つぶやき (2020)

 

離れる事のむずかしさ    (01/12/20)

 ドリール先生は「人は、想念の川に入ってはならない。想念の川の岸に立って、流れる想念の川を見つめなさい」と言われています。

ですが、想念の川から出て岸に立つ事のむずかしさは、どう言ったら良いのでしょうか。

想念の川の岸に立つとは、どう言うものか。

考えてみましょう。

先月の「白朋誌を読む会」で、何年ぶりかで“神の概念”を皆さんに書いて頂きました。

その書く前に、老子の1「語る事ができる“道”は、真の道では無い。名付けられるものは、真の名前では無い」と言う事についての話をしました。

そして、以前の概念を消して新たな概念を書いてくださいと言い、書いてもらいました。

皆さん十分間、考え抜いて書いておられました。

書き終わった後、書かれた物について語らせて頂きました。

まず、老子や他の賢者達が言っている様に、神とは人間の言葉では表す事ができない存在であると言う事です。

ですが、皆さんは、普段使っている人間の言葉で神を表そうとしておられました。

なぜ、相対的な人間の言葉を使って神を表そうとしてはいけないのか。

それは、神にその言葉の逆の意味を持たせてしまう事となるからです。

老子は、その2で「世上に人々が、美しいものを美しいと認める時、そこには醜さが生じてくる。世上の人々が、善なるものを善と認めた時、そこには悪が生じてくる」と言っています。

つまり “愛・平和・喜び・正義・善・美・富・ポジテブ”などの物質界の相対的な言葉で絶対なる神を表現した時、神の中に、その真逆のネガテブなものを作り出している事を、神秘学を学ぶ者は知らねばなりません。

では、そうした時に、どうしたら良いのか。

その解は、ドリール先生が言われている“集中”です。

ドリール先生は「考え抜いた物事、相対的な人間の言葉と、その意味とを一つ一つ消して行きなさい」と教えています。

そして「全てを消し去った後に。何が残っているかを観よ」と教えられています。

ですから、賢人達は言葉で神を表す事はしません。

賢人達は、象徴を使います。

幻的な物質界では、象徴でしか神を近似的に表す事ができないものです。

神秘学を学ぶ者として、先人達が残されて行った様々な象徴を観じて行く事が大切です。

 私が言っている事が理解できたでしょうか。

復習を兼ねての問題です。

次の文を、瞑想ください。

『わが内なる真理は、全能であり、富であり、喜びである。』

そして、瞑想して知った事に集中し、その考え抜いた事柄を一つ一つ消して行き、全てを消し去って観てください。

自身が束縛されていた“全能、富、喜び”の言葉から離れて観てください。

離れる事のむずかしさが、お分かりいただけたでしょうか。

 人は、この一人生を終えるまでに、どれほど幻的な物事から離れられるでしょうか。

ただ、やらなければ幾多の人生を生きようと、神には近づく事はできない事だけは確かです。

キュリポト・暗黒勢力    (01/11/20)

 旧約聖書・創世記に『はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた』とあります。

「神が、光と闇とを分けられた」とありますが、それは昼と夜とではありません。

言葉通りに、光の世界を闇の世界から分けたのです。

これを、カバラでは生命の木を使い、次の様に説明しています。

カバラでは、普通の聖なる生命の木と共に、その反映である暗黒生命の木があると教えています。

闇の中に反映している暗黒生命の木。

聖なる生命の木が光り輝いた時、その影が闇の中に反映したと教えています。

その暗黒の生命の木は、私達が存する物質界を介し聖なる生命の木の真逆のものとして存在していると教えています。

暗黒生命の木には、聖なる霊界・心界・アストラル(四次元)界の反映として暗黒の霊界・心界・アストラル界があると教えています。

それが、暗黒の勢力であり、キュリポトと呼ばれるものです。

ただ、私達の神や真我が物質界へと直接に来る事ができない様に、暗黒の者どもも直接的には物質界へは来る事ができません。

先に、聖なるアストラル界と暗黒のアストラル界とがあると言いました。

これは、アストラル界と物質界との境界もまた二つ有ると言う事です。

言い換えると、私達が夢を観るバルドの界も二つあると言う事です。

物質界へは直接的に来れませんが、アストラル界と物質界との境界域へ来た人の意識体には影響を及ぼす事ができます。

ですから、エメラルド・タブレットの中でトートは「暗黒は暗黒同胞らの旅する道なり、彼らは人間の夢を通して地球をあまねく旅しておれり」と言っています。

人が物的な欲望に強く駆られている時、その人は夢の中で暗黒のアストラル境界へと行ってしまいます。

そこで、暗黒の者達が甘美なささやきを語り始めます。

たいがい、物的な強い欲望に駆られた人達は、暗黒の者達の甘い誘惑に乗ってしまうものです。

その甘美なささやきを、愛や慈悲と勘違い、誘惑に誘われてしまうものです。

そして、知らず知らずのうちに物質界で、暗黒勢力の手先となって行きます。

 ドリール先生は『「自分はアストラル界かアストラル境界へ行き、感覚的な体験をした」と言う者がいる。だが、いつであろうと、その様な経験はアストラル境界でのものであり、アストラル界のものでは無い。そして、一番大切な事は、その様な体験をし始めた時には、即刻そこから逃げ出さねばならないと言う事である。そうでなければ、その人はより危険な処へと引き寄せられて行く。そして、取り返しのつかない事となろう』と夢の中での喜びや楽しみや愛などの感覚的な体験の怖さを教えています。

