新たな人生を始めます。
(詳しくは「神秘形而上学入門」を参照ください)
ですから、生まれ変わると言うことは、新たな親子関係の始りでもあります。
つまり、あなたの友達が過去においては父母や兄弟や子であったかもしれません。
あなたの兄弟が過去において父母や子や友人であったかも知れないのです。
ですから、生まれ変わりを知った人にとっては、今の父母も周囲の人達も区別はありません。
全てが有縁な人々なのです。
今の父母を殺める事も、周囲の人を殺める事も、何らの区別も無いのです。
でも、どうして第十八願では父母を殺める事が最悪だと言っているのでしょうか。
佛教では、人が生まれ変わる時に行く世界には六つの道があると言っています。
それは、その人の意識のレベルでもあります。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道です。
それぞれの世界(道)にいる人々の意識が違う事から、観音菩薩はそれぞれのレベルに合わせて自身を変えて法を説き、救おうとされます。
また、観音菩薩には三十三の変化パーターンを持っているとも言われています。
三十三は、フリーメーソンの階層でも使われている数字です。
説明が長くなりましたが、
阿弥陀仏の四十八願は、密教を知らない人々を対象にして語っています。
それに対して、歎異抄は、親鸞聖人が弟子達に教えた密教が基本となっています。
丁度、イエスが弟子達に「なぜ、彼らには譬で話すのか」と問われて「あなた方は天の国の奥義を知る事が許されているが、彼らには許されていない」と答えた状です。
ですから、観音菩薩は三十三の顔をもって、様々な人々の状態に合わせて法を説き、導いて行かれたのです。
で、私がナニを言いたいかと言うと、人の意識のレベルによって善悪が変わって行くと言う事です。
意識レベルの低い人々には「決して自分の父母だけは、殺めてはならない」と説きます。
生まれ変わりを知った人々には「人を殺めてはならない」と説きます。
こうなって来ると、善悪が変わってきます。
聖正義をつかさどるゼブラーは、さぞや困ってしまう事だと思います。
と思うのは私だけのようで、ゼブラーは何も困りはしないのだそうです。
神に代わって人々を裁くゼブラーの秤の基準は、神です。
その基準は、神であり、聖法則です。
人が作った法律は、全てが人中心で作られ、人と人との関係を規制しています。
ですが、神が創った聖法則は神中心の法則であり、神と人との関係を規制しています。
聖法則の因果の法則における善因と悪因とは、神との関係における善悪です。
それを知らずに、善因を撒いているつもりが悪因を撒いていては、人生ナニをやっているのか分からなくなります。
これを“無智”と言います。
人に善かれと思ってやっている事が、神にとっては悪しき事だったとしたらどうなってしまうのでしょうか。
その様な間違いを正してあげる為に、菩薩はあの世から再びドロだらけのこの世に来臨され、泥まみれになって菩薩行を行じています。
先の歎異抄の中で親鸞聖人は「次の生で浄土に生まれ、佛陀になったときには、誰彼の差別なしに救わなければならない」と言っています。
これが、人助けの極意です。
阿弥陀仏の四十八願でも「わたしが仏になるとき」と言っています。
般若心経でも「羯諦羯諦 波羅羯諦」と「彼岸へ行こう、行こう」と語りかけています。
十牛図でも彼岸へ渡った後の菩薩行を教えています。
なぜでしょうか。
それは、彼岸であるアストラル界へ行く事で、地上界では教える事ができない様々な智慧を霊界にいる師達が直接に教える事ができるからです。
先月引用したコリント人への第二の手紙 12―2~4で記されている様にです。
ですから、ドリール先生は私達にアストラル界へ行く為のチャクラの開け方など様々な行法を教えています。
地上にいて、神(火水)のか(火)の字も知らないままに人助けなど出来ようはずもありません。
只々、悪因を積むだけと成ってしまうのがオチです。
人が今の人生において為すべき一番大切な事とは、彼岸へ渡る準備をする事です。
