つぶやき(2023)
石田三成の三献茶 (6/1/23)
関ヶ原の合戦で一躍有名になった石田村の佐吉さん。
その始りは、近江長浜城主に成った羽柴秀吉に、父と兄と共に小姓として仕えた事とされています。
ただ、これとは別に十四才の佐吉と秀吉との出会いが「三献茶の話」として残されています。
それは、鷹狩りに出た秀吉が途中、喉の渇きから近くの寺に立ち寄り茶を所望した事から始まります。
応対に出た寺の小僧(佐吉)は秀吉を一目見て、ぬるいお茶を大き目の茶碗八文目ほど持ってきました。
秀吉は飲み干し、そして再度、茶を所望しました。
佐吉は、今度は少し熱めで濃い目のお茶を持って来ました。
秀吉は氣付き、再度、茶を所望しました。
今度、佐吉は熱く濃いお茶を小さな茶碗に入れて持って来ました。
その佐吉の氣働きに感服した秀吉は、早々に佐吉を小姓に取り立てたと言うお話です。
この話は後世の作だと言う説もありますが、要は、この話に石田三成の個性が良く表されており、それが逆に木下藤吉郎時代から育てられた武将達に反感を買った因とも成っているとも言える事です。
で、話は現在に代わり80近くになる白朋誌の読者のAさん。
ある日、古くからの友人のBさんから電話をもらったそうです。
そして、話をしている中でBさんに言われたようです。
「もう、そんなに長くないんだから、周りの事に振り回されずに、残りの人生は自分の好きな様に勝手気ままに生きて行くわ。あなたもそうするべきよ」
と、言われたそうです。
で、Aさんは話を聞きながら、何かがおかしいと思い「この様な場合には、どう言ったら良いのでしょうか」と、電話で尋ねてきました。
で、あなたならどの様に氣を働かせてBさんに対応しますか、と言う問いです。
ちなみに「氣」とは「气+米」から成り「客におくる食料」の事だそうです。
如何に、相手の事を思い考えるかと言う事です。
言い換えるなら、相手である客について、どの様に瞑想するか、と言う事です。
思考すると、Bさんが周囲の物事に対処しきれずに逃れようとして自棄になって自分を見失っている事が分かります。
Bさんにとっての客とは、どの様な方なのかは分かりませんが、その客を思う事もできず、考えただけでも嫌に成っている状態にBさんが陥っているのだと思います。
そんなに疲れているのなら、疲れが取れる迄何も言わずに、そっとしておいて上げる事だと、私は思います。
「人生とは、学校の様なものだ」とドリール先生は言われています。
その人その人に与えられた課題を自分で解いて行く事が、人生と言う学校です。
そして、課題を解く上で最も大切な事は、方向を間違わない事です。
言い換えるなら、客の上下を間違わない事が大切な事だと思います。
一番の上客とは、神だと言う事を忘れてはいけないと言う事だと思います。
その神を思い行動する事には、大義が生じます。
ですが、下客を思い行動する中からは、小なる義しか生じません。
石田三成は、なぜ関ヶ原の合戦で敗れたのでしょうか。
それは、大義が無かったからだと思います。
豊臣秀吉と言う一個人を思って行動を起こしても、そこには大義はありません。
神不在の行動は方向を誤っている事から、正しい答えが得られません。
とどのつまり、人生と言う試験に落第してしまいます。
そして再度、再試験会場へと導かれる事となります。
その問題を解決するまで、同じ様な問題が出されるます。
なぜなら、それがその人の一番の弱点だからです。
Bさん同様に私達も、早く合格したいものです。
それと、試験に合格する為には、もう一つ大切な事があります。
それは、人生における問題と遭遇し悩み苦しんだ後です。
悩み苦しみを通して、何かを得たかどうかです。
得た人とは、成長し、変わるものです。
悔い改めです。
言い換えるなら、自分を無くして行く事だと思います。
自分と言う存在があるから、様々な問題と出合ってしまいます。
低級な自我が消えて行く事で、真の自我が顕れてくるものです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」です。
それは、この人生における最後の最後の瞬間にでも許される事です。
イエスは「夜の十一時にでも悔い改めたなら許される」と言っています。
グルの教え (5/1/23)
以下は、先月のオマケで載せた「グルの教え」です。
1)真剣に霊的人生に自身を捧げている者にとっては、世俗的な活動を差し控えていようが控えまいが同じ事である。
2)心の超越的特性を悟った者にとっては、瞑想していようがいまいが同じである。
3)世俗的快楽贅沢への執着から解脱した者には、禁欲生活をしていようがいまいが同じである。
4)実在を悟った者にとっては孤独で、遠く離れた山中に住もうが大衆の中をさ迷うが同じである。
5)心を支配した者にとっては、世俗の楽しみを楽しもうが楽しむまいが同じである。
6)真の慈悲(ケセド)を悟った者にとっては、独りで瞑想していようが大衆の中で他人の善の為に働こうが同じである。
7)謙虚で師への尊敬の信が揺るがない者にとっては、師と共にいようといまいと同じである。
8)自分の教わった教えを完全に理解した者にとっては、幸運に遭おうと不運に遭おうと同じである。
9)世俗的な人生を捨て霊的真理の実践を為している者にとっては、因習的行為規範を守ろうが守るまいが同じである。
10)崇高な智慧を授かった者にとっては、奇跡的とも思われる様な力を使おうが使うまいが同じである。
この10項目、お読みになられて解りましたか。
私には、未だ、理解し得ません。
なぜなら、これは師に認められチェラ(弟子)となった方々へのグル(師)の教えだからです。
