つぶやき (2021)

       神(火水)の水火(イキ)      (01/09/21)

 神はバランスの取れた状にいる自身を、意志し、不安定なネガテブ(陰)極とポジテブ(陽)極とを発出した、とカバラでは言われています。

それは、不安定な二つの極性がなければ、何も生じ得ないからに他なりません。

原子・分子を含め全ての物質は、マイナス(陰)とプラス(陽)から成ります。

その陰陽のバランスを微妙に保ちながら、全てのものはこの物質界に存在しています。

物質界における陰陽のバランスが不安定な事から、その状態は変化して行きます。

まさに、物質界は無常なる世界です。

物質界は、個々バラバラで、マダラで、不平等な世界です。

物質界は、平衡の平衡たる神は存し得ない世界です。

 この様な物質界の創造を人々に知らしむる為に、古代の賢者達は三角形の象徴を作り上げました。

そして、その三角形の象徴を、生命の木へと発展させて行きました。

生命の木における最初の三角形は、第一光球ケテル内に存する三角形です。

その三角形は、古代ヘブライ・アルファベットの三母字であるアレフ・メム・シンで表されています。

神は意志し、アレフたる神の息(氣・霊)を発し、メムたる水を打ち、メムからシンたる火を解き放ち創造を始めた、と言われています。

まさに、ビッグバンです。

 ただ、ここで言うメムたる水とは、私達が飲んでいる物質的な水とは違います。

旧約聖書・創世記1:26に『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人をつくり』と言われていると同様に、水も霊界にある水に似せて私達の物質界の水も創られました。

ですから、神秘学的にはメムたる水を「上なる水」、物質界の「水を下なる水」と区別しています。

上なる水を古代の人々は、アレフたる神の息である氣が凝縮したものとも言っています。

 話は変わって、神代の時代の日本国。

この水と火の事を何と呼んでいたか分かりますか。

大昔の日本では「水火」で「イキ」と呼んでいたと、山口志道はその著「水穂傳(みずほのつたえ)」(著:天保二・1831~四年・1833)で言っています。

下記は「水穂傳」からの抜粋です。

『皇国の学は「万物一に止まる」事を原とし、故に天地初発に一の凝を為し、その凝より火水(ひみつ)の二つに分かれて、火を父といい、水を母といふ。

天地の間に眼に見えざる火水(ひみつ)あり、これを火水(カミ)といふ。水火(イキ)ともいふ。神ととなふるは体にして、水火(イキ)ととなふるは用なり。故に「陰陽(イキ)」と「陽陰(イキ)」をくみて万物を産むなり』

山口志道が、古事記が記される以前の文字も無かった時代のコトバを解明し、五十音の意味に行き、行きついたものが水穂傳です。

水穂傳では、アレフたる神の息を直接的には表してはいません。

メムたる水とシンたる火で、間接的にアレフである神の息(氣・霊)一を表しています。

それは、私達の物質界での顕現は水と火から成る陰と陽のみが顕在しているからです。

アレフである神の息一は、この物質界では神同様に潜在しています。

それ故に、現れとしての水(陰)二と火(陽)三とで、一を表しています。

先にも言いましたが、一である神の息(氣・霊)が凝縮した状が、二の水であり、三の火なのです。

ですが、カバラの記述と日本の神代(火水與・カミヨ)の時代の言い伝えが、奇妙に一致する事実には驚かされるのみです。

 で、その先があります。

水だ火だ息だと言った時「それがナニ」と言われそうですが、そのヒントが「水穂傳」にあります。

それが、次です。

『人の胎内に火水あり。これを「たましい」ともいふ。氣(イキ)ともいふ。魂ととなふるは体にして、息ととなふるは用なり。故に息と息とをくみて言ひ。氣と氣をくみて人を産むなり。

天地のことわりを知らむと欲せば、近くは己が水火(イキ)を知るにあり、是ぞ神国の教なる』

この文を私流に読むと、次の様になります。

「私達の体内には神が内在している。この我々の内に内在している神を魂と言う。また、それはイキ(氣・霊)とも言い得る。魂と言った時、それは体内に存し、息として顕現する。それ故に、神の息と人の息。神の氣と人の氣とが相まって人が産まれる。