人が今の人生においてイの一番に行わなければならない事は、アストラル界である彼岸へと渡る為の準備をする事です。
人助け等のその他の事は、四番五番目にする事です。
それが、真の人助けです。
それが、人に与えられた神の働き人としての仕事です。
それは、いつも言っている事ですが、沈黙の内に坐し呼吸を整える事から始まります。
自身の心を静め、自身の内の意識(魂)に目覚め、真我や神とのつながりを強めて行く事です。
そして、悔い改める事です。
ただ“悔い改め“を間違わない様にしてください。
後ろを振り返り、過去に為した自分の行いを悔いる事ではありません。
身と意(こころ)とを新しくしなければ、改める事にはなりません。
「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、あたらしいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちするであろう」 (マタイ 9-17)
今月のおまけ グルの教え
〇真剣に霊的人生に自身を捧げている者にとっては、世俗的な活動を差し控えていようが控えまいが同じ事である。
〇心の超越的特性を悟った者にとっては、瞑想していようがいまいが同じである。
〇世俗的快楽贅沢への執着から解脱した者には、禁欲生活をしていようがいまいが同じである。
〇実在を悟った者にとっては孤独で、遠く離れた山中に住もうが大衆の中をさ迷うが同じである。
〇心を支配した者にとっては、世俗の楽しみを楽しもうが楽しむまいが同じである。
〇真の慈悲(ケセド)を悟った者にとっては、独りで瞑想していようが大衆の中で他人の善の為に働こうが同じである。
〇謙虚で師への尊敬の信が揺るがない者にとっては、師と共にいようといまいと同じである。
〇自分の教わった教えを完全に理解した者にとっては、幸運に遭おうと不運に遭おうと同じである。
〇世俗的な人生を捨て霊的真理の実践を為している者にとっては、因習的行為規範を守ろうが守るまいが同じである。
〇崇高な智慧を授かった者にとっては、奇跡的とも思われる様な力を使おうが使うまいが同じである。
瞑想7 (3/1/23)
金曜日のドリール先生の瞑想の言葉が次です。
「霊において真理において、我には魂の緩慢なく、魂の強暴なく、心の欲望なく、心情なく、形態なし。わが真理は永遠の生命、全能、生命活力である」
「真に霊と真理とを以て礼拝できる人は、自身の真我とつながる魂に目覚めている。
それ故に、自身の魂を以て真我の眼で自身の物質肉体の心を観、魂を以て心を制御している。
魂に目覚めているから、全能にして生命活力である真の理と道を知り、永遠の生命に活きている」とドリール先生は教えています。
ですが、自分の魂に目覚め、霊と真理を知る事ができていないから苦労している私達です。
どうしたら、よいのでしょうか。
イエスは「私は道を示す為に来た。私が道であり、私は生命である」と言い「私が歩んだ道と同じ道を歩まねばならない」と言いました。
このイエスが言う“道”とは、どの様な“道“なのでしょうか。
ただ問題は、この言葉は弟子達に言った言葉であり、奥義を許されてもいない私達に対して言った言葉では無いと言う事です。
イエスは弟子達には天の国の奥義を教えましたが、自分自身を証明していない私達は教えてはもらえません。
イエスは私達の事を「見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないから、あなた方には譬でしか話せない」と言っています。
言い変えるなら、イエスは「聖書に記されている譬を学び、それをヒントにして道を求めなさい」と言っています。
そして、ドリール先生は「読め、そして賢くなれ」と諭しています。
でも、イエスやドリール先生が言っている“道”とは、どんな“道”なのでしょうか。
もう少し、詳しく説明してはもらえないのでしょうか。
と、求めていると現れてくるものです。
真我が、ヒントを教えてくれるものです。
「般若波羅蜜多心經」と言う260文字ほどの佛教経典があります。