また、ドリール先生は『悪魔が、私を高見へと連れて行き「下方に見える全てのものは、あなたのものだ」と言うかもしれない。だが私には、それらのものを受け取る必要は無いのである。なぜならば、それらは幻だからである。それらには、何らの真実も無いからである』

とも述べられています。

 最近、周りを見ていると余りにも多くの人達が、幻である物に囚われている状を見て、怖くなってしまいます。

そこでは、よく「自分」と言う言葉を目にします。

「自分らしく生きる」とか「自分を愛する」などです。

その様な“自分”とは、どの様な“自分“を指しているのかいぶかしくなります。

“自分”私は“自らを分けた存在”と読みます。

私は“自分”を“神自らが自身を分けた存在”と認識しています。

ですから「自分らしく生きる」とは「素(もと)の神らしく生きる」であり、「自分を愛する」とは「素の神を愛する」と言う事と認識しています。

“素行自得”(素のままに行い真の我を得る)です。

“天”を観ているかのか、“地”を見ているのかです。

天を観ずに地なるものを見、地なる物に囚われているが故に、暗黒の勢力に囚われてしまいます。

天なる存在と共に地なる暗黒の勢力の存在も、おとぎ話ではありません。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添え与えられるであろう」(マタイによる福音書 6―33)

これは、ドリール先生が好きなイエスの言葉です。

人には自由が与えられています。

天に昇るも、地に縛り付けられるも、その人の自由です。

そして、その結果はその人自身で背負わねばならないものです。

「無智は、悪と不幸の母である」とは、よく言ったものです。

「桑原桑原」

顕在意識と潜在意識    (01/10/20)

 私達が、神とも言っている宇宙意識。

その宇宙意識が、自身と調和し得ないネガテブ(暗黒)を自身と調和したものとする為に、自身の意識をしだいしだに弱めてネガテブな暗黒とも接し得る意識の状態を創りあげました。

高電圧な発電所の電圧(百万ボルト)を、一般家庭で使える電圧(百ボルト)にまで下げているようなものです。

宇宙意識は、先ず自身の意識を少し弱めた霊界を創り、霊的意識を置きました。

次に、霊的意識を弱めた聖心界を創り、意識的意識(真我)を置きました。

次に、意識的意識を弱めた四次元界(アストラル界・形成界)を創り、潜在意識を置きました。

そして、最後にネガテブな暗黒も存し得る物質界を創り、私達の顕在意識を置きました。

(詳しく知りたい方は「神秘形而上学入門」もしくは「心經入門」を参照ください)

ただ、意識だけでは暗黒を捕まえることができない事から、暗黒を捕まえる為のエサとして動物人間を選び、その肉体に顕在意識を住まわせました。

 この時、神には一抹の不安がありました。

それは、顕在意識が神性を余りにも弱めた為に、ミイラ取りがミイラになってしまう事でした。

そこで、神は、四次元界の潜在意識に、動物人間に住した顕在意識のお目付け役の任を命じました。

平たく言えば、四次元界の潜在意識を本店としたら、その支店を動物肉体に置いたと言う事です。

そして、支店に顕在意識の動向を監視させたのでした。

その潜在意識の支店の所在地が、サハスララとも言われる松果腺です。

また、顕在意識の所在地は、アジナとも言われる脳下垂体です。

ここまで、お分かり頂けたでしょうか。

 ここから、少し面倒な話をしなければなりません。

それは、意識が入った容器の問題です。

ネガテブのエサであり、意識の容器である人間肉体は、ネガテブを誘い入れる為の仕掛けがありました。

それは、耳や目や鼻や舌や肌の五官であり、その五官を通して五つの感覚(聞く、見る、嗅ぐ、味わう、触れる)が働き、人の心を作り出しています。

そうなのです。

人には、潜在意識や顕在意識とは異なる“心”があるのです。

この心は、すぐにネガテブに取り付かれてしまいます。

そして問題は、そのネガテブを処理しなければならない顕在意識までもが、心と一緒になりネガテブに取り付かれてしまう事です。

神の予感の的中です。

人の顕在意識は、神の意識につながる理性よりも、動物肉体につながる心と感情に簡単に支配されています。

 そこで、いよいよ潜在意識の出番です。

顕在意識のあり様を観ていた潜在意識の支店は、その状況を逐一四次元界の本店に連絡を入れています。

四次元界の本店では、その状況を聖心界の意識的意識である真我へと伝え、指示を仰ぎます。

聖心界の真我は、ネガテブに支配された顕在意識を救う為に最善の方法を模索します。

聖心界の真我は、裁きのゼブラーと慈悲のケセドの意見を加味し、判断を四次元界の潜在意識本店へと伝えます。

指示を受けた潜在意識本店は、その指示に即した命令を支店へと発します。

潜在意識の支店では、すぐさま松果腺から伸びる自律神経を通して、人間の物質肉体や環境に不調和が生じる様にと処置して行きます。

「毒を以て毒を治める」と言う処置です。

その時が、運命の分かれ道です。

顕在意識が、自身に気付くかどうかです。

幻的な物質界の状に束縛され、人間肉体の感情に束縛され、本来の自分の役割も忘れ去り、自分自身の本性も忘れ去っている顕在意識に気付かせる為に様々な果が、真我から与えられます。