それ故に、天地の真の理(ことわり)を知ろうとしたならば、自身のイキ(水火)すなわち息を知る事にある。自身の息を知る事こそ、神の御国の教である」となります。

自分の息を知る。

人は、一日二十四時間休みなく神同様に息をしています。

ですが、息を意識して行っている人が如何ほどいるでしょうか。

息を意識し、自身で息を制御し得る様に成った時、人は息(水火)を知り、人は神(火水)を知るものです。

そこから、真の神秘学は始まります。

人が水火(イキ)に気付いた時、様々な事に気付き始めるものです。

 ドリール先生は『多くの者達は、創造の書(セペル・エトジラー)における「神は、全てのものを確立した」と言う句を理解してはいない』と言っています。

私達を含め全てを創り出した創造主が、神だと言う事を真に知った時、この世の見方が変わります。

たとえば、地球周期の第六周期にレムリアとアトランティスが対立して存在していました。

昨今では、レムリアが善でアトランティスが悪だとか、レムリアが悪でアトランティスが善だ等と言っている人がいます。

ですが、水と火である陰陽を真に知った時「二や三では無く、なぜ潜在する一を観ないのか」と問いかけたくなります。

全てが神であり、全ての顕れも神だと言う事に気付けと、多くの先人達が言っています。

 この物質界の状を認識し得ない人々は、この世に不平不満を懐き、愚痴と共に神を呪うものです。

変化する陰陽に囚われている限りは、潜在する目にも見えない一である神やその分光である魂を観る事はできません。

ただ、自身の息を正して行くだけです。

静かに坐し、ひたすら自身の息を見詰めて行くだけよいのです。

それが、神に近づく方法です。

 オマケで今一つ、ドリール先生が物質界での物事の見方を教えています。

普通、私達が「私は」とか「私が」と言っていますが、ドリール先生は『「私」では無く「私達」と言える様にしなさい』と言われています。

矮小な自分と言う存在を離れた時、視界が広がるものです。

         コロナ・ワクチン接種    (01/08/21)

 何人かの方からコロナ・ワクチン接種についてのご質問を頂きました。

お尋ねの方やそのご家族の方は、様々な情報から副作用などを心配され、様子見や接種拒否をされている御様子です。

その為、私なりの考えを語らせて頂きたいと思います。

ちなみに、私自身は先週二回目が終わりました。

昨今、私は寝込む程の風邪はひきませんが、鼻水が出たりなどの症状は経験しています。風邪に罹った証拠でしょう。

風邪に罹ると言う事は、コロナにも罹る可能性が有ると言う事でしょう。

もし、妻と二人暮らしの私がコロナに罹ったなら、女房にうつしたら、そして他の人にうつしていまったらと考えた時、女房殿や他の人に迷惑を掛けるし、と考えてワクチンを接種する事にしました。

ただでさえ、迷惑を掛けながら生きている私です。

少しでも、人に掛ける迷惑は無くしたいものです。

コロナ・ワクチン接種は、自分のためと言うよりも周囲の人々のためと考えます。

丁度、夜にライトも点けずに走っている車の様に思います。

車のライトは運転者のためでもありますが、それ以上に周囲の人々を車に気付かせ、危険を回避する意味合いが強いものです。

人として、一番大切な事は、生きざまと考えます。

ワクチン接種で死んでしまうかも、とか、寿命が縮んでしまうかも等と言う恐怖に囚われて、死にざまを考えている様では、本当にワクチン接種で死んでしまうかも知れません。

「人は、想うが如くになる」と言う法則があります。

想念は物です。

自分の考え一つで、その人の外の世界は、変わってしまうものです。

人は、生きざまを選べます。

ですが、人は死にざまを選べはしないものです。

イエスは「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな」と言いました。   (マタイ6-25)

 如何に無様な死にようをしようと、無様に生きるよりは、はるかにマシだと、私は思っています。

私は、その様に考え、その様に生きたいと願っています。

ただ、この考え方を他の人に強要しようとは思いません。

なぜなら、その人の人生とは、その人のものであり、その人が自由に演じ切る舞台です。

一人一人が、自分の人生の主人公であり、脚本家です。

 死は好むべきにも非(あら)ず、亦(また)悪(にく)むべきにも非ず、

道尽き心安んずる、便(すなわ)ち是(こ)れ死所。   松田松陰 語録より

(死はむやみに求めたり避けたりするものではない。人間として恥ずかしくない生き方をすれば、まどわされることなくいつでも死を受け入れることができる。)

          沈 黙    (01/07/21)

 ドリール先生は「聴衆の前に立ち話そうとした時、何かを書こうとした時、私はできる限りリラックスし、心を空にし、あらゆる外的な物事を切り捨て、沈黙の中に入る」と言われます。