ここに、イエスやドリール先生が言っている“道”が記されています。
般若波羅蜜多心經の冒頭に「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」とあります。
この14文字が、道です。
ただの人が、菩薩となり、その菩薩が“観自在菩薩”に成った道です。
この14文字が、心經の全てであり、神秘学の全てです。
「行深般若波羅蜜多」で示された道が行えるかどうかが、神秘学の全てであり、イエスが教えようとした道、そのものです。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」を読むと、次の様になります。
「菩薩が行じ、彼岸(あの世)内奥深くに至り、般若(聖なる智慧)を授かった時、この世の物事もあの世の物事もすべて自由自在に観る事ができるようになった」
波羅蜜多は、完全とか彼岸(あの世)と訳されていますが、要は不完全な物質界(此岸)で得た不完全な知恵や知識では無く、完全なる霊界(彼岸)内奥で授かった完全なる聖智慧(般若)と言う事です。
その聖智慧を授かり知った時、自身の真我とつながる魂に真に目覚める事ができ、観自在菩薩となります。
彼岸内奥へと行った時、自身の真我とつながる魂に目覚め、自身の魂を以て真我の眼で自身の物質肉体の心を観、魂を以て心を制御し得、全能にして生命活力である真の理と道を知り、永遠の生命に活きる事ができる様にとなります。
それまでは、単に彼岸(あの世)を想像し、思い描いているにすぎません。
この様に言うと「なぜ、もっと解るように教えてはくれないのか」と言うことでしょう。
ですが、幽体離脱の経験者パウロはコリント人への第二の手紙 12―2~4で、自身の幽体離脱の経験を次の様に言っています。
「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天まで引き上げられた――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、それは知らない。神がご存知である。この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存知である――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている」
「口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉」とは、何か解りますか。
パウロが幽体離脱し霊界(彼岸)に連れて行ってもらった時、そこで霊体を通して観聴きした事は「地上(この世・此岸)の戻った時には、地上の言葉では表現できなかった」とパウロは言っています。
パウロだけで無く、観自在菩薩もイエスもドリール先生でも、霊界や神を人間の言葉で表現する事はできないのです。
神や聖なる存在は、如何なる人でも教える事が、言う事ができない存在なのです。
ですから、その様に霊界を知った人々は言葉で表現し得ない物事を“象徴”を通して教えています。
そして、聖なるものを真に知るには、彼岸に渡り、自身で知るより他に手立ては無いのです。
ですから、ドリール先生も常日頃から私達に「幽体離脱が、できる様になれ」と言われています。
ただ、ここで誤ってはならない重要な事があります。
それは、パウロが“引き上げられた”と言っている事です。
“行った”では無いのです。
パウロは「パラダイスに行った」では無く“パラダイスに引き上げられた”と言っています。
この違いが、解りますか。
つまり、真の幽体離脱とは、自分で行うもの(自力)では無いのです。
真の幽体離脱とは、真我から引き上げてもらうもの(他力)なのです。
“蜘蛛の糸“です。
その幽体離脱ができ、第三天まで引き上げられるようになる為の方法は、古来から賢者達が象徴を使って教えています。
般若心經でも、最後に「羯諦 羯諦」と言う象徴を使って教えています。
イエスは「OZZA OZZA」と言う象徴を使って教えています。
これらは、言葉を使った象徴です。
