つぶやき(2023)

瞑想6 (2/1/23)

  木曜日のドリール先生の瞑想の言葉が次です。

霊において真理において、我に無知なく、欺心なく、虚栄心なく、あらゆる過剰愛なし。
 わが真理は、智慧であり、知識であり、聖であり、原初のものであり、創造力である。」

 「霊において真理において」とは、ヨハネ4-24「 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊と真理とをもって礼拝するべきである」からきている言葉です。

でも、このヨハネ4-24、不思議に思いませんか。

イエスは「神=霊」だと言います。

そして、神への礼拝は「霊と真理とで礼拝しなさい」と言います。

言い変えると、イエスは「神への礼拝には霊だけではダメ」と言っています。

なぜでしょうか。

この意味を知るには「霊」や「真理」の意味を知らねば始まりません。

はじまりは、神(ホア)の思いでした。

ホアは自身をながめ、今以上の完全を求めました。

自身をポジテブとネガテブとに分け、そのネガテブを見詰め、そのネガテブのポジテブ化を図りました。

それが、全ての始まりでした。

ホアは、完全を目指して思考し意志しました。

ホアは、意志し力を発しました。

その力が、霊力と呼ばれるものです。

神たるホアは、ネガテブを捕捉する為に自身の力を弱めながら霊界・聖心界・四次元界、そしてネガテブと接し得る物質界を創り上げ、その物質界に私達人間を配し、自身はケテル内奥へと引き下がりました。

ただ、ホアは自身が創造した霊界・聖心界・四次元界・物質界を維持する為に、それぞれの界に法則を創り、それぞれの界において神が意志した様に各界が機能する様にと霊力を発し続けながら法則を機能させています。

そのホアが発し続けているアレフ、イキが、霊です。

そして、各界を維持し機能させている聖なる法則が真理と言われるものです。

ですから、神の霊力によって存在し、機能している聖なる法則。

言い換えると、私達を含め全てを存在させているものが、聖法則であり、その聖法則を機能させているエネルギーが霊力です。

ですから、私達は感謝を込めて「この世に神の代わりに顕現し、私達を存在させている霊と真の理である聖法則に感謝を込めて礼拝しなければならない」とイエスは言います。

 「我に無知なく、欺心なく、虚栄心なく、あらゆる過剰愛なし」

ドリール先生は「この霊と真理とを知り真の礼拝が行える者には、無知もなく、真の自分である真我を欺く心も、物質肉体的虚栄心や、あらゆる物質を過剰に愛する事も無くなる」と教えています。

また、ドリール先生は「霊と真理を知らない者は、無知だ」と言います。

実なる霊も真理も知らずに、虚なる幻のみを見、求めている私達を「無知だ」と、ドリール先生は言います。

ですが、目で見えるものが幻で虚にして実体が無いと言われても、中々に理解できるものではありません。

「目に見える愛しきものを愛でる事が虚しいものだ」と言われても、中々に理解できるものではありません。

「神の目から観た時、朝に生れた者が夕方には死んで行く。その様なものの中に、何の実があろうか。その様なものは虚でしかない」とドリール先生は言われます。

その様に、中々理解できない私達をドリール先生は「無知」だと言われるのです。

そして「その様に実を観る事ができないから、無知で真の自分を欺き、物的な自分に虚栄心を懐き、物的な自分を殊更に愛しんでいる」と言います。

そして「その無知こそが、悪と不幸の母だ」ともドリール先生は言われます。

 その「無知」とは、なんでしょうか。

無知とは「智慧が無い事であり、知識が無い事だ」と、ドリール先生は教えます。

その智慧とは、ナニかと言うと「智慧とは、真の理である聖法則を知る事」だとドリール先生は言います。

先に、聖法則とは神がこの物質界を創られケテルの内奥へと引き下がるにあたり、自身の代わりに霊界・聖心界・四次元界・物質界を機能させ、私達を護る為にと創り出されたものだと言いました。