聴衆に話そうとした時、ドリール先生は“沈黙”の中へ入る。

不思議だとは思いませんか。

沈黙の中で、どのようにして話すのか。

お解りになりますか。

 人には“心”と共に“意識”が有ると言うことを知らなければ解からないと思います。

肉体に付随する感情による心、それと神の意識に付随する理性を伴う私達の意識。

この二つの心と意識、感情と理性とが解からなければ、ドリール先生の言われている“沈黙の中へ入る“を理解することができません。

つまり、肉体的な感情から引き下がり、精神的な理性の上に立つことができなければ、真の沈黙の中へは入ることができないものです。

 古来より、求道する初心者には“無言の行”が課せられます。

心と意識が一体となっている初心者には、意識を体感させる為に、口を開くことを禁じるものです。

初心者に、内に入ることを学ばせる意味でもあります。

初心者の方の中に、良く質問をされる方がおられます。

普通の学校教育では、解らない点を質問することは善きことと考えられています。

ですが、神秘学においては“質問する”と言う、外に対して答えを求める行為は誤りであると教えます。

ピタゴラスは、自身の学院において、入門者には三年間、口を開くことを禁じていました。

それが、できない者は即刻破門だったそうです。

 神秘学では、道を求める人に、先ず自身の内に入ることを教えます。

神秘学では、沈黙の中で、自身の内に引き下がることを学んで行きます。

神秘学では、沈黙の中で、自身の内に引き下がり、沈黙の声を聴くことを教えます。

神秘学では、沈黙の中へと入る手段としてリラックス(弛緩)を教えます。

そして、瞑想を教えます。

 なぜ、リラックスし、瞑想し、内へ、沈黙の中へ入らなければいけないのか。

イソップ寓話に「肉をくわえた犬が橋を渡りながら下を見た時、川面に映った肉をくわえた犬を見て、その肉が欲しくなってワンと吠えた途端、自分がくわえていた肉を川の中へ落としてしまった」と言う寓話があります。

愚かな犬だなどと思っていけません。

なぜなら、その愚かな犬は、虚も実も解らない私達の象徴だからです。

橋の上の肉をくわえた実在の自分、川面の映った虚像の自分。

その虚と実とを、見誤ったが故に、自分が持っていた大切なものを失ってしまった愚かな自分。

実も虚も見分けることができない私達なのです。

 幻(マーヤ・マリア)の中に産まれ出た釈尊やイエスやドリールは、この世の幻を消し去り、本物の美味しい肉である実在を私達に観せ、食させる為に、この世へ来られました。

その為に、釈尊はサマタとヴィパッサナーの二つの瞑想法を教えました。

そして、釈尊は瞑想を通して(正定)、自身の内に入り、虚実を正しく観る(正見)ようにと教え(八正道)を残されました。

 ドリール先生が、チベットの聖師の下へ行かれた時の話ですが。

ドリール先生が修行をほぼ終えた時、聖師がドリール先生を寒風吹きすさぶ山の洞窟へと連れて行ったそうです。

そして、ドリール先生にその場に坐し、谷底の湖の水面を見詰め続けるようにと言われたそうです。

周囲は、強烈な風が絶え間なく吹いていますが、谷底の湖の水面はさざ波一つ無く静まり返っていたそうです。

その状を幾日も、見続けていたそうです。

そして、師の言わんとすることを知り、山を下り、寒風吹きすさぶ俗世間へと戻られたそうです。

 ドリール先生がナニを得られたか、お解りになりますか。

虚である、幻的なこの世の様々な状の中にも、静かに確かに存している実。

その実在からこの世の虚像を観ることを得られるようにと、無言で聖師に言われたのでした。

 或る人々は「この世に平和を」と言います。

ですが、強風吹きすさぶ虚なるこの世に平穏なる平和を求めても、強風は収まりもしません。

真に平和を求めたいならば、自身の外なる虚にでは無く、自身の内なる実に対して求めるべきです。

自身の内に、求めたいものを、実在の内に求め。

そして、自身に顕して行くべきものです。

釈尊も「もし、人々が自分の心に平和をもたらしたならば、世界中には戦争は無くなるだろう」と言います。

 “沈黙の内に語る“と言うことが、少しはお解りになりましたでしょうか。

礼にあらざれば、視ることなかれ

礼にあらわれば、聴くことなかれ

礼にあらざれば、言うことなかれ

礼にあらざれば、為すことなかれ   (論語より)

          沈黙の内に

     霊的発達    (01/06/21)

 白朋誌の表紙と本ホームページには

「あなたは、霊的発達と言うものが

   何を意味するかを考えたことがありますか」

と言う、ドリール先生からのメッセージが載せてあります。

 このドリール先生が言われている“霊的発達”とは、なんでしょうか。

そもそも“霊”とは、なんでしょうか。

 私達の宇宙には、意識があります。

その意識を“宇宙意識“と呼んでいます。

この宇宙意識が、私達の神であると神秘学では教えています。

また、この宇宙意識を創り出した意識を“ホア“と呼んでいます。

私達の神の神とも言える存在です。

そのホアが、或る時、或る目的に目覚めました。

そして、その目的を成し遂げようと、意志しました。

力強く意志し、想念がホアから発せられました。

ホアの強い想いが乗った霊波とも言えるもの、それが“霊”です。

ヨハネの福音書(1-1~3)には「初めにみ言葉があった。み言葉は神と共にあった。み言葉は神であった。み言葉は初めに神と共にあった。すべてのものは、み言葉によってできた。できたもので、み言葉によらずにできたものは何一なかった。み言葉の内に命があった」と記されています。