これらの言葉をいくら訳してみても、解ろうはずはありません。
同じ言葉を並べる事の意味が解りますか。
言葉としては同じでも、その意味する処は違います。
同じに見える言葉でも、その言葉を通して賢者達は「陰(ネガテブ・潜在)陽(ポジテブ・顕在)」を教えようとしています。
そして、その二つのバランスを取るようにと教えています。
つまりは、この世に潜在している霊とこの世に顕現している物とのバランスです。
この世を生きるには「霊と物とのバランスを取る事が大切だと」教えています。
このバランスが取れないままに幽体離脱などした日には、聖光の輝く霊界では無しに、暗黒の闇の中へと入りこんでしまいます。
ですから、先ずは「自身の心と感情とを見詰め、心と感情の働きを知り、心と感情を制御する方法を学べ」とドリール先生は教えています。
そうする事が、自身の魂を知る事につながり、真の礼拝ができるようにと成って行く、とドリール先生は教えています。
それが“円“の完成でもあります。
それが“アルファでありオメガ”です。
經のおまけ
「般若心經」は、玄奘三蔵法師が西暦629~645年にインドに渡り唐に持ち帰り翻訳したものです。
般若心經の原文は、サンスクリット語でプラジュニャーパーラミター・フリダヤと言われる佛典です。
このサンスクリット語では「經」に当たる語はありません。
三蔵法師さんが、中国語に翻訳する過程で付け加えたものです。
なぜ、三蔵法師さんは佛典に“經“の文字を付け加えたのか。
それも、象徴です。
三蔵法師さんはインドに行き、様々な書物を学んでいる時“スートラ”と言う語を知りました。
私達に一番なじみが深いスートラに「ヨーガ・スートラ」があります。
ヨーガの根本経典とも言われるものです。
“スートラ”と言う語の大本の意味は「たて糸」の意味です。
つまり、書かれている一節一節をたて糸にして、自身でよこ糸を差しはさみながら、自身で織り上げ、一反の織物を織り上げろとの意が含まれています。
ですから、三蔵法師さんも“スートラ”に対応する中国語に“經”の文字を当てはめました。
“經”の文字のいわれは機織り機です。
スートラの意味そのままに、経典の言葉をたて糸にして、人生の様々な出来事をよこ糸にし、自身の人生と言う織物を織り上げろと“經”の文字が諭しています。
もしよろしければ「心經入門」も、御一読ください。
瞑想6 (2/1/23)
「霊において真理において、我に無知なく、欺心なく、虚栄心なく、あらゆる過剰愛なし。
わが真理は、智慧であり、知識であり、聖であり、原初のものであり、創造力である。」
「霊において真理において」とは、ヨハネ4-24「 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊と真理とをもって礼拝するべきである」からきている言葉です。
でも、このヨハネ4-24、不思議に思いませんか。
イエスは「神=霊」だと言います。
そして、神への礼拝は「霊と真理とで礼拝しなさい」と言います。
言い変えると、イエスは「神への礼拝には霊だけではダメ」と言っています。
なぜでしょうか。
この意味を知るには「霊」や「真理」の意味を知らねば始まりません。
はじまりは、神(ホア)の思いでした。
ホアは自身をながめ、今以上の完全を求めました。
自身をポジテブとネガテブとに分け、そのネガテブを見詰め、そのネガテブのポジテブ化を図りました。
それが、全ての始まりでした。
ホアは、完全を目指して思考し意志しました。
ホアは、意志し力を発しました。
その力が、霊力と呼ばれるものです。
神たるホアは、ネガテブを捕捉する為に自身の力を弱めながら霊界・聖心界・四次元界、そしてネガテブと接し得る物質界を創り上げ、その物質界に私達人間を配し、自身はケテル内奥へと引き下がりました。
ただ、ホアは自身が創造した霊界・聖心界・四次元界・物質界を維持する為に、それぞれの界に法則を創り、それぞれの界において神が意志した様に各界が機能する様にと霊力を発し続けながら法則を機能させています。
そのホアが発し続けているアレフ、イキが、霊です。