ですから「聖法則とは、神なり」と言われています。

つまり「聖法則を知る」とは「神を知る」と言う事に他なりません。

それでは、私達は、神のナニを知っているのでしょうか。

私達は、聖法則のナニを知っているでしょうか。

私達は、聖法則を知り、そしてその聖法則と調和し、霊的に発達し、自分自身の人生の主人公に成っているでしょうか。

そうではない私達を観て、ドリール先生は「白朋誌を読め、そして霊的に発達しろ」と言っています。

ですが、私達は「霊的に発達する」と言う事が、なにを意味しているのかを、どれほど考えているのでしょうか。

私達は「霊的に発達する」と言う事と共に「真理」がナニかが分からないままに、霊と真理を意味不明のものとしています。

その様な私達ですから、霊と真理とで真の礼拝をする事ができません。

ですが、その抽象的と思われる「聖なる真理」が現実的に自分自身の人生に様々な災いとして顕れた時に、人は初めて真理を、聖法則を、霊を、神を知る事となります。

そして、神の方を向き、神に懇願するものです。

「聖なる真理」とは、日々私達が生かされている全てです。

この宇宙は、聖なる法則によって支配されており、どの様な人でも聖法則は破る事はできません。

人が聖法則は破ろうとした途端に、その人は自分自身を破る事となります。

人が聖法則は破ろうとした途端、その人は調和状の神から離れて行く事となります。

調和状から離れる事で、その人には不調和が現れてきます。

当然の事です。

ですが、私達が神の方を向き、聖法則を破る事なしに、聖法則を学び、聖法則と調和して生きる方法を学ぶ事で、この聖法則が私達に霊力を与え、私達を神の様に自由にさせます。

どの様な人でも、神として宇宙に存する聖法則を破る事はできないのです。

ですが、私達は智慧と知識が足りないと言う無知から、聖法則に、神に反して、自分自身を破っています。

それ故に「聖法則を知り、神を知り、霊的に発達し、聖法則と、神と調和する事を学べ」と、ドリール先生は言われています。

それが、智慧と言われるものです。

その智慧を、人が神から与えられた時、人は自分自身の人生の主人公になれます。

「わが真理は、智慧であり、知識であり、聖であり、原初のものであり、創造力である。」

それ故に「真理とは、智慧であり、知識であり、聖であり、原初のものであり、創造力だと言う事を知れ」と、ドリール先生は私達を諭しておられます。

「つまり、真の理(ことわり)である聖法則を人が、神から与えられ知った時、それが智慧と成り知識となる。その聖法則とは神であり、原初からのものであり、人が原初から持っていた創造力を再び持つ事ができる」と、ドリール先生は言われています。

「聖なる創造力を以て、自身の人生を創造し、自分の人生の主人公となれ」と諭しておられます。

 ただ、間違ってはならない事が一つあります。

それは、肉体を含めた物質は幻ですが、私達意識体が物質界で神に代わって働く為の道具です。

道具が無ければ働けません。

お借りした道具すから、働きが終わる迄、大切に使わなくてはらないものです。

ですから、古来より賢者達が口をそろえて、霊と物とのバランスを取る様にと言っています。

その様な賢者達が未熟な私達を観て、私達が陥りやすい過ちを次の様に諭しています。

1、知性の強さと共に信仰の弱さを持った者は、しゃべり過ぎると言う誤りに陥りやすい。

2、知性の弱さと信仰の強さとを持った者は、心の狭い教条主義に陥りやすい。

3、適切な宗教的指導が無い、大いなる熱意は誤った極端、つまり間違った道を歩むと言う誤りに陥りやすい。

4、教義をよく聞き、熟考すると言う十分な準備の無い瞑想は、無意識の暗黒に迷い込むと言う誤りに陥りやすい。

5、教義の適切な理解と実行とが無い者は、宗教的自己満足と言う誤りに陥りやすい。

6、意識が、自己を無くす事と無限の憐憫とに訓練されていない者は、自分のみの解脱を求めると言う誤りに陥りやすい。

7、意識が、それ自身の非物質性の知識を得ない限り、人は世俗の道に沿ってあらゆる誤りに陥りやすい。

8、あらゆる世俗的欲望や野望が消え去らない限り、人は世俗的動機によって自分自身を導いてしまうと言う誤りに陥りやすい。

9、自分に称賛が集めるを許す事によって、世俗的誇りで偉ぶると言う誤りに陥りなすい。

10、自身の神秘学の知識や能力を誇る事で、人は世俗的儀式おいて、その能力を誇らしげに示すと言う誤りに陥りやすい。

 「霊的に発達する」と言う事をよくよくお考えください。

「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」(ヨハネ3-6)

瞑想5 (12/30/22)

  私が水曜日に使っているドリール先生の瞑想の言葉が次です。

「霊において真理において、我には恐れなく、不安なく、凶事の予感なく、悲哀なく、疑惑なく、労苦なく、性急なし。わが真理は信であり、全能であり、我無限の供給であり、我無限の防御である」

 「霊において真理において」は、礼拝だと言いました。

 話は変わって、今回のつぶやきは一月の初めではなしに、十二月の終わりです。

なぜかって言いうと、東京の二月「白朋誌を読む会」の会場申し込みが役所の都合で新年は一月の四日となり、申し込みが終わってから白朋誌1月号を発送すると到着が一月の六日以降となり、八日の会との間が余りに無さすぎなので、本年だけ一月号を年末に発送する事としました。