この神(ホア)が発した言葉が“霊”であり、全ての存在に宿る生命力です。

言い換えると、霊とはホアの想いそのものです。

ホアは、霊の力で宇宙意識を創り、物質宇宙を、そして私達人間を創り出しました。

そして、ホアは自身の創造物の中に、自身の生きる命(霊)を内在させました。

 ですが、ここで大問題が、噴出したのでした。

その大問題とは、ホアの創造物である人間において、大多数の人間が自身の内に内在する生きる命である“霊”を見失ったことです。

そこで、人間の直接的管理者である宇宙意識は、霊を見失わずにいた少数の人々(意識体)に、或る事を命じられました。

その命じたこととは、霊を見失った人々に再び自身に内在する生きる命・霊を気付かせることでした。

そのために、釈尊やイエスやドリール博士などの多くの覚醒した意識体が物質肉体を身にまとい、この地球で眠りこけている人々を目覚めさせるためにこられました。

また、直接に物質界に来ることができない宇宙意識は、聖なる宇宙法則を働かせ人々に苦難を果として与えて目覚めさせようとしています。

そのような苦難から少しでも救おうと、多くの賢者達は、眠りこけている私達に慈悲を与えながら、目覚めさせようとしています。

 つまり“霊的発達”とは、本当の自分に目覚めることです。

自分に内在する生きる命である“霊”に気付くことです。

ホアが、意志した想いを知ることです。

親の真の気持ちは、自分が親にならねば解らないと言われます。

それと同様に、ホアの真の想いは、私達が神にならねば知り得ないものです。

そうは言っても、早々かんたんに神にはなれはしないものです。

それでは、目覚めてもいない私達は、どうしたら霊的に発達し得るのか。

そんな私達にドリール先生は、次の様に私達に語り掛けておられます。

「今、我々の、この瞬間は人生においてかけがえも無いものだと知らねばならない。たとえ、今の瞬間が哀しみをもたらすものであろうと、喜びをもたらすものであろうと、今この瞬間を我々は経験しなければならない。人間は、今の瞬間にもたらされる物事に目覚めねばならない。人間は、常に自身の諸感覚を研ぎ澄ませ、油断なく働かせていなければならない。この様にしてのみ、この地上における人生を益あるものとし得る。人間は、今の瞬間を教科として学んで行くべきなのである」

 “生きざま、死にざま”と言う語があります。

人は、自分の死にざまを決めることはできないものです。

ですが、人は自分の生きざまを決めることができます。

人が自身の人生を生きている時、どのような生き方もできます。

ただ、その生き方が因となり、果が下されることは事実です。

どうせなら、親を思い、真の自分を取り戻すような生きざまをし、親に喜んでもらえるような生き方をしたいものです。

人は、今を逃げるのでは無く、眼を見開き、今をしっかりと観、生きろと、ドリール先生は言われております。

 30年以上に亘って人々を導こうとしてこられたドリール先生ですが、先生の努力を理解する人々が少ないことを先生は嘆いておられました。

「今を生きる為に、私の忠告を聞こうとしている人々もいる。だが、その様な人々の中に私の言葉の意味を誤解している人々が多くいる。その様に、私の言葉の意味を自分勝手に解釈している人々は、多分、つまらない人生の瞬間を楽しみ、喜べば良いと、私が勧めていると思っているのであろう。

私の言葉は、全ての人々に理解されるものでは無い。私の言葉は、何となく解ると言うものでも無い。私の言葉は、魂を通して同調して、初めて理解し得るものである」と、ドリール先生は言われております。       (白朋誌 545号 今に生きる より)

 道元禅師は「只管打坐」と言われました。

自身の外には有限な世界が広がっています。

ですが、自身の内には無限なる神へとつながる世界が広がっています。

半畳ほどの空間があれば、坐し、無限なる世界へと遊びに行けます。

そこには、真の自分が待っています。

ホアは、こころざしを懐きました。

私達も、こころざしを懐くことができます。

    

        四つの福音書    (01/05/21)

 新たな神との契約の書である“新約聖書”

その新約聖書には、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書があります。

不思議だとは思いませんか。

新約聖書を編纂した人々は、多くの福音書の中からマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの

四つの福音書を選び、新約聖書の初めに置きました。

新約聖書を編纂した人々は、四つの福音書を通して私達に何を伝えようとしていたのでしょうか。

新約聖書を編纂した人々は、四つ福音書にどの様な思いを潜ませていたのでしょうか。

新約聖書を編纂した人々の思いを、ひも解いてみたいとおもいます。

その鍵は、新約聖書が新たな神との契約の書だと言う事と、ヨハネの黙示録の中にあります。

ヨハネ黙示録・4-6には「 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいた」と記されています。

また、四つの生き物は旧約聖書・エゼキエル書・1-5にも記されています。

四つの生き物は、東洋では麒麟、鳳凰、霊亀、応龍の四霊や青龍、白虎、朱雀、玄武の四神として象徴されています。

相撲の土俵の屋根の四隅にある青、赤、白、黒の四つの房です。

四大は、神が発し、物質界に顕現している霊力です。

神は、この物質界へ直接的に顕現はし得ません。

ですから、神は、四つの霊力を、この物質界に顕現させて聖なる諸法則を機能させ、物質界維持しています。

そして、四つの生き物、四つの霊力は、物質界と共に御座を守護しています。

それと共に、四つの霊力は御座への門の役割も果たしています。

つまりは、神の御座へと行くには四つの福音書を読み解けとの意味が潜んでいます。

ですから、ドリール先生も「記録の残っているイエスの言葉は、それぞれに神秘的意味が含まれている。それらの言葉に秘されている神秘は、神秘的智慧と力とのドアを開き得る鍵を持った者のみが知り得る」と言われている所以です。