そして、各界を維持し機能させている聖なる法則が真理と言われるものです。
ですから、神の霊力によって存在し、機能している聖なる法則。
言い換えると、私達を含め全てを存在させているものが、聖法則であり、その聖法則を機能させているエネルギーが霊力です。
ですから、私達は感謝を込めて「この世に神の代わりに顕現し、私達を存在させている霊と真の理である聖法則に感謝を込めて礼拝しなければならない」とイエスは言います。
「我に無知なく、欺心なく、虚栄心なく、あらゆる過剰愛なし」
ドリール先生は「この霊と真理とを知り真の礼拝が行える者には、無知もなく、真の自分である真我を欺く心も、物質肉体的虚栄心や、あらゆる物質を過剰に愛する事も無くなる」と教えています。
また、ドリール先生は「霊と真理を知らない者は、無知だ」と言います。
実なる霊も真理も知らずに、虚なる幻のみを見、求めている私達を「無知だ」と、ドリール先生は言います。
ですが、目で見えるものが幻で虚にして実体が無いと言われても、中々に理解できるものではありません。
「目に見える愛しきものを愛でる事が虚しいものだ」と言われても、中々に理解できるものではありません。
「神の目から観た時、朝に生れた者が夕方には死んで行く。その様なものの中に、何の実があろうか。その様なものは虚でしかない」とドリール先生は言われます。
その様に、中々理解できない私達をドリール先生は「無知」だと言われるのです。
そして「その様に実を観る事ができないから、無知で真の自分を欺き、物的な自分に虚栄心を懐き、物的な自分を殊更に愛しんでいる」と言います。
そして「その無知こそが、悪と不幸の母だ」ともドリール先生は言われます。
その「無知」とは、なんでしょうか。
無知とは「智慧が無い事であり、知識が無い事だ」と、ドリール先生は教えます。
その智慧とは、ナニかと言うと「智慧とは、真の理である聖法則を知る事」だとドリール先生は言います。
先に、聖法則とは神がこの物質界を創られケテルの内奥へと引き下がるにあたり、自身の代わりに霊界・聖心界・四次元界・物質界を機能させ、私達を護る為にと創り出されたものだと言いました。
ですから「聖法則とは、神なり」と言われています。
つまり「聖法則を知る」とは「神を知る」と言う事に他なりません。
それでは、私達は、神のナニを知っているのでしょうか。
私達は、聖法則のナニを知っているでしょうか。
私達は、聖法則を知り、そしてその聖法則と調和し、霊的に発達し、自分自身の人生の主人公に成っているでしょうか。
そうではない私達を観て、ドリール先生は「白朋誌を読め、そして霊的に発達しろ」と言っています。
ですが、私達は「霊的に発達する」と言う事が、なにを意味しているのかを、どれほど考えているのでしょうか。
私達は「霊的に発達する」と言う事と共に「真理」がナニかが分からないままに、霊と真理を意味不明のものとしています。
その様な私達ですから、霊と真理とで真の礼拝をする事ができません。
ですが、その抽象的と思われる「聖なる真理」が現実的に自分自身の人生に様々な災いとして顕れた時に、人は初めて真理を、聖法則を、霊を、神を知る事となります。
そして、神の方を向き、神に懇願するものです。
「聖なる真理」とは、日々私達が生かされている全てです。
この宇宙は、聖なる法則によって支配されており、どの様な人でも聖法則は破る事はできません。
人が聖法則は破ろうとした途端に、その人は自分自身を破る事となります。
人が聖法則は破ろうとした途端、その人は調和状の神から離れて行く事となります。
調和状から離れる事で、その人には不調和が現れてきます。
当然の事です。
ですが、私達が神の方を向き、聖法則を破る事なしに、聖法則を学び、聖法則と調和して生きる方法を学ぶ事で、この聖法則が私達に霊力を与え、私達を神の様に自由にさせます。
どの様な人でも、神として宇宙に存する聖法則を破る事はできないのです。
ですが、私達は智慧と知識が足りないと言う無知から、聖法則に、神に反して、自分自身を破っています。