それに伴い「つぶやき」も31日となったと言う次第です。

ただ、一月号には二月の東京会場のお知らせを載せる事ができませんでした。

二月の東京会場については、四日以降の本ホームページもしくは一月の東京会場でご確認ください。

 で、またまた話は変わって、今年ももう終わりです。

早いもので、林先生から白朋舎を引き継いで十一年が過ぎようとしています。

私もあれから十一も歳を取りました。

皆さんも十一も歳を取りました。

そのせいか、最近、病を患う方が多々見受けられる様になりました。

問題は、ご自身や周囲の方々がその様なネゲーションと出遭った時の対応です。

まさに、今までの学びが試されているかの様です。

今月号でドリール先生が教えられた「非抵抗の法則」と「引き寄せの法則」の実修とも言えます。

自分に現れた状を消そうとして抵抗するのか、どうするのか。

その答えは、その人自身で答えを出して行かねばなりません。

それが、人生と言う学校にいる各自に与えられた問題です。

ただ言える事は、その状はその人にとって必要なものだから、その人に与えられたのだと言う事を、先ず認め、そして考え、答えを求めて行かなければ、次の人生でも同じような問題が与えれてしまうと言う事です。

病を患うと言っても、ガンと医者から言われ、今まで他人事の様に思っていた死が自分の目の前に現れてきた時、人は戸惑うものです。

その時に「死にざま」に氣を取られるのか、「生きざま」に氣をそそぐのかです。

神なら、真我なら、どうするのか。

神がするように、真我がするように、自身もする事が、真の礼拝となります。

霊において真理において、如何なる状においても自分は如何に今日一日を神のように真我のように生きるのか、それを考え、行う事が、真の礼拝となります。

「我には恐れなく、不安なく、凶事の予感なく、悲哀なく、疑惑なく、労苦なく、性急なし」

真の礼拝ができ、自身の内に恐れも不安も凶事の予感も悲哀も疑惑も労苦も急ぐ事も無い状にする為には、どうしたら良いのかが問題となります。

イエスは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とマタイ福音書(11-28~30)で言っています。

イエスは「私のくびきを負いなさい」と言っています。

「くびき」とは、木でできた首輪です。

ただ、勘違いをしてはいけないのは、「くびきを負う」とはイエスの操り人形になるのでは無いと言う事です。

操るのは、本当の自分である理性であり、意識であり、霊的人間であり、真我です。

操られるのは、物質肉体、物質人間です。

つまり「肉体が自分勝手に動き回っている事で、幻的な荷物が重くなっている。真我の指示に従って、理性を目覚めさせ、肉体と感情とを操る事で、荷物は軽くなる」とイエスは教えています。

そうする事で、自身の内に恐れも不安も凶事の予感も悲哀も疑惑も労苦も急ぐ事も無い状に成ると、イエスは教えています。

ただ、ここで問題は「どうしたら、真我のくびきを負う事ができるのか」だと思います。

 話は変わって「ヨガ」と言う語の語源が、ナニか分かりますか。

「ヨガ」とは「つなぐ」とか「結合」の意味があり、また「くびき」と言う意味も持っています。

つまり、イエスが言う様に、肉体と言う物質人間に支配されるのでは無しに、肉体を道具として使い、感情を克服し肉体を支配しながら物質人間を操り、人生を生きろと言うわけです。

その一つの方法を教えているのが「ヨガ」です。

 ただ、「ヨガ」と言うと体操のイメージを持たれるかもしれませんが、ヨガにはもっと深遠なものがあり、真のヨガは人を深遠な処へと運んで行ってくれます。

ヨガにもハタ・ヨガ、ジュニャーナ・ヨガ、ラージャ・ヨガ、バクティ・ヨガなどがあります。

なぜ、こんなにもヨガの種類があるのでしょうか。

それには、ちゃんと理由があります。

生命の木には、霊界・聖心界・四次元界・物質界の四つの状があります。

神が天下って来た道です。

私達霊的人間が、昇って行かねばならない道です。

四つの界を、それぞれに昇って行くには、それぞれに克服の仕方が変わって行きます。

ヨガでは、その四つの界に即した学び方を四つのヨガを通して教えています。

物質界を克服する為の肉体ヨガであるハタ・ヨガ、四次元界を克服する為の智慧のヨガであるジュニャーナ・ヨガ、聖心界を克服する為の王のヨガであるラージャ・ヨガ、そして霊界を克服し神と愛で結ばれ一体と成る為の愛のヨガであるバクティ・ヨガです。