ドリール先生は「聖なる智慧とカバラなどの古代智慧の知識を以て、四つの福音書を読み解け」と言われているのです。

 イエスの言葉は、読む人の知識と智慧の度合によって、その言葉に含まれる神秘的意味の皮を、肉を、骨を、そしてその髄までも知り得るものです。

その真髄までたどり着いた人は、貪欲にイエスの真理の血を飲み、イエスの真理の肉を食らう事となります。

その皮を知り、肉を知り、骨を知り、髄を知る為の学びが、神秘学であり、形而上学です。

ですが、多くの人は、神秘学を学ぶ準備もせずに御座に近づこうとするものです。

そうした時、四つの霊力が、その様な者達を追い払います。

安易に御座へは、近づけないものです。

また、未熟な人を偉大なる強烈な霊力から守る為でもあります。

神秘学は、自身を準備し、学ぶに値する事を証した者のみが学び得るものです。

 四つの霊力の四大に認められた者は、御座へと昇り、五大を完成します。

四つの霊力の四大に認められた者は、頂点の欠けたピラミッドに冠石を載せてピラミッドを完成させます。

また、真言宗で用いられている地・水・火・風・空の五輪塔も、この五大を象徴しています。

五輪塔の最上段の“空“の意味が解りますか。

十字もまた然りです。

四方に伸びた腕と、中央の交点で五つです。

処刑されたイエスの五つの傷。

ヘブライ・アルファベットの五大母音。

それら全てが、神への道を象徴しています。

 そして、五大を真に知り得た時が、イエスの言葉の神秘的意味を真に知り得た時です。

「わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをも愛してくださったことを、この世が知るためであります」(ヨハネによる福音書・17―23)

 話は変わって、先に“皮・肉・骨・髄“を用いました。

この皮肉骨髄の言われをご存知ですか。

達磨大師が、四人の弟子に「佛法とは、禅とは」と問いました。

その弟子達は、自身の考えを述べました。

その答えに対し、達磨大師は「わが皮を得たり」「わが肉を得たり」「わが骨を得たり」と評しました。

そして、四番目の弟子が何も答えずに大師の前に行き三拝し無言のまま席に戻りました。

達磨大師は「わが髄を得たり」と言って、慧可を後継ぎとしたそうです。

ところで、四番目の弟子の慧可は、達磨大師の前で誰に礼拝したか分かりますか。

達磨大師ではありません。

達磨大師を通して顕現している佛性(神)に対して礼拝をしたのです。

「礼」と言う字は以前 「禮(れい)」の漢字が使われていました。

禮の字は、豊かな供物と共に神に感謝を捧げている様を表しています。

ですから禮(礼)とは、自分が今ここに神と共に存在していることを、神に感謝している様を意味する字なのです。

禮(礼)拝とは、神と共にいる証なのです。

達磨大師を通して顕現している神と四人の弟子(皮肉骨髄)とで、五大を顕してもいます。

五芒星が、完成した瞬間です。

ですから、新約聖書の四つの福音書には、四つの福音書を読み解き五大を完成せよとの意味が潜んでいます。

四つの善き知らせ(福音)を読み解き、再び神の下へと還りなさいとの意味です

 ここで、問題です。

次のイエスの言葉を解釈し、礼拝してください。

「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊と真理とをもって礼拝すべきである」

(ヨハネ 4-24)

人が霊と真理とを以て礼拝し得た時、その人の周りに四大が顕現し、その人を四大が守護する事となります。

         発酵と腐敗    (01/04/21)

 先日、寺田啓佐 著「発酵道」(河出書房新社 発売)を読ませていただきました。

“発酵と腐敗“ ウ~ム

で“発酵と腐敗“を、あらためて調べてみたら、「発酵とは微生物が人間に有益な物質をつくりだすこと、腐敗とは微生物が人間に有害な物質をつくりだすこと」だそうです。

つまりは、物質肉体の人間にとって有益な変化が発酵であり、物質肉体の人間にとって有害な変化が腐敗だそうです。

そこには微生物達のことは無く、ただただ人間肉体の目線で決めていただけのことでした。

微生物は、単に、自分達が置かれた状況に従い必死に生きているだけです。

その結果として、腐敗し生命エネルギーが奪われ元来た宇宙霊魂(アニマ・ムンディ)へと帰って行くか、はたまた発酵し宇宙霊魂から生命エネルギーを与えられ、変化し、生長し続けて行くかです。