それ故に「聖法則を知り、神を知り、霊的に発達し、聖法則と、神と調和する事を学べ」と、ドリール先生は言われています。
それが、智慧と言われるものです。
その智慧を、人が神から与えられた時、人は自分自身の人生の主人公になれます。
「わが真理は、智慧であり、知識であり、聖であり、原初のものであり、創造力である。」
それ故に「真理とは、智慧であり、知識であり、聖であり、原初のものであり、創造力だと言う事を知れ」と、ドリール先生は私達を諭しておられます。
「つまり、真の理(ことわり)である聖法則を人が、神から与えられ知った時、それが智慧と成り知識となる。その聖法則とは神であり、原初からのものであり、人が原初から持っていた創造力を再び持つ事ができる」と、ドリール先生は言われています。
「聖なる創造力を以て、自身の人生を創造し、自分の人生の主人公となれ」と諭しておられます。
ただ、間違ってはならない事が一つあります。
それは、肉体を含めた物質は幻ですが、私達意識体が物質界で神に代わって働く為の道具です。
道具が無ければ働けません。
お借りした道具すから、働きが終わる迄、大切に使わなくてはらないものです。
ですから、古来より賢者達が口をそろえて、霊と物とのバランスを取る様にと言っています。
その様な賢者達が未熟な私達を観て、私達が陥りやすい過ちを次の様に諭しています。
1、知性の強さと共に信仰の弱さを持った者は、しゃべり過ぎると言う誤りに陥りやすい。
2、知性の弱さと信仰の強さとを持った者は、心の狭い教条主義に陥りやすい。
3、適切な宗教的指導が無い、大いなる熱意は誤った極端、つまり間違った道を歩むと言う誤りに陥りやすい。
4、教義をよく聞き、熟考すると言う十分な準備の無い瞑想は、無意識の暗黒に迷い込むと言う誤りに陥りやすい。
5、教義の適切な理解と実行とが無い者は、宗教的自己満足と言う誤りに陥りやすい。
6、意識が、自己を無くす事と無限の憐憫とに訓練されていない者は、自分のみの解脱を求めると言う誤りに陥りやすい。
7、意識が、それ自身の非物質性の知識を得ない限り、人は世俗の道に沿ってあらゆる誤りに陥りやすい。
8、あらゆる世俗的欲望や野望が消え去らない限り、人は世俗的動機によって自分自身を導いてしまうと言う誤りに陥りやすい。
9、自分に称賛が集めるを許す事によって、世俗的誇りで偉ぶると言う誤りに陥りなすい。
10、自身の神秘学の知識や能力を誇る事で、人は世俗的儀式おいて、その能力を誇らしげに示すと言う誤りに陥りやすい。
「霊的に発達する」と言う事をよくよくお考えください。
「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」(ヨハネ3-6)
瞑想5 (12/30/22)
私が水曜日に使っているドリール先生の瞑想の言葉が次です。
「霊において真理において、我には恐れなく、不安なく、凶事の予感なく、悲哀なく、疑惑なく、労苦なく、性急なし。わが真理は信であり、全能であり、我無限の供給であり、我無限の防御である」
「霊において真理において」は、礼拝だと言いました。
話は変わって、今回のつぶやきは一月の初めではなしに、十二月の終わりです。
なぜかって言いうと、東京の二月「白朋誌を読む会」の会場申し込みが役所の都合で新年は一月の四日となり、申し込みが終わってから白朋誌1月号を発送すると到着が一月の六日以降となり、八日の会との間が余りに無さすぎなので、本年だけ一月号を年末に発送する事としました。
それに伴い「つぶやき」も31日となったと言う次第です。
ただ、一月号には二月の東京会場のお知らせを載せる事ができませんでした。
二月の東京会場については、四日以降の本ホームページもしくは一月の東京会場でご確認ください。
で、またまた話は変わって、今年ももう終わりです。
早いもので、林先生から白朋舎を引き継いで十一年が過ぎようとしています。
私もあれから十一も歳を取りました。
皆さんも十一も歳を取りました。
そのせいか、最近、病を患う方が多々見受けられる様になりました。
問題は、ご自身や周囲の方々がその様なネゲーションと出遭った時の対応です。