道の前に立つ門をくぐってもいない私達に対する教えではないのです。
門前に立ち道に入ってもいない私達には「真剣に霊的人生に自身を捧げている者」や「心の超越的特性を悟った者」や「世俗的快楽贅沢への執着から解脱した者」や「実在を悟った者」や「心を支配した者」や「真の慈悲(ケセド)を悟った者」や「謙虚で師への尊敬の信が揺るがない者」や「自分の教わった教えを完全に理解した者」や「世俗的な人生を捨て霊的真理の実践を為している者」や「崇高な智慧を授かった者」などの状をハッキリと解ろうはずが無いからです。
先月、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道を語りました。
天道や人間道にいる方々からは、下位にいる人々の心は手に取る様に解ります。
ですが、修羅道や畜生道や餓鬼道や地獄道にいる私達には、人間道や天道にいる上位の方々の状をうかがい知るすべもありません。
世俗的な人生を捨て、因習的行為規範に縛られる事が無い一休禅師が、色街で酒を飲み肉を食べ女と遊んだとて、その遊びと私たちの遊びとでは違います。
もて方が違います。
私達からは下種の勘繰りをするばかりで、真の禅師のココロには至りません。
その様な下種の私達に、一休禅師は次の様に諭す事でしょう。
(1)真剣に霊的人生に自身を捧げていない者は、世俗的な活動を差し控えなければならない。
(2)心の超越的特性を悟らない者は、瞑想していなければならない。
(3)世俗的快楽贅沢に執着している者は、禁欲生活をしなければならない。
(4)実在を悟らない者は、孤独と沈黙を守り、大衆の中をさ迷ってはならない。
(5)心を支配していない者は、世俗の楽しみを楽しんではならない。
(6)真の慈悲を悟らない者は、独り沈黙の内に瞑想し、大衆の中で他人の善の為に働いてはならない。
(7)謙虚で師への尊敬の信を確立していない者は、師と共にいなければならない。
(8)教えを完全に理解していない者は、幸運に出合い喜び、不運に出遭い悲しむ。
(9)世俗的な人生を捨て霊的真理の実践を為していない者は、因習的行為規範を守っていなければならない。
(10)崇高な智慧を授かっていない者には、奇跡的な力は使えない。
この中で、(6)の「大衆の中で他人の善の為に働いてはならない」が、普通の人々には理解し得ないものだと思います。
「人助けはしてはならない」と言っているのです。
この言葉、理解できますか。
この言葉が理解し得ない人は、修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道にいる証拠です。
天道や人間道にいる人々の気持ちを推し量る事ができない証左です。
この言葉は、真に神を求め無い人、神秘の道や密教の道に入ってはいない人には関係が無い言葉です。
ですが、神を求め、神秘の道や密教の道に入ろうとしている人には理解しなければならない事です。
マタイ8-21~22に『弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい』と記されています。
「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」が理解できますか。
“死んでいる様な者”と“生きる者”との違いが解りますか。
イエス流に言えば「死人に施しをすることは、死人に任せておくがよい」です。
人生を真に生きようとし、門前に立つ者が死んでいる様な者達にかかわりを持ってはいけないのです。
未熟な者には「他人の善の為に働いてはならない」のです。
それは、少なくとも道に立ち歩き始めてからの話です。
道に立ち歩き始めた時、初めて「学んだ事の範囲で善を施せ」とドリール先生は言われています。
道に立ってもいない者が、ボランティアなどの人助けをしたなら、どうなるか解りますか。
車のブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込んで行ったなら、どうなりますか、と言う事です。
当然、車は壊れてしまいます。
それと同様に、その人の身体が壊れて行きます。
白朋誌を読まれている方の中にも、何人かその様な方がおられます。
「白朋誌を読むだけがナニ」では無いのです。
それが、神秘学の怖さです。
ドリール先生は「ほとんどの人達は、真理を抽象的なものだと思っている。しかし、聖真理が現実的なものと成った時、気が付く事であろう」と言われています。
それと同様に、未だ学んでもおらず門前に立っている未熟な者には「他人の善の為に働く」(他人の因果の輪の中に入って行く)等と言う事は力不足なのです。
もし、そうしたければ学ぶ事です。
その様な事を行うだけの時間が有ったなら「あらゆる教派の聖者方の教えを、非個人的に学べ」とドリール先生は教えています。
物事には、順番があります。
今なにをしなければならないかを間違ってはならないのです。
それが嫌なら、早々に神秘学の学びを止め、死者達の中に戻る事です。
親鸞が歎異抄の中で「次の生で浄土に生まれ、佛陀になったときには、誰彼の差別なしに救わなければならないものです」と言っているココロが解りますか。
十牛図で中国の禅僧が、ナニを語りたかったのか解りますか。
お考えください。
さもなくば、心を迷わせ困らす人々の中へと戻り死人の如くに人生を漂い行く事です。
人生を、独り死人の如くに漂い行く者
人生を、神と遊びイキする者
人助け(4/1/23)
法然上人や親鸞聖人が大切にした経典に浄土三部経の一つ「大無量寿経」があります。
その中に阿弥陀仏の四十八願というものがあり、法然上人は特に第十八願を大切にされたそうです。