神秘学的に言うならば、全ての物は神のベクトル、霊力の流れに逆らっては存在し得ないと言うことです。

霊力に逆らったなら、その物は生命力を失い塵や灰となり、早々に、宇宙霊魂へと戻されてしまいます。

 腸内細菌を考えてみましょう。

人間が食べたり飲んだりした物は、胃や十二指腸で消化され、腸内細菌の下へと運ばれて行きます。

ですが、腸内細菌のことを考えて、食べたり飲んだりしている人が、いかほどいるでしょうか。

かく言う私もその口で、自分の口と喉越しで味わう食感優先で食べ飲んでしまっています。

ノドから先のことは、余り考えないものです。

なにせ、見えもせず、口中の感覚以上に感じられるものが無いからです。

ですが、そんなことを長年繰り返していると、いつもは無口な胃腸達が文句を言ってくるものです。

なにがしかの不調が、襲ってくるものです。

そして、慌てて、医者に行き、薬を飲んで元に戻そうとします。

ですが、結果である症状を一時的に消しても、因はそのままですから、真に治りはしないものです。

自然に逆らった結果だと、知るかどうかです。

自らを然(しか)らしめるで、自然です。

神が、自ら自身を然らしめている状が、自然です。

人間が、自分を然らしめようとしている状が、人工です。

昨今は、余りにも人工的になり過ぎています。

何が良くて、何が悪いのか。

その判断が、曖昧になっています。

人間は、自分の身体を、自分と思っています。

ですが、人間の身体のほとんどが微生物です。

そして、病気になって人間は、自分のものと思っている身体が実は自分では何ら制御できないことに気付くものです。

人間が制御している物は、単に一部の筋肉のみです。

内臓をはじめとする多くの臓器や筋肉や内分泌は、人間の顕在意識では無く潜在意識によって管理されています。

人間は、自分自身でナニができると思っているのでしょうか。

人間は、生きながら実際にはナニをしているのでしょうか。

 パスカルは「人間は考える葦である」と言いました。

人間が実際に為し得ることとは、思考し意志することだけなのです。

その思い考えることが、どのように自分の身体に影響を及ぼすと思いますか。

イエスは「口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すものである」と言われました。

イエスは、人が話す言葉と、その言葉を作り出している想念が、その人を汚して行くと言われています。

つまり、「人間が行う思い考えが間違った時、その人は腐敗して行く」と言われているのです。

腸内細菌を考えて身体に良い物をいくら食べようと、その人の想念が神の想いと方向を同じにしない限り、発酵してはいかないのです。

発酵し得ないのです。

真逆の想念を懐いていては、腐敗して行くのみなのです。

なぜなら、潜在意識が腐敗へと導いているからです。

人間の顕在意識が発する想念が、全ての因となるのです。

その想念に呼応して、潜在意識が、そして腸内細菌が動き始めます。

ただ、その動き始める腸内細菌が発酵菌か腐敗菌かは、想念しだいです。

 ですから、釈尊は正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八正道を説かれました。

この世の状を正しく観、正しい想念を発せるようにならねば、発酵は起こらないのです。

呼吸が整い、心が落ち着き、正しい想念を発することができるようになると、食べ物も変わってきます。

腸内細菌も変化して行くと、その人も変化してゆきます。

鶏が先か卵が先かですが、心が落ち着いてくると腸内細菌叢も変わっていきます。

 人間は、因果を通して神や真我と会話しています。

その会話を通して、人間は学んで行くものです。

間違ったら、身体や環境を腐敗させ知らせてくれます。

ナニが正しく、ナニが間違いなのかを、因果を通して、私達を導いてくれています。

それに、気付くかどうかが大切です。

老子は「硬きは死、柔らかには生」と言いました。

言い換えるならば「腐敗は死、発酵は生」です。

 ただ、腐敗菌の弁護ではありませんが、腐敗菌も発酵菌もすべては創造主が必要と考えて創り出された物です。

発酵を認めるように、腐敗も認めなければなりません。

一休和尚のトンチ話に「橋の端を渡るべからず」と言うものがあります。

『天へとつながる橋は、右の端を歩いも、左の端を歩いてもたどり着けない。天へとつながる橋は、中の道を歩いて行かねばたどり着けない』と、一休和尚は言っておられます。

生命の木の“中柱“です。

釈尊が言われた中道です。

 話は逸れますが、一休和尚は反骨で風狂な人と言われています。

ですから、今日まで皮肉たっぷりな話が伝わっています。

なんで、一休和尚は皮肉屋なのか。

それは、物事の皮や肉などの表面的な事では無しに、物事の骨を通り越した真髄まで見通されていたからでしょう。

それ故の、皮肉ですから、私達も物事の骨や髄を観られるようにせねばです。

ですが、ちっぽけな自分にしがみついていては、骨や髄まで見通すことはできないものです。

 「ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた」

(旧約聖書・ヨブ記 1-6)

三角形の象徴      (01/03/21)

 古代からの教えの中には、多くの三角形の象徴が見られます。

例えば、カバラの生命の木における光球が作り出す三角形。

そして生命の木における光球ケテル内のホアから発せられた空気アレフが、上なる水メムを打ち、メムに内在している火シンを解き放った事を象徴しているアレフ・メム・シンから成る三角形。