つまり、ヨガは神我一体となる為の道を教えています。

カバラで言う、イルミネーションの状です。

ヨガに、なぜ生命の木が出て来るのかと不思議に思われるかも知れませんが、そこには古きいにしえの物語があります。

はるか昔、世界の善と悪とが北極と南極の地に分かれて争っていました。

北極にいた善なるホワイト・ロッジは、南極にいた暗黒の者達に追われて、ゴビの地へと逃げて行きました。

ですが、その地からも暗黒の者達に追われて去る事となりました。

そして、光の人々は、当時ヘブライ人達が住んでいたアトランティスの島々へと渡りました。

そのアトランティスも、暗黒の者達に追われ去る事となってしまいました。

アトランティスの島々が沈む時、トートはケム(セム)の地(アラビア半島)へと行きました。 (白朋誌547,548号 地球周期 参照)

そして、そこで人々に智慧を与えました。

それが、カバラです。

また、大神殿の監守者でありトートの父トートメ(ホーレット)は、アトランティスの島々が沈んだ時にチベットへ行き、チベットで聖白色同胞団(ホワイト・ロッジ)をまとめ上げ今日のシャンバラを創り上げました。

すべては、アトランティスの智慧であり、いにしえからのホワイト・ロッジの教えです。

 ですから、ドリール先生もブラバッキー婦人もイエスもピタゴラスも様々な処で学び、最後にはチベットの地に行きアトランティスの深遠なる智慧を授かり、世にアトランティス(ホワイト・ロッジ)の智慧を広めて行きました。

この地球上の全ての正しき教えは、ホワイト・ロッジの教えから派生したものです。

ただ、真の教えは一つですが、それを聞く人々は千差万別です。

その為に、方便として譬えを使い、人々に神へと戻る道を教えています。

その基本が、ヨガであり、生命の木の十の数字と二十二文字からなる三十二の道です。

それが完成し真我のくびきを負うた時、人は自身の内に恐れも不安も凶事の予感も悲哀も疑惑も労苦も急ぐ事も無い状になります。

当舎では、東京と大阪で会を催しています。

午前中には「坐会」を、そして午後から「読む会」を開催しています。

この意味を真に理解している方が、どれ程いるでしょうか。

つたない私ですが、午前と午後を通して三つのヨガを表しています。

午前の「座会」とは、ハタ・ヨガとジュニャーナ・ヨガの学びです。

午後の「読む会」とは、ラージャ・ヨガの学びです。

どれ程の人が、白朋誌を通してドリール先生が語る教えがラージャ・ヨガだと気付いているのかと、いぶかしく思います。

ドリール先生の教えとは、人生における自分自身の王となる為の学びです。

ですから、中々に白朋誌を読める方が少ないわけです。

自身の肉体を緩め心を静めなければ、白朋誌は読めはしないものです。

ただ、無理して「坐会」や「読む会」へ来てくれ等とは言ってはいないので、お間違いなき様にねがいます。

 それから、次いでと言ってはなんですが。

言語でも、アトランティスのコトバが世界中に広まっています。

良くドリール先生が言われる、釈尊の母の名マーヤとイエスの母の名マリヤとは共に“幻”と言う意味を持っています。

また“南無阿弥陀仏”を分解すると「南無」はnamasで「よりどころとする」の意であり「阿弥陀」とはa,meterでアは否定でメーターは「はかる」で「はかり知れない」の意味となり、全体としては「はかり知れない人に非ざる神をよりどころとする」の意味となります。

で、このメーターはラテン語のnometior(はかる)ギリシャ語のmehtron(測定器)となり、現代では私達が使っている長さの単位メートルと形を変えて使われています。

世界は、知らず知らずのうちにアトランティスのシャンバラの聖白色同胞団(ホワイト・ロッジ)の文化の影響を受けています。

「わが真理は信であり、全能であり、我無限の供給であり、我無限の防御である」

 ドリール先生は教えます。

まず“信”を得なさいと教えます。

ただ“信”とは、頭で幾ら考えても得られるものではありません。

まずは、肉体の緊張を解きほぐし、真に肉体を心をリラックスさせる事です。

ですが、リラックスとは中々に難しいものです。

その実践が、ハタ・ヨガとなります。

その実践が、坐す事です。

その実践が、自身のイキを見詰める事です。 それができ、神を知り、神への信を授かり、神が全能である事を知ったなら、神は自分に全てを与え、自分を守ってくれている事を知ります。