その第十八願とは「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)るものだけは除かれます」と言うものです。
五逆とは、、父母や聖者を殺めたり、佛を傷つけたり、教団に危害を加える事です。
で、へその曲がった私は、ここで考えてしまいます。
ナニを考えるかと言うと、歎異抄第五条です。
その第五条では『親鸞聖人は「亡き父母に孝養を尽くすために追善供養する」と言うような意味をこめて念仏を申したことは一度もありません。なぜなら、すべての生ある者は、みな生まれかわり死にかわりを通して、互いに、あるときは父母となり、またあるときは兄弟ともなったものだからです。この生を終わって、次の生で浄土に生まれ、佛陀になったときには、誰彼の差別なしに救わなければならないものです』と言っています。
人は、生まれ変わり死に変わりを繰り返しながら、人生とバルドの輪を回っています。
物質肉体は、死を通して原子・分子に戻って行きます。
ですが、肉体内に入っていた意識(魂)は、この物質界からバルドの界へと行き、普通は再び物質界へと戻り、新たな赤子の肉体に入り、新たな人生を始めます。
(詳しくは「神秘形而上学入門」を参照ください)
ですから、生まれ変わると言うことは、新たな親子関係の始りでもあります。
つまり、あなたの友達が過去においては父母や兄弟や子であったかもしれません。
あなたの兄弟が過去において父母や子や友人であったかも知れないのです。
ですから、生まれ変わりを知った人にとっては、今の父母も周囲の人達も区別はありません。
全てが有縁な人々なのです。
今の父母を殺める事も、周囲の人を殺める事も、何らの区別も無いのです。
でも、どうして第十八願では父母を殺める事が最悪だと言っているのでしょうか。
佛教では、人が生まれ変わる時に行く世界には六つの道があると言っています。
それは、その人の意識のレベルでもあります。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道です。
それぞれの世界(道)にいる人々の意識が違う事から、観音菩薩はそれぞれのレベルに合わせて自身を変えて法を説き、救おうとされます。
また、観音菩薩には三十三の変化パーターンを持っているとも言われています。
三十三は、フリーメーソンの階層でも使われている数字です。
説明が長くなりましたが、
阿弥陀仏の四十八願は、密教を知らない人々を対象にして語っています。
それに対して、歎異抄は、親鸞聖人が弟子達に教えた密教が基本となっています。
丁度、イエスが弟子達に「なぜ、彼らには譬で話すのか」と問われて「あなた方は天の国の奥義を知る事が許されているが、彼らには許されていない」と答えた状です。
ですから、観音菩薩は三十三の顔をもって、様々な人々の状態に合わせて法を説き、導いて行かれたのです。
で、私がナニを言いたいかと言うと、人の意識のレベルによって善悪が変わって行くと言う事です。
意識レベルの低い人々には「決して自分の父母だけは、殺めてはならない」と説きます。
生まれ変わりを知った人々には「人を殺めてはならない」と説きます。
こうなって来ると、善悪が変わってきます。
聖正義をつかさどるゼブラーは、さぞや困ってしまう事だと思います。
と思うのは私だけのようで、ゼブラーは何も困りはしないのだそうです。
神に代わって人々を裁くゼブラーの秤の基準は、神です。
その基準は、神であり、聖法則です。
人が作った法律は、全てが人中心で作られ、人と人との関係を規制しています。
ですが、神が創った聖法則は神中心の法則であり、神と人との関係を規制しています。
聖法則の因果の法則における善因と悪因とは、神との関係における善悪です。
それを知らずに、善因を撒いているつもりが悪因を撒いていては、人生ナニをやっているのか分からなくなります。
これを“無智”と言います。
人に善かれと思ってやっている事が、神にとっては悪しき事だったとしたらどうなってしまうのでしょうか。
その様な間違いを正してあげる為に、菩薩はあの世から再びドロだらけのこの世に来臨され、泥まみれになって菩薩行を行じています。
先の歎異抄の中で親鸞聖人は「次の生で浄土に生まれ、佛陀になったときには、誰彼の差別なしに救わなければならない」と言っています。
これが、人助けの極意です。
阿弥陀仏の四十八願でも「わたしが仏になるとき」と言っています。
般若心経でも「羯諦羯諦 波羅羯諦」と「彼岸へ行こう、行こう」と語りかけています。
十牛図でも彼岸へ渡った後の菩薩行を教えています。
なぜでしょうか。
それは、彼岸であるアストラル界へ行く事で、地上界では教える事ができない様々な智慧を霊界にいる師達が直接に教える事ができるからです。
先月引用したコリント人への第二の手紙 12―2~4で記されている様にです。
ですから、ドリール先生は私達にアストラル界へ行く為のチャクラの開け方など様々な行法を教えています。
地上にいて、神(火水)のか(火)の字も知らないままに人助けなど出来ようはずもありません。
只々、悪因を積むだけと成ってしまうのがオチです。
人が今の人生において為すべき一番大切な事とは、彼岸へ渡る準備をする事です。
人が今の人生においてイの一番に行わなければならない事は、アストラル界である彼岸へと渡る為の準備をする事です。
人助け等のその他の事は、四番五番目にする事です。
それが、真の人助けです。
それが、人に与えられた神の働き人としての仕事です。
それは、いつも言っている事ですが、沈黙の内に坐し呼吸を整える事から始まります。
自身の心を静め、自身の内の意識(魂)に目覚め、真我や神とのつながりを強めて行く事です。