また、古代のヒンドゥーにおける創造を司るブラフマー・創造の維持を司るヴィシュヌ・創造の破壊を司るシバから成る三角形。

そして、古代ヒンドゥーにおける古代智慧たるヴェーダ。

その古代智慧であるアーユルヴェーダ(生命科学)においても、三角形の象徴が見られます。

それは、ドーシャと呼ばれる三要素です。

その三要素は、風ヴェーダ(空気)と火ピッタ(胆汁)と水カパ(痰)から成ります。

体内の神経の象徴であるヴェーダ(空気)。

体内の内分泌の象徴であるピッタ(火)。

体内の排泄の象徴であるカパ(水)。

聖なるプラナ・エネルギーが神経を通して肉体を創り出し、内分泌物を与えながら肉体を維持し、排泄を通して維持されている肉体。

その循環が歪む事で、神経流が乱れ、内分泌が乱れ、排泄が乱れ、破壊が起こって行きます。

破壊が生じる最初の因である神経流の乱れ。

それは、なんでしょうか。

 「チャラカ・サンヒター」を記したチャラカは、生命の科学と言われるアーユルヴェーダの生命(アーユス)を「肉体・感覚・心と魂(意識)との統合が、生命と呼ばれる」と定義しています。

以前にも言いましたが、私達の肉体は、神がアニマ・ムンディ(宇宙霊魂)を通して創り出しています。

つまり、肉体とそれに連なる感覚と心とは、アニマ・ムンディにつながっています。

ですが、私達の魂(意識)はアニマ・ムンディとはつながってはいません。

私達の魂(意識)は、真の自分である真我と、そして神へとつながっています。

本来、離れ離れである[肉体・感覚・心]と魂(意識)とをつなぎ合わせるものが生命であり、そのつながりが弱くなる事で、内分泌が乱れ、排泄が乱れ、病と成るわけです。

 話は変わって、と言うよりも、横道に逸れての話です。

ヴェーダは神経の象徴と言いましたが、この神経と言うよりも“神經”

神の經と書いて、神經。

神は“かみ“の事で、何と無くお分かりと思います。

ですが”經“とは、なんでしょうか。

辞書(字通・白川静 著)を引くと“經”とは、機織り機の事と記されています。

機織り機には、縦糸が張り渡されていて、その縦糸に横糸を通して織物を作り上げて行きます。

ですから、チャラカは“生命とは、肉体・心と魂(意識)とをつなぐ紐”だと言っているのです。

神が、張り渡した縦糸(肉体・感覚・心と魂)に、生命と言う横糸を通して一反の織物を織って行けと、チャラカは諭しているのです。

物と霊とのバランスを取れ、と言う事は、アーユルヴェーダを含めたヒンドゥだけでは無く、多くの古代智慧では教えている事です。

 その方法として、多くの教えでは、呼吸を整え瞑想する事を教えています。

ヴェーダから発したヨーガも佛道も、全ては瞑想を最終目標にしています。

 最後に、もう一本の横道に逸れてみましょう。

先に、ドーシャと呼ばれる三要素は、風ヴェーダと火ピッタと水カパだと言いました。

そして、生命の木のケテル内の三角形は、空気のアレフと水のメム、火のシンだと言いました。

ドーシャでは、水と火が逆ではないかと、言われる方がおられるかも知れませんが、間違いではありません。

カバラでは、霊的な三角形は空気のアレフと水のメム、火のシンであり、物的な三角形は空気のアレフと火のシンと水のメムから成ると教えています。

ドーシャは肉体内の三要素ですから、風ヴェーダと火ピッタと水カパとなります。

 (参考ですが、アニマ・ムンディや真我と神の関係については「神秘形而上学入門」および「心經入門」を参照してください)

   オームの法則       (01/02/21)

 むかし、むかし、中学でオームの法則と言うものを習ったことがあります。

電圧(V)=抵抗(Ω)×電流(A) と言うものでした。

抵抗のある処に、電気を流そうとした時、電気を押し出す力(電圧)が必要だ、と言うものです。

ところで、抵抗とはなんでしょうか?
電気の流れを邪魔するものとは、なんでしょうか?

 先日の「白朋誌を読む会」で、この話をした時。

ある方が「それは、ネガテブです」と言われました。

そうなんですね。

抵抗って、ネガテブの現れなんですね。

神は、この物質界をネガテブの海の中に創造されました。

神は、そのネガテブの海の中に物質を電気力と磁気力とで創られました。

ですから、この物質界にはネガテブが存在していて当然と言えます。

そのネガテブが抵抗となり、神の想念とも言える電気の流れを妨げているわけです。

その抵抗があるから、神は電気を流すために、神は意志しました。

そして、電気を押し出しました。

その神の意志の力が、電気を押す力、電圧となりました。

この電気と電気を押す力が、アレフと言われる“神の息“の物質界における一顕現です。

 ですから、もし、抵抗がゼロに成ったらどうなると思いますか。

抵抗(Ω)=電圧(V)÷電流(A)ですから抵抗が0に成ったら、電圧も電流も零になってしまいます。

電気力が、消えて無くなってしまいます。

分子や原子が、消えて無くなってしまいます。

この物質界、そのものが消えて無くなってしまいます。

この物質界=霊界と成ってしまいます。

 話は、理科から国語に変わります。

大昔に、釈尊とそれ以前に存していた六人の佛が、佛の教えについて述べられました。

以下の、七佛通誡偈と言われるものです。

諸悪莫作

衆善奉行

自浄其意

是諸佛教

この偈を一休さんは、上の二句だけを書にしたため、軸にしました。

これは、一休さん独特のトンチ問答です。

つまり「諸悪莫作  衆善奉行」と書かれたわけです。

一休さんは「これを如何に読むか」と、尋ねています。

多くの人は、この偈の真ん中の道を歩く事ができずに、道の端を歩いてしまします。

 ドリール先生は、この世の意識の状態を下記の九種類に分けて説明しています。

1 鉱物的な意識

2 植物的な意識

3 動物的な意識

4 感情のみの人間の意識       (感情>理性)