まさに、今までの学びが試されているかの様です。
今月号でドリール先生が教えられた「非抵抗の法則」と「引き寄せの法則」の実修とも言えます。
自分に現れた状を消そうとして抵抗するのか、どうするのか。
その答えは、その人自身で答えを出して行かねばなりません。
それが、人生と言う学校にいる各自に与えられた問題です。
ただ言える事は、その状はその人にとって必要なものだから、その人に与えられたのだと言う事を、先ず認め、そして考え、答えを求めて行かなければ、次の人生でも同じような問題が与えれてしまうと言う事です。
病を患うと言っても、ガンと医者から言われ、今まで他人事の様に思っていた死が自分の目の前に現れてきた時、人は戸惑うものです。
その時に「死にざま」に氣を取られるのか、「生きざま」に氣をそそぐのかです。
神なら、真我なら、どうするのか。
神がするように、真我がするように、自身もする事が、真の礼拝となります。
霊において真理において、如何なる状においても自分は如何に今日一日を神のように真我のように生きるのか、それを考え、行う事が、真の礼拝となります。
「我には恐れなく、不安なく、凶事の予感なく、悲哀なく、疑惑なく、労苦なく、性急なし」
真の礼拝ができ、自身の内に恐れも不安も凶事の予感も悲哀も疑惑も労苦も急ぐ事も無い状にする為には、どうしたら良いのかが問題となります。
イエスは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とマタイ福音書(11-28~30)で言っています。
イエスは「私のくびきを負いなさい」と言っています。
「くびき」とは、木でできた首輪です。
ただ、勘違いをしてはいけないのは、「くびきを負う」とはイエスの操り人形になるのでは無いと言う事です。
操るのは、本当の自分である理性であり、意識であり、霊的人間であり、真我です。
操られるのは、物質肉体、物質人間です。
つまり「肉体が自分勝手に動き回っている事で、幻的な荷物が重くなっている。真我の指示に従って、理性を目覚めさせ、肉体と感情とを操る事で、荷物は軽くなる」とイエスは教えています。
そうする事で、自身の内に恐れも不安も凶事の予感も悲哀も疑惑も労苦も急ぐ事も無い状に成ると、イエスは教えています。
ただ、ここで問題は「どうしたら、真我のくびきを負う事ができるのか」だと思います。
話は変わって「ヨガ」と言う語の語源が、ナニか分かりますか。
「ヨガ」とは「つなぐ」とか「結合」の意味があり、また「くびき」と言う意味も持っています。
つまり、イエスが言う様に、肉体と言う物質人間に支配されるのでは無しに、肉体を道具として使い、感情を克服し肉体を支配しながら物質人間を操り、人生を生きろと言うわけです。
その一つの方法を教えているのが「ヨガ」です。
ただ、「ヨガ」と言うと体操のイメージを持たれるかもしれませんが、ヨガにはもっと深遠なものがあり、真のヨガは人を深遠な処へと運んで行ってくれます。
ヨガにもハタ・ヨガ、ジュニャーナ・ヨガ、ラージャ・ヨガ、バクティ・ヨガなどがあります。
なぜ、こんなにもヨガの種類があるのでしょうか。
それには、ちゃんと理由があります。
生命の木には、霊界・聖心界・四次元界・物質界の四つの状があります。
神が天下って来た道です。
私達霊的人間が、昇って行かねばならない道です。
四つの界を、それぞれに昇って行くには、それぞれに克服の仕方が変わって行きます。
ヨガでは、その四つの界に即した学び方を四つのヨガを通して教えています。
物質界を克服する為の肉体ヨガであるハタ・ヨガ、四次元界を克服する為の智慧のヨガであるジュニャーナ・ヨガ、聖心界を克服する為の王のヨガであるラージャ・ヨガ、そして霊界を克服し神と愛で結ばれ一体と成る為の愛のヨガであるバクティ・ヨガです。
つまり、ヨガは神我一体となる為の道を教えています。
カバラで言う、イルミネーションの状です。
ヨガに、なぜ生命の木が出て来るのかと不思議に思われるかも知れませんが、そこには古きいにしえの物語があります。
はるか昔、世界の善と悪とが北極と南極の地に分かれて争っていました。