そして、悔い改める事です。
ただ“悔い改め“を間違わない様にしてください。
後ろを振り返り、過去に為した自分の行いを悔いる事ではありません。
身と意(こころ)とを新しくしなければ、改める事にはなりません。
「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、あたらしいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちするであろう」 (マタイ 9-17)
今月のおまけ グルの教え
〇真剣に霊的人生に自身を捧げている者にとっては、世俗的な活動を差し控えていようが控えまいが同じ事である。
〇心の超越的特性を悟った者にとっては、瞑想していようがいまいが同じである。
〇世俗的快楽贅沢への執着から解脱した者には、禁欲生活をしていようがいまいが同じである。
〇実在を悟った者にとっては孤独で、遠く離れた山中に住もうが大衆の中をさ迷うが同じである。
〇心を支配した者にとっては、世俗の楽しみを楽しもうが楽しむまいが同じである。
〇真の慈悲(ケセド)を悟った者にとっては、独りで瞑想していようが大衆の中で他人の善の為に働こうが同じである。
〇謙虚で師への尊敬の信が揺るがない者にとっては、師と共にいようといまいと同じである。
〇自分の教わった教えを完全に理解した者にとっては、幸運に遭おうと不運に遭おうと同じである。
〇世俗的な人生を捨て霊的真理の実践を為している者にとっては、因習的行為規範を守ろうが守るまいが同じである。
〇崇高な智慧を授かった者にとっては、奇跡的とも思われる様な力を使おうが使うまいが同じである。
瞑想7 (3/1/23)
金曜日のドリール先生の瞑想の言葉が次です。
「霊において真理において、我には魂の緩慢なく、魂の強暴なく、心の欲望なく、心情なく、形態なし。わが真理は永遠の生命、全能、生命活力である」
「真に霊と真理とを以て礼拝できる人は、自身の真我とつながる魂に目覚めている。
それ故に、自身の魂を以て真我の眼で自身の物質肉体の心を観、魂を以て心を制御している。
魂に目覚めているから、全能にして生命活力である真の理と道を知り、永遠の生命に活きている」とドリール先生は教えています。
ですが、自分の魂に目覚め、霊と真理を知る事ができていないから苦労している私達です。
どうしたら、よいのでしょうか。
イエスは「私は道を示す為に来た。私が道であり、私は生命である」と言い「私が歩んだ道と同じ道を歩まねばならない」と言いました。
このイエスが言う“道”とは、どの様な“道“なのでしょうか。
ただ問題は、この言葉は弟子達に言った言葉であり、奥義を許されてもいない私達に対して言った言葉では無いと言う事です。
イエスは弟子達には天の国の奥義を教えましたが、自分自身を証明していない私達は教えてはもらえません。
イエスは私達の事を「見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないから、あなた方には譬でしか話せない」と言っています。
言い変えるなら、イエスは「聖書に記されている譬を学び、それをヒントにして道を求めなさい」と言っています。
そして、ドリール先生は「読め、そして賢くなれ」と諭しています。
でも、イエスやドリール先生が言っている“道”とは、どんな“道”なのでしょうか。
もう少し、詳しく説明してはもらえないのでしょうか。
と、求めていると現れてくるものです。
真我が、ヒントを教えてくれるものです。
「般若波羅蜜多心經」と言う260文字ほどの佛教経典があります。
ここに、イエスやドリール先生が言っている“道”が記されています。
般若波羅蜜多心經の冒頭に「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」とあります。
この14文字が、道です。
ただの人が、菩薩となり、その菩薩が“観自在菩薩”に成った道です。
この14文字が、心經の全てであり、神秘学の全てです。
「行深般若波羅蜜多」で示された道が行えるかどうかが、神秘学の全てであり、イエスが教えようとした道、そのものです。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」を読むと、次の様になります。
「菩薩が行じ、彼岸(あの世)内奥深くに至り、般若(聖なる智慧)を授かった時、この世の物事もあの世の物事もすべて自由自在に観る事ができるようになった」
波羅蜜多は、完全とか彼岸(あの世)と訳されていますが、要は不完全な物質界(此岸)で得た不完全な知恵や知識では無く、完全なる霊界(彼岸)内奥で授かった完全なる聖智慧(般若)と言う事です。
その聖智慧を授かり知った時、自身の真我とつながる魂に真に目覚める事ができ、観自在菩薩となります。
彼岸内奥へと行った時、自身の真我とつながる魂に目覚め、自身の魂を以て真我の眼で自身の物質肉体の心を観、魂を以て心を制御し得、全能にして生命活力である真の理と道を知り、永遠の生命に活きる事ができる様にとなります。
それまでは、単に彼岸(あの世)を想像し、思い描いているにすぎません。
この様に言うと「なぜ、もっと解るように教えてはくれないのか」と言うことでしょう。
ですが、幽体離脱の経験者パウロはコリント人への第二の手紙 12―2~4で、自身の幽体離脱の経験を次の様に言っています。