5 理性が芽生え始めた人間の意識   (感情=理性)

6 理性で感情を制御し得る人間の意識 (感情<理性)

7 宇宙意識に目覚め始めた人の意識(第一イルミネーション)

8 宇宙意識の中に入る事ができる人の意識(第二イルミネーション)

9 宇宙意識と一体と成った人の意識(第三イルミネーション)

この中で、4,5,6の状態が普通の人の意識の状です。

そして、その人の意識の状態で「諸悪莫作  衆善奉行」の意味が変わって行きます。

4の感情のみで生きている人は、悪を為します。

ですから「悪を為してはいけない。善い事をしなさい」と諭さねばなりません。

 5の意識状の人は、理性が芽生えてきて、理性で物事の善悪を考え始めた人です。

その行いを褒めて、導いてあげねばです。

 6の意識状の人は、理性で感情を支配し、克服し得た人です。すでに、悪を為さなくなった人です。

真我がイルミネーション(涅槃)へと導いて行くことでしょう。

そして、イルミネーションへと導かれた意識には、すでに悪も善も無くなっています。

為す悪も、為す善も、無い状です。

七人の佛の状です。(なぜ、七人なのか。 ここにも神秘的意味が含まれています)

人が人で無くなった状、その状を佛の状と言います。

 一休さんは、三番目の句の“意”の浄化を諭しておられます。

自身の意識を、自身の内にある悪・ネガテブを、浄化し、最終的には悪も善も無い佛の道である中道を歩めと諭しています。

一休さんは、人の意の中に存在しているネガテブな抵抗を少なくしながら、佛(神)の想いを頂き、佛達と共に、この人生を歩んで行け、と教えられています。

人は、自身の意識を浄化して行く事で、神の想いも推し量れるようにとなるものです。

そして、意識の九番目の状である神の中へと入り、神と一体状(佛)と成れるものです。

 子供は、左に揺れ、右に揺れながら進み成長し、親に成るものです。

それが、法則でもあります。

私も未だ、悪を為し、善を為しながら人の世を歩んでいます。

早く、親に成らねばとは思うのですが・・・

たった一度の人生? ホント?ウソ?  (04/01/21)

よく「たった一度の人生だから」と言います。

これは、見方によって正しくもあり、間違いでもあります。

正しいと言った時、それは物質肉体については正しいと言う事です。

間違いと言った時、それは肉体に内在している意識体については間違いだと言う事です。

つまり、私達の肉体には、五感に付随した心と共に、神の分光である真の自分である真我から銀線を通して天下っている意識の二つが存在しています。

物質肉体は死を通して、分子、原子へと分解され、物質宇宙における物質を全て管理している宇宙霊魂(アニマ・ムンディ)へと、霊として戻ります。

宇宙霊魂へと戻った霊は、再度様々な物へと作り変えられて行きます。

つまり、人間の肉体は、再利用されて樹木になったり、犬になったりするわけです。

ですが、真我や神とつながる意識は、肉体の死を通してもそのままに存在し続けます。

私達の意識は、神同様に永遠の存在です。

私達の意識は、通常は死を通してアストラル界(四次元界)と物質界との中間に位置するバルド界へと行きます。

そこで、私達の意識は霊光を浴びて人生で背負ってきたネガテブを、少しばかり取り除いてもらいます。

そして、多少身軽となって、再び物質界へと戻って行きます。

その意識は、新たな胎児の中へと入り、新たな人生を歩んで行くわけです。

問題なのは、前世における記憶を取り除かれての再出発となる事です。

前世の記憶を持ったまま出発できるのは、バルドでは無く三途の川を渡り切り、アストラル界(あの世)へと戻った意識のみです。

普通の人は、記憶を消されて生まれ変わって行くのですが、その時に前世から持ち越すものがあります。

それは、前世で蒔いた因と、前世で開拓したチャクラの状です。

つまり、人は前世での行い次第でスタートラインが異なるのです。

 ですから、肉体の人生は一度きりですが、その肉体を通して生きて来た人生次第で、次の人生の誕生の環境と、その与えられる肉体も異なってくるのです。

そう言った意味からも

どうぞ、新たな年を“素行自得”で行じられますように。

また、欲を言うならば、早く三途の川を渡り、彼岸(アストラル界)へと行き、化身を繰り返す事の無い状へと成られます様に。

 新たな年に、新たな自分と出会えますように。

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