北極にいた善なるホワイト・ロッジは、南極にいた暗黒の者達に追われて、ゴビの地へと逃げて行きました。
ですが、その地からも暗黒の者達に追われて去る事となりました。
そして、光の人々は、当時ヘブライ人達が住んでいたアトランティスの島々へと渡りました。
そのアトランティスも、暗黒の者達に追われ去る事となってしまいました。
アトランティスの島々が沈む時、トートはケム(セム)の地(アラビア半島)へと行きました。 (白朋誌547,548号 地球周期 参照)
そして、そこで人々に智慧を与えました。
それが、カバラです。
また、大神殿の監守者でありトートの父トートメ(ホーレット)は、アトランティスの島々が沈んだ時にチベットへ行き、チベットで聖白色同胞団(ホワイト・ロッジ)をまとめ上げ今日のシャンバラを創り上げました。
すべては、アトランティスの智慧であり、いにしえからのホワイト・ロッジの教えです。
ですから、ドリール先生もブラバッキー婦人もイエスもピタゴラスも様々な処で学び、最後にはチベットの地に行きアトランティスの深遠なる智慧を授かり、世にアトランティス(ホワイト・ロッジ)の智慧を広めて行きました。
この地球上の全ての正しき教えは、ホワイト・ロッジの教えから派生したものです。
ただ、真の教えは一つですが、それを聞く人々は千差万別です。
その為に、方便として譬えを使い、人々に神へと戻る道を教えています。
その基本が、ヨガであり、生命の木の十の数字と二十二文字からなる三十二の道です。
それが完成し真我のくびきを負うた時、人は自身の内に恐れも不安も凶事の予感も悲哀も疑惑も労苦も急ぐ事も無い状になります。
当舎では、東京と大阪で会を催しています。
午前中には「坐会」を、そして午後から「読む会」を開催しています。
この意味を真に理解している方が、どれ程いるでしょうか。
つたない私ですが、午前と午後を通して三つのヨガを表しています。
午前の「座会」とは、ハタ・ヨガとジュニャーナ・ヨガの学びです。
午後の「読む会」とは、ラージャ・ヨガの学びです。
どれ程の人が、白朋誌を通してドリール先生が語る教えがラージャ・ヨガだと気付いているのかと、いぶかしく思います。
ドリール先生の教えとは、人生における自分自身の王となる為の学びです。
ですから、中々に白朋誌を読める方が少ないわけです。
自身の肉体を緩め心を静めなければ、白朋誌は読めはしないものです。
ただ、無理して「坐会」や「読む会」へ来てくれ等とは言ってはいないので、お間違いなき様にねがいます。
それから、次いでと言ってはなんですが。
言語でも、アトランティスのコトバが世界中に広まっています。
良くドリール先生が言われる、釈尊の母の名マーヤとイエスの母の名マリヤとは共に“幻”と言う意味を持っています。
また“南無阿弥陀仏”を分解すると「南無」はnamasで「よりどころとする」の意であり「阿弥陀」とはa,meterでアは否定でメーターは「はかる」で「はかり知れない」の意味となり、全体としては「はかり知れない人に非ざる神をよりどころとする」の意味となります。
で、このメーターはラテン語のnometior(はかる)ギリシャ語のmehtron(測定器)となり、現代では私達が使っている長さの単位メートルと形を変えて使われています。
世界は、知らず知らずのうちにアトランティスのシャンバラの聖白色同胞団(ホワイト・ロッジ)の文化の影響を受けています。
「わが真理は信であり、全能であり、我無限の供給であり、我無限の防御である」
ドリール先生は教えます。
まず“信”を得なさいと教えます。
ただ“信”とは、頭で幾ら考えても得られるものではありません。
まずは、肉体の緊張を解きほぐし、真に肉体を心をリラックスさせる事です。
ですが、リラックスとは中々に難しいものです。
その実践が、ハタ・ヨガとなります。
その実践が、坐す事です。
その実践が、自身のイキを見詰める事です。 それができ、神を知り、神への信を授かり、神が全能である事を知ったなら、神は自分に全てを与え、自分を守ってくれている事を知ります。