「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天まで引き上げられた――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、それは知らない。神がご存知である。この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存知である――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている」
「口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉」とは、何か解りますか。
パウロが幽体離脱し霊界(彼岸)に連れて行ってもらった時、そこで霊体を通して観聴きした事は「地上(この世・此岸)の戻った時には、地上の言葉では表現できなかった」とパウロは言っています。
パウロだけで無く、観自在菩薩もイエスもドリール先生でも、霊界や神を人間の言葉で表現する事はできないのです。
神や聖なる存在は、如何なる人でも教える事が、言う事ができない存在なのです。
ですから、その様に霊界を知った人々は言葉で表現し得ない物事を“象徴”を通して教えています。
そして、聖なるものを真に知るには、彼岸に渡り、自身で知るより他に手立ては無いのです。
ですから、ドリール先生も常日頃から私達に「幽体離脱が、できる様になれ」と言われています。
ただ、ここで誤ってはならない重要な事があります。
それは、パウロが“引き上げられた”と言っている事です。
“行った”では無いのです。
パウロは「パラダイスに行った」では無く“パラダイスに引き上げられた”と言っています。
この違いが、解りますか。
つまり、真の幽体離脱とは、自分で行うもの(自力)では無いのです。
真の幽体離脱とは、真我から引き上げてもらうもの(他力)なのです。
“蜘蛛の糸“です。
その幽体離脱ができ、第三天まで引き上げられるようになる為の方法は、古来から賢者達が象徴を使って教えています。
般若心經でも、最後に「羯諦 羯諦」と言う象徴を使って教えています。
イエスは「OZZA OZZA」と言う象徴を使って教えています。
これらは、言葉を使った象徴です。
これらの言葉をいくら訳してみても、解ろうはずはありません。
同じ言葉を並べる事の意味が解りますか。
言葉としては同じでも、その意味する処は違います。
同じに見える言葉でも、その言葉を通して賢者達は「陰(ネガテブ・潜在)陽(ポジテブ・顕在)」を教えようとしています。
そして、その二つのバランスを取るようにと教えています。
つまりは、この世に潜在している霊とこの世に顕現している物とのバランスです。
この世を生きるには「霊と物とのバランスを取る事が大切だと」教えています。
このバランスが取れないままに幽体離脱などした日には、聖光の輝く霊界では無しに、暗黒の闇の中へと入りこんでしまいます。
ですから、先ずは「自身の心と感情とを見詰め、心と感情の働きを知り、心と感情を制御する方法を学べ」とドリール先生は教えています。
そうする事が、自身の魂を知る事につながり、真の礼拝ができるようにと成って行く、とドリール先生は教えています。
それが“円“の完成でもあります。
それが“アルファでありオメガ”です。
經のおまけ
「般若心經」は、玄奘三蔵法師が西暦629~645年にインドに渡り唐に持ち帰り翻訳したものです。
般若心經の原文は、サンスクリット語でプラジュニャーパーラミター・フリダヤと言われる佛典です。
このサンスクリット語では「經」に当たる語はありません。
三蔵法師さんが、中国語に翻訳する過程で付け加えたものです。
なぜ、三蔵法師さんは佛典に“經“の文字を付け加えたのか。
それも、象徴です。
三蔵法師さんはインドに行き、様々な書物を学んでいる時“スートラ”と言う語を知りました。
私達に一番なじみが深いスートラに「ヨーガ・スートラ」があります。
ヨーガの根本経典とも言われるものです。
“スートラ”と言う語の大本の意味は「たて糸」の意味です。
つまり、書かれている一節一節をたて糸にして、自身でよこ糸を差しはさみながら、自身で織り上げ、一反の織物を織り上げろとの意が含まれています。
ですから、三蔵法師さんも“スートラ”に対応する中国語に“經”の文字を当てはめました。
“經”の文字のいわれは機織り機です。
スートラの意味そのままに、経典の言葉をたて糸にして、人生の様々な出来事をよこ糸にし、自身の人生と言う織物を織り上げろと“經”の文字が諭しています。
もしよろしければ「心經入門」も、御一読ください。
瞑想6 (2/1/23)
「霊において真理において、我に無知なく、欺心なく、虚栄心なく、あらゆる過剰愛なし。
わが真理は、智慧であり、知識であり、聖であり、原初のものであり、創造力である。」
「霊において真理において」とは、ヨハネ4-24「 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊と真理とをもって礼拝するべきである」からきている言葉です。
でも、このヨハネ4-24、不思議に思いませんか。
イエスは「神=霊」だと言います。
そして、神への礼拝は「霊と真理とで礼拝しなさい」と言います。
言い変えると、イエスは「神への礼拝には霊だけではダメ」と言っています。
なぜでしょうか。
この意味を知るには「霊」や「真理」の意味を知らねば始まりません。
はじまりは、神(ホア)の思いでした。
ホアは自身をながめ、今以上の完全を求めました。
自身をポジテブとネガテブとに分け、そのネガテブを見詰め、そのネガテブのポジテブ化を図りました。
それが、全ての始まりでした。
ホアは、完全を目指して思考し意志しました。
ホアは、意志し力を発しました。