 古き賢者は、馬車に譬えて次の様に言っています。

「人間肉体は馬車であり、馬車の乗客は真我である。

そして、手綱は人の感情であり心である。その馬車の御者が、意識であり理性である」

古き賢者は「私達の顕在意識は、御者として心である手綱をさばき、馬車を間違いなく人生と言う道を走らせなさい」と諭しています。

 もし、あなたが自身の不調和に気付かれたならば、真我の方を向き直る事です。

静に坐し、呼吸を整え、心を鎮める事です。

先月に記した念佛を唱えるのも一法です。

真我を向き、真我が欲する様に、日々の人生を歩む事です。

物的な事は二の次として、真我の望みが何であるかを考え、行う事です。

ドリール先生は、常日頃からマタイ6-32~33「これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存知である。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添え与えられるであろう」を示し、諭されています。

最後に参考として、新約聖書・ルカ 15-11~32を載せておきます。

「ある人に、ふたりのむすこがあった。

ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。

それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たした。

何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。

そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。

彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

そこで彼は本心に立ちかえって言った『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。

立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。

もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。

どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』

そこで立って、父のところへ出かけた。

まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

むすこは父に言った『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません』しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』

それから祝宴がはじまった。

ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、

ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。

僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』

兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。

それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』

すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。

しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」

                 一日一日を、真我と共に歩まれます様に。

念 佛    (01/09/20)

 念佛と言った時「南無阿弥陀佛」と称える事を教えた、法然上人や親鸞聖人を思い浮かべるものです。

「南無阿弥陀佛」と称えるだけで、救われ、浄土に生まれ変わる事ができると言うものです。

初めに聞いた時には「エッ!本当に?」と思ったものです。

今の私は、すでに墓じまいをして墓もありませんが、その墓は浄土真宗のお寺にありました。

昔の私は、とんと宗教には無関心で親任せで過ごしていました。

そんな私ですから、念佛の意味も知らず、称名の意味も知りませんでした。

最近になり「?」と言う疑問が、湧き出しました。

 「なむあみだぶつ」と称える“念佛“

“弥陀“とは”meter”で、「はかる」と言う意味。

“阿”とは“a”で、打ち消しの意味。

“南無”とは“namas”で、”拠りどころとする“の意味。

“佛”とは、「真理を悟った人」の意味。

直訳すると“南無阿弥陀佛”は、「はかりしれない真理を悟った人を拠りどころとします」の意味となります。

そして、“念佛“とは、直訳すると「今の心を、真理を悟った人の心とする」の意味となります。

要するに「南無阿弥陀佛」と称えながら、自身の心を佛として行く事が念佛です。

 前置きばかりが長くなりましたが、ものは試しで「なむあみだぶつ」と称えてみましょう。

称えていると「南無阿弥陀佛」に意識が集中してくるものです。

これが“黙想“です。

ドリール先生的には「低位の集中」と言われるものです。

 更に称えて行くと「南無阿弥陀佛」の意味を考え始めて来るものです。

称えながら、一文字ずつの意味を考えて行く、自分がいます。

そして、言葉を通して、その言葉に内在する霊を感じ始めてくるものです。

これを“瞑想“と言います。

ここまでは、誰にでもできる事と思います。

問題は、この先です。

法然上人や親鸞聖人が言われる念佛とは、この先の状の事です。

ドリール先生が言われる“高位の集中”です。

 “真の集中“とも言われる“高位の集中”とは、そのものを消して行く事にあります。

消すと言うよりも、ドリール先生は「引き下がり」だと言われます。

今まで、自分が黙想し、瞑想していた全ての物事から「引き下がれ」と、ドリール先生は教えます。

「南無阿弥陀佛」と念佛を称えながら引き下がる。

「南無阿弥陀佛」の念佛を消して行くとは如何なるものか。

 そこには、一つのテクニックがあります。

マントラムや真言を称える際には、吸う息と共に、その語を無声でいただきます。

そして、吐く息と共に、有声もしくは無声で、その語をお返しします。

ですから、密教的な念佛の称え方とは、先ず、吸う息と共に無声で「南無阿弥陀佛」を頂きます。

そして、吐く息と共に「南無阿弥陀佛」を言葉にしてお返しします。

そうする事で「南無阿弥陀佛」に黙想し、瞑想して行きながら、自分が称える「南無阿弥陀佛」から引き下がった時、ただただ「南無阿弥陀佛」を頂くだけとなるものです。

 これが、ドリール先生が教える“集中”であり、法然上人や親鸞聖人が言われる念佛です。

また、これが法然上人や親鸞聖人が言われる“他力の念佛“です。

ドリール先生が、教える“沈黙の声”です。

自分が称えているだけの念佛では、浄土へは行けはしないものです。

佛が、真我が称える念佛と一体と成って、初めて浄土へ行く切符を手にする事ができるものです。

 ドリール先生から、集中を通して初めて法然上人や親鸞聖人が言われる念佛の意味を教えて頂けました。

ドリール先生から、集中を通して初めて法然上人や親鸞聖人が言われる他力の意味を教えて頂けました。

ちなみに、法然上人は日に七万回も称える行をされていたそうです。

「南無阿弥陀佛」を通して、何をいただけるのか。

その言葉を消し去った時、その言葉の中に潜んでいたものが顕れてきます。

地に積む宝、天に積む宝    (01/08/20)

 “読む”と言う言葉があります。

あなたは、今、この文章を読んでいます。

ですが、この“読む”と言う言葉の意味を真に知っているでしょうか。

実に“読む”と言うことは難しいものです。

今回は、この“読む”と言う事について考えてみましょう。

 私が、平成24年1月に林先生から白朋舎を引き継いでから「白朋誌を読む会」を東京では4月から、大阪では9月から始めました。

早いもので、8年になります。

8年が過ぎて振り返った時、そこに一つの疑問が浮かんできました。

それは、ドリール先生の想いが正しく伝わっているだろうか、と言うものです。

神秘学とは、難しいものです。

その難解な神秘を、教える難しさ。

悩みますが、どうしようもありません。

なぜなら、それは白朋誌を読まれる方の読み方次第だからです。

 小学校や中学校では、夏休みの宿題に感想文がありました。

読み、感じ、想い、それを文章にするものです。

ですが、実際には“読み感じる”事で終わっているようです。

良く「白朋誌の今月号を読んで感動しました」と言われる方がおられます。

ですが、その白朋誌は、読まれ感動した後は、積まれるだけのものと成っているのが実状でしょう。

神秘学を含め全ての学問においては、読み・感じたならば、その感じたものを想い思考して行かねばなりません。

そして、一番大切な事は、その思考を通して得られたものを、自身の人生に活かして行く事です。

行ずる事です。

自身の人生に読み感じて得られた結果を活かし、行じて、初めて読んだ事になるものです。

自身の人生に活かす種が有り、その種を人生に蒔いたならば、その書籍は良書となります。

ただ、時間と一時の感動と共に過行く書籍は、その人にとっては時間の無駄であり悪書となり悪因となってしまいます。

 人は、人生を通して様々なものを積み上げて行きます。

学問、経験、知識、家族、財産などです。

ですが、これらのものは全て死を通して、その人からは消え失せて行きます。

 神秘学では、人々に“生まれ変わり”を教えています。

この“生まれ変わり”は、ドリール先生だけでは無く、全ての聖なる神秘学では教えているものです。

その生まれ変わりにおいて、人は先の人生で積み上げた学問、経験、知識、家族、財産などは引き継ぐ事はできません。

生まれ変わってから「私は前の人生では、王だった、大金持ちだった」などと言っても無意味な事です。

地に積み上げたものは、その人の死と共に、その人から消え失せて行きます。

ですが、生まれ変わりを通して引き継がれて行くものがあります。

それは、その人が人生を通して、天に積み上げたものです。

その天に積み上げたものとは、因であり、アストラル体におけるチャクラ(霊界とのつながり)です。

人の物質肉体は、有限です。

ですが、人の意識は、神が分け与えられたものであり、神の一部分ですから、神同様に永遠です。

その永遠なる意識が、人の物質肉体に入り人生を通して天に積み上げた因と霊界・真我とのつながり(チャクラ)は、次の人生における新たな肉体へと引き継がれて行きます。

人は、誕生においてスタートラインが異なります。

 ですから、ドリール先生は私達に正しい人生の生き方を教えられているのです。

それは、誰のためでもありません。

それは、神のためであり、神の一分光である私達一人一人のためです。

そのためにも、白朋誌を含めた書籍を読む時には“読み・感じ・思考し・人生に活かし、天に宝を積め”とドリール先生は教えられています。

「我々一人一人は、自分自身の人生の主人公なのだ」と、ドリール先生は教えられています。

“読む”と言う事がどの様なものなのか、今一度お考えください。

どうぞ、天に宝を積まれますように。

『わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。

人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。

みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。

だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。

それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。』

(旧約聖書・伝道の書3-18~22)

『朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。

光は快いものである。目に太陽を見るのは楽しいことである。

人が多くの年、生きながらえ、そのすべてにおいて自分を楽しませても、暗い日の多くあるべきことを忘れてはならない。すべて、きたらんとする事は皆空である。

若い者よ、あなたの若い時に楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の道に歩み、あなたの目の見るところに歩め。ただし、そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ。』         (旧約聖書・伝道の書11-6~9)

フーンの一語    (01/07/20)