その力が、霊力と呼ばれるものです。
神たるホアは、ネガテブを捕捉する為に自身の力を弱めながら霊界・聖心界・四次元界、そしてネガテブと接し得る物質界を創り上げ、その物質界に私達人間を配し、自身はケテル内奥へと引き下がりました。
ただ、ホアは自身が創造した霊界・聖心界・四次元界・物質界を維持する為に、それぞれの界に法則を創り、それぞれの界において神が意志した様に各界が機能する様にと霊力を発し続けながら法則を機能させています。
そのホアが発し続けているアレフ、イキが、霊です。
そして、各界を維持し機能させている聖なる法則が真理と言われるものです。
ですから、神の霊力によって存在し、機能している聖なる法則。
言い換えると、私達を含め全てを存在させているものが、聖法則であり、その聖法則を機能させているエネルギーが霊力です。
ですから、私達は感謝を込めて「この世に神の代わりに顕現し、私達を存在させている霊と真の理である聖法則に感謝を込めて礼拝しなければならない」とイエスは言います。
「我に無知なく、欺心なく、虚栄心なく、あらゆる過剰愛なし」
ドリール先生は「この霊と真理とを知り真の礼拝が行える者には、無知もなく、真の自分である真我を欺く心も、物質肉体的虚栄心や、あらゆる物質を過剰に愛する事も無くなる」と教えています。
また、ドリール先生は「霊と真理を知らない者は、無知だ」と言います。
実なる霊も真理も知らずに、虚なる幻のみを見、求めている私達を「無知だ」と、ドリール先生は言います。
ですが、目で見えるものが幻で虚にして実体が無いと言われても、中々に理解できるものではありません。
「目に見える愛しきものを愛でる事が虚しいものだ」と言われても、中々に理解できるものではありません。
「神の目から観た時、朝に生れた者が夕方には死んで行く。その様なものの中に、何の実があろうか。その様なものは虚でしかない」とドリール先生は言われます。
その様に、中々理解できない私達をドリール先生は「無知」だと言われるのです。
そして「その様に実を観る事ができないから、無知で真の自分を欺き、物的な自分に虚栄心を懐き、物的な自分を殊更に愛しんでいる」と言います。
そして「その無知こそが、悪と不幸の母だ」ともドリール先生は言われます。
その「無知」とは、なんでしょうか。
無知とは「智慧が無い事であり、知識が無い事だ」と、ドリール先生は教えます。
その智慧とは、ナニかと言うと「智慧とは、真の理である聖法則を知る事」だとドリール先生は言います。
先に、聖法則とは神がこの物質界を創られケテルの内奥へと引き下がるにあたり、自身の代わりに霊界・聖心界・四次元界・物質界を機能させ、私達を護る為にと創り出されたものだと言いました。
ですから「聖法則とは、神なり」と言われています。
つまり「聖法則を知る」とは「神を知る」と言う事に他なりません。
それでは、私達は、神のナニを知っているのでしょうか。
私達は、聖法則のナニを知っているでしょうか。
私達は、聖法則を知り、そしてその聖法則と調和し、霊的に発達し、自分自身の人生の主人公に成っているでしょうか。
そうではない私達を観て、ドリール先生は「白朋誌を読め、そして霊的に発達しろ」と言っています。
ですが、私達は「霊的に発達する」と言う事が、なにを意味しているのかを、どれほど考えているのでしょうか。
私達は「霊的に発達する」と言う事と共に「真理」がナニかが分からないままに、霊と真理を意味不明のものとしています。
その様な私達ですから、霊と真理とで真の礼拝をする事ができません。
ですが、その抽象的と思われる「聖なる真理」が現実的に自分自身の人生に様々な災いとして顕れた時に、人は初めて真理を、聖法則を、霊を、神を知る事となります。
そして、神の方を向き、神に懇願するものです。
「聖なる真理」とは、日々私達が生かされている全てです。
この宇宙は、聖なる法則によって支配されており、どの様な人でも聖法則は破る事はできません。
人が聖法則は破ろうとした途端に、その人は自分自身を破る事となります。
人が聖法則は破ろうとした途端、その人は調和状の神から離れて行く事となります。
調和状から離れる事で、その人には不調和が現れてきます。
当然の事です。
ですが、私達が神の方を向き、聖法則を破る事なしに、聖法則を学び、聖法則と調和して生きる方法を学ぶ事で、この聖法則が私達に霊力を与え、私達を神の様に自由にさせます。
どの様な人でも、神として宇宙に存する聖法則を破る事はできないのです。
ですが、私達は智慧と知識が足りないと言う無知から、聖法則に、神に反して、自分自身を破っています。
それ故に「聖法則を知り、神を知り、霊的に発達し、聖法則と、神と調和する事を学べ」と、ドリール先生は言われています。
それが、智慧と言われるものです。
その智慧を、人が神から与えられた時、人は自分自身の人生の主人公になれます。
「わが真理は、智慧であり、知識であり、聖であり、原初のものであり、創造力である。」
それ故に「真理とは、智慧であり、知識であり、聖であり、原初のものであり、創造力だと言う事を知れ」と、ドリール先生は私達を諭しておられます。
「つまり、真の理(ことわり)である聖法則を人が、神から与えられ知った時、それが智慧と成り知識となる。その聖法則とは神であり、原初からのものであり、人が原初から持っていた創造力を再び持つ事ができる」と、ドリール先生は言われています。
「聖なる創造力を以て、自身の人生を創造し、自分の人生の主人公となれ」と諭しておられます。
ただ、間違ってはならない事が一つあります。
それは、肉体を含めた物質は幻ですが、私達意識体が物質界で神に代わって働く為の道具です。
道具が無ければ働けません。
お借りした道具すから、働きが終わる迄、大切に使わなくてはらないものです。
ですから、古来より賢者達が口をそろえて、霊と物とのバランスを取る様にと言っています。
その様な賢者達が未熟な私達を観て、私達が陥りやすい過ちを次の様に諭しています。
1、知性の強さと共に信仰の弱さを持った者は、しゃべり過ぎると言う誤りに陥りやすい。
2、知性の弱さと信仰の強さとを持った者は、心の狭い教条主義に陥りやすい。
3、適切な宗教的指導が無い、大いなる熱意は誤った極端、つまり間違った道を歩むと言う誤りに陥りやすい。
4、教義をよく聞き、熟考すると言う十分な準備の無い瞑想は、無意識の暗黒に迷い込むと言う誤りに陥りやすい。
5、教義の適切な理解と実行とが無い者は、宗教的自己満足と言う誤りに陥りやすい。
6、意識が、自己を無くす事と無限の憐憫とに訓練されていない者は、自分のみの解脱を求めると言う誤りに陥りやすい。
7、意識が、それ自身の非物質性の知識を得ない限り、人は世俗の道に沿ってあらゆる誤りに陥りやすい。
8、あらゆる世俗的欲望や野望が消え去らない限り、人は世俗的動機によって自分自身を導いてしまうと言う誤りに陥りやすい。
9、自分に称賛が集めるを許す事によって、世俗的誇りで偉ぶると言う誤りに陥りなすい。
10、自身の神秘学の知識や能力を誇る事で、人は世俗的儀式おいて、その能力を誇らしげに示すと言う誤りに陥りやすい。
「霊的に発達する」と言う事をよくよくお考えください。
「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」(ヨハネ3-6)
瞑想5 (12/30/22)
私が水曜日に使っているドリール先生の瞑想の言葉が次です。
「霊において真理において、我には恐れなく、不安なく、凶事の予感なく、悲哀なく、疑惑なく、労苦なく、性急なし。わが真理は信であり、全能であり、我無限の供給であり、我無限の防御である」
「霊において真理において」は、礼拝だと言いました。
話は変わって、今回のつぶやきは一月の初めではなしに、十二月の終わりです。
なぜかって言いうと、東京の二月「白朋誌を読む会」の会場申し込みが役所の都合で新年は一月の四日となり、申し込みが終わってから白朋誌1月号を発送すると到着が一月の六日以降となり、八日の会との間が余りに無さすぎなので、本年だけ一月号を年末に発送する事としました。
それに伴い「つぶやき」も31日となったと言う次第です。
ただ、一月号には二月の東京会場のお知らせを載せる事ができませんでした。
二月の東京会場については、四日以降の本ホームページもしくは一月の東京会場でご確認ください。
で、またまた話は変わって、今年ももう終わりです。
早いもので、林先生から白朋舎を引き継いで十一年が過ぎようとしています。
私もあれから十一も歳を取りました。
皆さんも十一も歳を取りました。
そのせいか、最近、病を患う方が多々見受けられる様になりました。
問題は、ご自身や周囲の方々がその様なネゲーションと出遭った時の対応です。
まさに、今までの学びが試されているかの様です。
今月号でドリール先生が教えられた「非抵抗の法則」と「引き寄せの法則」の実修とも言えます。
自分に現れた状を消そうとして抵抗するのか、どうするのか。
その答えは、その人自身で答えを出して行かねばなりません。
それが、人生と言う学校にいる各自に与えられた問題です。
ただ言える事は、その状はその人にとって必要なものだから、その人に与えられたのだと言う事を、先ず認め、そして考え、答えを求めて行かなければ、次の人生でも同じような問題が与えれてしまうと言う事です。
病を患うと言っても、ガンと医者から言われ、今まで他人事の様に思っていた死が自分の目の前に現れてきた時、人は戸惑うものです。
その時に「死にざま」に氣を取られるのか、「生きざま」に氣をそそぐのかです。
神なら、真我なら、どうするのか。
神がするように、真我がするように、自身もする事が、真の礼拝となります。
霊において真理において、如何なる状においても自分は如何に今日一日を神のように真我のように生きるのか、それを考え、行う事が、真の礼拝となります。
「我には恐れなく、不安なく、凶事の予感なく、悲哀なく、疑惑なく、労苦なく、性急なし」
真の礼拝ができ、自身の内に恐れも不安も凶事の予感も悲哀も疑惑も労苦も急ぐ事も無い状にする為には、どうしたら良いのかが問題となります。
イエスは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とマタイ福音書(11-28~30)で言っています。
イエスは「私のくびきを負いなさい」と言っています。
「くびき」とは、木でできた首輪です。
ただ、勘違いをしてはいけないのは、「くびきを負う」とはイエスの操り人形になるのでは無いと言う事です。
操るのは、本当の自分である理性であり、意識であり、霊的人間であり、真我です。
操られるのは、物質肉体、物質人間です。
つまり「肉体が自分勝手に動き回っている事で、幻的な荷物が重くなっている。真我の指示に従って、理性を目覚めさせ、肉体と感情とを操る事で、荷物は軽くなる」とイエスは教えています。
そうする事で、自身の内に恐れも不安も凶事の予感も悲哀も疑惑も労苦も急ぐ事も無い状に成ると、イエスは教えています。
ただ、ここで問題は「どうしたら、真我のくびきを負う事ができるのか」だと思います。
話は変わって「ヨガ」と言う語の語源が、ナニか分かりますか。
「ヨガ」とは「つなぐ」とか「結合」の意味があり、また「くびき」と言う意味も持っています。