 昔、或るチベットの僧が「般若心経とは“フーン”の一語なり」と言っていました。

フーンとは、HUM(ハウム)であり吽(うん)です。

そして、ハウムはアウム(AUM)やオーム(OM)や唵(オン)と対をなす語です。

アウム(AUM)やオーム(OM)唵は、ポジテブ極を表す語であり、ハウム・フーン・吽はネガテブ極を表す語です。

「般若心経とは、フーンのネガテブ極なり」と言った、その僧の真意は何でしょうか。

考えてみましょう。

 “ネガテブ“と言った時、普通の人は”負・マイナス・悪”を連想する事と思います。

ですが、神秘学的には、ネガテブとは潜在であり、その対のポジテブは顕在を表しています。

潜在と顕在、隠れているものと顕れているもの。

私達が目で見、耳で聞き、舌で味わい、鼻で嗅ぎ、肉体感覚で認識し得るものを顕在(ポジテブ)しているものと言います。

その反対に、私達の肉体では感知し得ないものを潜在(ネガテブ)しているものと言います。

簡単に言えば、顕在しているポジテブとは物質の事であり、潜在しているネガテブとは霊(神)の事です。

 普段の私達は、物質のみが実在と、考え生きています。

普段、神や霊などは頭の片隅にも無いものです。

ですが、目に見え、身体で感じられる物とは、すべて神の創造物だと言う事を普段の私達は忘れています。

そして、困った時だけ、目にも見えない神にすがり付くものです。

過去の私などもそうでしたから、ご安心ください。

 潜在した神が存在しているから、顕在する宇宙を含めた物質が存在しているとの認識が大切です。

ですが、潜在したものは目にも見えず、耳でも聞く事ができません。

ですから、人々は、霊や神が唯一の実在とは認める事ができないものです。

その様な中で、その事実を悟った賢者達は、その事実を人々に知らしめようと様々な工夫をされてきました。

潜在した神によって成り立っている顕在した物質宇宙。

潜在した神と顕在している物質とは、車の両輪なのです。

どちらが欠けても、うまく走る事はできません。

顕在している物質のみだけで生きて行こうとしても、また潜在している神だけに生きて行こうとしても、この物質宇宙ではうまく生きては行けません。

神がいるから、物質があります。

物質があるから、神は物質の中で顕現できます。

真に“同業二人“なのです。

人とは、神と共にこの物質人生を生きて行くべきものなのです。

 “同業二人“で歩むべき人生において、あまりにも神をないがしろにしている事から、神を思い出させる意味で”般若心経“があります。

先のチベットの僧は、潜在した神を思い出し、神と共に生きて行きなさいと言う意味から「般若心経とは“フーン”の一語なり」と言ったのです。

アウム(AUM)・オーム(OM)唵とHUM(ハウム)吽(うん)。

阿吽です。

アーメン(A-MEN)です。

 今いる自分が、神によって生かされていると言う真実を知りなさいと「フーン」の一語は諭しています。

無智とは無神    (01/06/20)

 “ちえ“の漢字には「知恵」と「智慧」があります。

私は、この二つの漢字を使い分けています。

私は、物質界における知識から得られたものを「知恵」とし、霊界における知識から得られたものを「智慧」と区別しています。

今“知識から得られたもの”といいましたが、それは“法則”です。

私達は、オギャアと叫び、物質界に生まれ出てから、周囲を眺め、親や周囲の人々を真似、生きるための知識を学びながら、物質肉体を生かし働かせる知恵となる法則を学んできました。

その物質界における法則である知恵は、私達自身の外を対象にしています。

私達は、自分の外を身体に備わった感覚を使い、練習し、学習しています。

私達は、それが当然のことであり、正しいことであり、間違ってはいないものとしています。

ですが、誤ってはいけないことが一つあります。

それは、この世の三次元物質界とは、幻であり、常に変化している世界だと言う事です。

ですから、私達が学び取った知恵である三次元法則は“絶対”のものでは無いと言うことを認識していなければなりません。

ドリール先生が好きなハーバート・スペンサーの言葉に「人間が破る事の出来る唯一の法則は、人間の作った法則のみである」と言うものがあります。

三次元における法則とその世界は、絶対の世界では無く、相対の世界であり、幻であり、常に時と共に変化して行く世界です。

ですから、この事実を忘れ、過去に捕らわれていると、ある瞬間、その変化に気付き驚き、慌ててしまうものです。

 それとは対照的にあの世と言われる霊界は、神の世界であり、絶対の世界であり、真実なる世界です。

その神の世界の法則は、聖なる法則と言われ、決して破る事ができない法則です。

古くから、多くの賢者達が、私達に教え諭してきたものが、この破ることができない聖法則です。

その聖法則が、様々な宗教における経典として残されています。

ただ、その聖なる法則の学習方法は、私達が学んできた三次元的な知識の学習方法とは異なります。

その一番の違いとは、外と内の違いです。

聖法則とは、私達が自分自身の外を向いて学ぶものでは無く、自分自身の内を向き学んで行くものです。

そして、聖法則は自分で得るものでは無く、結果として自分に与えられるものです。

その霊界から、神から与えられた聖法則を“智慧”と呼んでいるのです。

ドリール先生は「内を向き、神に向き、学び、与えられた智慧を以て、外を向き、自分の人生を主人公として生きて行きなさい」と、教えられています。

 般若(パンニャー)とも言われる“智慧”

智慧の漢字を、そのまま読むと「ほのかな光を識(し)る」と、なりましょう。

この“ほのかな光”を以て、暗黒のこの世を照らし生きて行くことが、智慧のある人の生き方となります。

ほのかな光も無しに暗闇の道を歩んで行くから、つまずき、よろけ、果ては道を踏み外してしまうこととなります。

神を向き、智慧をいただき、暗闇の道を歩んで行きたいものです。

「無智とは、悪と不幸の母である」と言われる言葉、言い換えると

「無神とは、悪と不幸の母である」と、なりましょう。

物に支配される者、物を支配する者    (01/05/20)

悪とは、善とは何でしょうか。

ドリール先生は「ネゲーション(不調和)に縛られ、神とのつながりを忘れ、暗黒に閉じ込められた状を“悪”と言う」と、言われています。

逆に言うと“善とは、暗黒の中においても神を忘れず、光明を輝かせ、暗黒を消し去る事”と言えましょう。

“素行自得”です。(つぶやき12/01/2019参照)

 ドリール先生は「神我一体となるのは、どうしたらよいのでしょうか」と言う質問を多々受けると言われています。

その様な時には「自分自身を支配せずには、何もできない」と答えられるそうです。

自分自身の支配と言った時、その支配するものとは何でしょうか。

それは、自身の物質肉体につながる心です。

自身の五蘊であり、感情です。

私達は、神とつながる“精神“と、悪につながる”感情“とを持っています。

その感情を、精神(理性)で支配し制御していますか、と言う事です。

 ここで、間違ってはいけない事があります。

それは、決して「悪とは悪者だから、やっつけてやろう」とか「悪を抹殺しよう」とか考えてはいけないと言う事です。

悪も、神の内の一部だと言う事を忘れてはいけません。

悪にも、悪の役割と言うものがあるのですから。

「ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた」(旧約聖書・ヨブ記・1-6)

悪がなければ、光明を光り輝かす場が無くなってしまいます。

悪が無ければ、私達人間が働く場が無くなってしまいます。

悪がなければ、私達人間は失業です。

あなたが考える“悪”とは、どの様なものでしょうか。

一度、深く考えてみてください。

 悪とは肉に連なる感情であり、善とは神に連なる理性だと言いました。

古くから、この事を言い表している者があります。

それは、理趣経です。

理趣経の最初に17の句喝と言うものがあります。

それが、以下の17です。

1.男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。

2.欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である。

3.男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である。

4.異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。

5.男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。

6.欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。

7.男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。

8.男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である。

9.自慢の心も、清浄なる菩薩の境地である。

10.ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である。

11.思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である。

12.満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である。

13.身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である。

14.目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である。

15.耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である。

16.この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である。

17.口にする味も、清浄なる菩薩の境地である。

 これを読まれて、どの様に思われましたか。

どの様に思われたか、と言うよりも、感情を働かせて読まれたのか、それとも理性で読まれたのでしょうか。

 昔、読んだ本に、二人の雲水の話がありました。

二人の雲水が、諸国を回っていた時、ある川辺で川を渡れずに困っている女性がいたそうです。

一人の雲水が、その女性をおぶって川を渡ってあげたそうです。

川を渡り、しばらくしてから、もう一人の雲水が「女性に触れるなど、僧にあるまじき事ではないか」と問うたそうです。

そしたら、問われた雲水は「なんだ、あなたは未だ女性を背負っていたのか」と言ったそうです。

お分かりになりましたか。

私達の肉体と、それに連なる感情とは、道具であり、この世を生きるに必要なものであり、使わねばならないものなのです。

道具を捨てたら、仕事ができないのです。

大切なカンナやノコギリやノミを捨てた大工は、ただのでぇくの坊です。

道具は使い方次第です。

道具を上手に使い、善き働きをすると、神も喜ばれるものです。

道具が壊れないかなどと心配しながらの仕事では、善き働きはできないものです。

物に支配される悪人と、物を支配する善人との違いについて、よくよくお考えください。

「日々の人生における瞬間、瞬間、あなたは神とつながっていますか」と、ドリール先生は問われています。

コロナに思う  (17/4/20)

巷では、コロナに対して手洗いやうがいを勧めています。

ですが、いの一番が忘れられているようです。

それは、想念です。

想念が物である事を、多くの人々が知らないものです。

智慧が、無い人が多いものです。

 ドリール先は「善いもののみを観ろ」と言われています。

私達の、心の中に去来する様々な想念。

その川の様な想念の流れの中に入らず、岸に立ち、想念の流れを見詰め、善き想念のみを取り出せ、とドリール先は教えられています。

決して、想念の流れの中に入り、想念の流れの中で溺れてはならない、とドリール先は教えられています。

悪しき想念は流し、善き想念のみをつかみ取れ、と教えられています。

 ガンの患者が、寄席などで一時、ガンを忘れる事が大切な様に、コロナが流行している今、コロナを忘れる何かが、とても大切な事です。

古き人々は「その人が恐れるものが、その人に訪れる」と教えています。

 ですから、今、一番に為さねばならない事は

一に、想念(善き想念のみを持ち続けてください)

二に、腸活(腸を活性化させ、潜在意識を助け、免疫を高めてください)

三に、睡眠(安眠を通し、潜在意識とのつながりを強めてください)

でしょう。

        共に生きる    (01/04/20)