つまり、イエスが言う様に、肉体と言う物質人間に支配されるのでは無しに、肉体を道具として使い、感情を克服し肉体を支配しながら物質人間を操り、人生を生きろと言うわけです。
その一つの方法を教えているのが「ヨガ」です。
ただ、「ヨガ」と言うと体操のイメージを持たれるかもしれませんが、ヨガにはもっと深遠なものがあり、真のヨガは人を深遠な処へと運んで行ってくれます。
ヨガにもハタ・ヨガ、ジュニャーナ・ヨガ、ラージャ・ヨガ、バクティ・ヨガなどがあります。
なぜ、こんなにもヨガの種類があるのでしょうか。
それには、ちゃんと理由があります。
生命の木には、霊界・聖心界・四次元界・物質界の四つの状があります。
神が天下って来た道です。
私達霊的人間が、昇って行かねばならない道です。
四つの界を、それぞれに昇って行くには、それぞれに克服の仕方が変わって行きます。
ヨガでは、その四つの界に即した学び方を四つのヨガを通して教えています。
物質界を克服する為の肉体ヨガであるハタ・ヨガ、四次元界を克服する為の智慧のヨガであるジュニャーナ・ヨガ、聖心界を克服する為の王のヨガであるラージャ・ヨガ、そして霊界を克服し神と愛で結ばれ一体と成る為の愛のヨガであるバクティ・ヨガです。
つまり、ヨガは神我一体となる為の道を教えています。
カバラで言う、イルミネーションの状です。
ヨガに、なぜ生命の木が出て来るのかと不思議に思われるかも知れませんが、そこには古きいにしえの物語があります。
はるか昔、世界の善と悪とが北極と南極の地に分かれて争っていました。
北極にいた善なるホワイト・ロッジは、南極にいた暗黒の者達に追われて、ゴビの地へと逃げて行きました。
ですが、その地からも暗黒の者達に追われて去る事となりました。
そして、光の人々は、当時ヘブライ人達が住んでいたアトランティスの島々へと渡りました。
そのアトランティスも、暗黒の者達に追われ去る事となってしまいました。
アトランティスの島々が沈む時、トートはケム(セム)の地(アラビア半島)へと行きました。 (白朋誌547,548号 地球周期 参照)
そして、そこで人々に智慧を与えました。
それが、カバラです。
また、大神殿の監守者でありトートの父トートメ(ホーレット)は、アトランティスの島々が沈んだ時にチベットへ行き、チベットで聖白色同胞団(ホワイト・ロッジ)をまとめ上げ今日のシャンバラを創り上げました。
すべては、アトランティスの智慧であり、いにしえからのホワイト・ロッジの教えです。
ですから、ドリール先生もブラバッキー婦人もイエスもピタゴラスも様々な処で学び、最後にはチベットの地に行きアトランティスの深遠なる智慧を授かり、世にアトランティス(ホワイト・ロッジ)の智慧を広めて行きました。
この地球上の全ての正しき教えは、ホワイト・ロッジの教えから派生したものです。
ただ、真の教えは一つですが、それを聞く人々は千差万別です。
その為に、方便として譬えを使い、人々に神へと戻る道を教えています。
その基本が、ヨガであり、生命の木の十の数字と二十二文字からなる三十二の道です。
それが完成し真我のくびきを負うた時、人は自身の内に恐れも不安も凶事の予感も悲哀も疑惑も労苦も急ぐ事も無い状になります。
当舎では、東京と大阪で会を催しています。
午前中には「坐会」を、そして午後から「読む会」を開催しています。
この意味を真に理解している方が、どれ程いるでしょうか。
つたない私ですが、午前と午後を通して三つのヨガを表しています。
午前の「座会」とは、ハタ・ヨガとジュニャーナ・ヨガの学びです。
午後の「読む会」とは、ラージャ・ヨガの学びです。
どれ程の人が、白朋誌を通してドリール先生が語る教えがラージャ・ヨガだと気付いているのかと、いぶかしく思います。
ドリール先生の教えとは、人生における自分自身の王となる為の学びです。
ですから、中々に白朋誌を読める方が少ないわけです。
自身の肉体を緩め心を静めなければ、白朋誌は読めはしないものです。
ただ、無理して「坐会」や「読む会」へ来てくれ等とは言ってはいないので、お間違いなき様にねがいます。
それから、次いでと言ってはなんですが。
言語でも、アトランティスのコトバが世界中に広まっています。
良くドリール先生が言われる、釈尊の母の名マーヤとイエスの母の名マリヤとは共に“幻”と言う意味を持っています。
また“南無阿弥陀仏”を分解すると「南無」はnamasで「よりどころとする」の意であり「阿弥陀」とはa,meterでアは否定でメーターは「はかる」で「はかり知れない」の意味となり、全体としては「はかり知れない人に非ざる神をよりどころとする」の意味となります。
で、このメーターはラテン語のnometior(はかる)ギリシャ語のmehtron(測定器)となり、現代では私達が使っている長さの単位メートルと形を変えて使われています。
世界は、知らず知らずのうちにアトランティスのシャンバラの聖白色同胞団(ホワイト・ロッジ)の文化の影響を受けています。
「わが真理は信であり、全能であり、我無限の供給であり、我無限の防御である」
ドリール先生は教えます。
まず“信”を得なさいと教えます。
ただ“信”とは、頭で幾ら考えても得られるものではありません。
まずは、肉体の緊張を解きほぐし、真に肉体を心をリラックスさせる事です。
ですが、リラックスとは中々に難しいものです。
その実践が、ハタ・ヨガとなります。
その実践が、坐す事です。
その実践が、自身のイキを見詰める事です。 それができ、神を知り、神への信を授かり、神が全能である事を知ったなら、神は自分に全てを与え、自分を守ってくれている事を知ります。