 その晩も、いつも通り10時過ぎ、女房を迎えに曙橋へ行った。

店の中には、未だ三組ほど客がいた。

カウンターに坐り、ユーチューブを見ていた。周りの会話が、聞くともなく耳に入ってくる。その中で、少々気になる会話があった。

そのテーブルの方々は、名刺に刷るキャッチコピーの話をしていた。

一人の方は「together」か「共生」が良いと言い。

もう一人の方は「共に」が良いと言っていた。

ただ、話の中身に何となく違和感を感じた。

それは、その人達の会話には“目には見えない神”がいない事。

ただ、有るのは名刺を渡す目に見える人達との人間関係の事ばかり、果ては名刺を渡すガールズバーの女性達との会話のネタ。

 そもそも“共生”ってのは、と思いウィキペディアで調べたら、共生現象における利害関係から

  • 相利共生:双方が利を得る場合
  • 片利共生:片方のみが利を得る場合
  • 片害共生:片方のみが害を得る場合
  • 寄生:片方のみが利を得、相手方が害を被る場合

の四種類に分類されるが、時間と空間とによってその関係は変化して行くと記されていた。

この不安定で幻的な物質界、利害関係と言ってもその関係は変化して行って当たり前。

この世には、常しえは無いと言う事。

この世は、常に変化して行く、無常の世界。

この無常の世界で“共に“とは、如何なる意味があるのであろうか。

と言う事で、“共”を字通(白川静)で調べたら、左右の手をともにする事(拱手)であり“つつしむ“や”うやうやしい“の意である「恭」の初文との事。

「礼器を奉じて拱手する」ともある。

つまり、神に捧げものをし、左右の手を合わせて拱手(こうしゅ)する事が「共」の原意であるらしい。

私的に言うならば、目には見えない神とともに生きる事。

目には見えない真我とともに二人三脚で生きる事が“共生“の真の意味だと思う。

それが、変わる事の無い、常しえなる真の相互共生と思う。

(話が横道にそれるが、コロナウイルスの影響で、昨今中国では人々が挨拶する時、互いに触れ合わない様にと片方の手を胸の前で握り、もう片方の手で握った手を覆う拱手による挨拶を用いていると伝えられている)

 ドリール先生は「人々は、人生において何らの問題も抱えていない時には、誰も目にも見えない神を観ようともしない。だが、その様な人も、ひとたび人生において問題が起きた瞬間、神を求め、神にすがりつく。だが、その様な神と同調し得ない心的状態では、神は何も為し得ない」と常日頃から言われています。

 この幻的な無常なる物質界で生きている私達の人生では、問題が生じて当たり前です。

ただ、その時に、その問題に立ち向かえるだけの知識と智慧とを持っているかが分かれ道となります。

常日頃からの備えと言うか、常日頃から目にも見えない真我と共に生きているかが、問われています。

その為には、ただひたすらに坐すのみです。

坐し、自身の内を向き、自分の内を見詰め行くのみです。

自分に黙想し、自分に瞑想し、自分に集中して行くのみです。

そうする事で、この世を生きる知識と智慧とが与えられるものです。

外には、幻的な無常なる物質界があるだけです。

内には、常しえなる霊界が広がっています。

神と真我と共に生きて行く事が、この世を生きる私達の働きであり、その為に私達は神に生かされているのですから。

私達が生きているこの瞬間は、誰の為でもなく、私達の為に存しているのだと言う事を知らなくてはです。

神と、真我と共に

    黄金則    (01/03/20)

マタイによる福音書7-12に 「何事でも人々から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい。これが律法であり預言者の教えである」とあります。黄金則(黄金律)と呼ばれるものです。

この誰でもが知っていると言われている黄金則。

ドリール先生は「黄金則を普通の人が行おうとした時、重大な過ちを犯すものである」と言われています。

ドリール先生は「人々は黄金則の意味を理解せずにいるが故に、自分自身を歪めている」とも言われています。

なぜでしょうか。

 話は変わります。

今、あなたはお腹いっぱいに美味しい食事を食べたとしましょう。

そして、食後に日本茶かコーヒーを飲もうとします。

その時、目の前に美味しそうな羊羹やケーキなどのお茶うけがあります。

あなたの好物です。

ですが、今、お腹いっぱいに食事したばかりです。

どうしましょうか。

一人の自分は「食べ過ぎだから、やめておきな」と言います。

ですが、もう一人の自分は「大丈夫、大丈夫、これは別腹だから」とささやきます。

あなたは、どうしますか。

我慢しますか。それとも、誘惑に負けて食べましょうか。

意志薄弱な私などは、ついつい悪魔のささやきに乗せられて食べてしまいます。

そんな意志薄弱な私の行動を擁護してくれる方がいました。

順天堂大学医学部の小林弘幸教授です。

自律神経の専門家である小林教授は著者「不摂生でも病気にならない人の習慣」(小学館)の中で「我慢してしまう人は、その行為がストレスとなり自律神経のバランスを崩し、結果的に体調を損なってしまう」と言っています。

ただ、勘違いしないでください。

小林教授は、何でもかんでも我慢せずに好き勝手をしろとは言ってはいません。

「身体に悪いと思う事をやった後は、それを補完する事をしなさい」と言っています。

そして「バランスを保ちなさい」と言われています。

悪いと言っても、後で補完し得る範囲の悪い事です。

 なぜでしょうか。神秘学的に考えてみましょう。

私達には“心(顕在意識)”と“潜在意識”とがあります。

潜在意識の座は、頭内の松果腺にあります。

松果腺は、銀線(シルバー・コード)を通して真我とつながっています。

その潜在意識は、松果腺から自律神経を発し私達の身体を二十四時間中休むことなく見守っています。

自律神経は、アクセルの様な交感神経とブレーキの様な副交感神経からなっています。

つまり、真我は交感神経と副交感神経とを使って、私達を制御しているのです。

私達が間違った事をすると、真我が自律神経を通してアクセルかブレーキを踏込みます。

私達の意志に反して、身体が勝手に真我の指示に従って、様々な症状を呈する事になります。

 以前に“神遊び“について記しました。

神も真我も、私達の様な肉体を持ってはいません。と、言うよりも持つ事ができません。

そんな神や真我に代わって、私達は物質肉体をまとい、この世のネガテブをポジテブ状に変換しています。

そんな私達の活動を、真我は銀線を通して眺めているのです。

真我は、私達の働きを見詰めているのです。

この世のネガテブを拾おうともしない者には、真我自らが自律神経を通してネガテブを与える事となります。

真我を遊ばせてあげる事が私達の仕事であり、人生においては大切な事だと言った理由です。

私達が肉体を持ち、心を持ち、五感と欲望とを持つ事の意味を、真に知らなければなりません。

心の欲望のままでは無く、心を制御する事を学べと言われている所以です。

バランスです。

ネガテブ(肉)とポジテブ(霊)とのバランスです。

心の欲求を我慢して、抑え込めるのは、無智で浅はかな行為であり、悪因でしかないのです。

そもそも“我慢”とは、驕り高ぶりです。

我慢とは、神や真我をないがしろにし、自分に与えられて仕事をしない行為でしかありません。

そんな事をして、怒られないわけは無いのです。

悪因を積んだら、悪果を与えられるのが当たり前の事です。

 ただ、間違わないでください。

“我慢”と“辛抱”とは違います。

先に、真我を喜ばせる事の為に辛抱する事は、神に対する驕りではありません。

先の真我を喜ばせる目的の為に辛抱する事は、許されるものです。

神遊びだからです。

ですが、先に真我を喜ばせる事も無く、ただ自身の肉の為、自身の恐怖からの我慢は、意味も無く、観ている真我を失望させるだけで、ただただ真我からブーイングを浴びせられるだけです。

真我に代わって辛抱しながら為す働きには、真我から拍手喝采を頂けるものです。

 黄金則に戻りますが、黄金則で言われている“自分”とは何かを間違ってはなりません。

“他力本願“と言う言葉でもそうですが”自“と”他“の意味が分からなければ神秘学は分からないものです。

“自分”とは真の自分である“真我“を指します。そして”他“とは、真我の写し絵であるこの世にいる私達の事です。

ですから、黄金則とは「何事でも真我がしてもらいたいと望むことを、自身で為しなさい。これが律法であり預言者の教えである」なのです。

 ですから、ヨハネによる福音書6-38で「わたしが天から降って来たのは、自分のこころのままを行うのではなく、わたしをつかわされた方のみこころを行うためである」とイエスが言われたのです。

 世の中には、善人と言われる人がいます。

善き事をしているのに、なぜ?と、思われる不幸な人がいるものです。

その様な人は、肉の私達の目から見た時には善であっても、真我から観た時には悪でしかないと言う事があるものです。

「無智は、不幸の母である」と言われる所以です。

ドリール先生が「黄金則を普通の人が行おうとした時、重大な過ちを犯すものである」と言われた意味を知る事です。

光明真言    (01/02/20)

光明真言と言う真言(マントラム)があります。

当舎では、下記のドリール先生が教える光明真言を用いています。

オームー アモギャー ヴァイロ キ ャーナー

OM      AMOGHA      VAIROCANA

マハ ムドラー マニー パーダム

MAHA  MUDRA    MANI   PADAME

ジェヴァラ プラヴァルトタヤー ハーム

JVALA     PRAVARTHTAYA    HUM

その意味は、下記の様な意味と言われています。

「オーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏よ 偉大なる印を有する御方よ

宝珠よ 蓮華よ 光明を 放ち給え フーン」

                      (ウィキペディアより)

問題は、大日如来とも言われている毘盧遮那仏が放たれる清光明をいかにしたら観えるのかと言う事です。

ドリール先生は「自身が清光明となるまでは、清光明を観る事はできない」と教えられています。

言い換えると「自身が神の状となるまでは、神を知り、顔と顔を合わせて神を観る事はできない」とも言えます。

ドリール先生は「これが真の祈りであり、マントラムの意味である」と教えられています。

その為には、どうしたら良いのか。

その答えは、真言の“OM”と“HUM”の語にあります。

“OM”と“HUM”が何を意味しているのか。

“OM”と“HUM”が何の象徴なのかが分からねば、その意味する処は分からないものです。

断食、祈り、瞑想  (04/01/20)

マタイ十七―一に「六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山にお登りになった」とある。

この六日間とは、準備期間であった。

その間、断食し、祈り、瞑想をして自身の中のネゲーションや不純なものを無くし、浄めた。

     (白朋誌 527号 変容の力より)

神秘学では“断食、祈り、瞑想”が、学びの基本となります。

神秘学の学びは、内に求めて行くものです。

外に求める学びでは、神は見出せはしません。

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