つぶやき (2019)

“神秘形而上学”とは    (09/09/2019)

見えも、聞こえもせず、私達には秘させた神を

  人生において、この身を通して

見出して行こうとする學びが神秘形而上学です。

秘された神を見出そうとした時

  人は、書物を頼りに歩み始めるものです。

ですが、無限なる神は有限なる人の言葉や文字

の中には入りきらないものです。

「学問は活物で、書籍は糟粕だ」

と、南方熊楠(空海)は言われました。

また「書籍には、知識や智慧や真理は無い。

書籍は、単に知識を集めただけのものである。

書籍は、知識と智慧

そして真理への人間の探究の記録である。

聖なる知識と聖なる智恵と聖なる真理は

人が自身の意識の中で創造する事によってのみ見出せる」

と、ドリール博士も言われています。

古き人々が、真理を求め探究した記録。

その記録をどのようにして生かすかは

その記録に接した人の思い一つです。

 また、ドリール博士は

「私が教える神秘形而上学は、オカルトでは無い。

オカルト・サイエンスである」と言われています。

「真理を求める道は、サイエンス(科学)だ」と言われたのです。

科学とは、理性的に學ぶことです。

   そこには、感情の入る余地はありません。

“理性”とか“真理”と言った時

  【理】とは何かを知らねばなりません。

【理】とは“万物の本性”のことです。

“全ての物事の真のすがた”それが真理です。

“真のすがた”を知るには

自身の外に求めても答は得られはしません。

いかに多くの書物や経典を學んでも得られはしません。

なぜならば、それらは足跡だからです。

自身の外だからです。

真に學ぼうとしたならば

  自身の内に入ることを學ばねばなりません。

足跡をたどりながら、自身の内に入ることを學ぶことです。

それ故に、古き賢者は「汝自身を知れ」と言われました。

“汝自身の真のすがたを知れ”と言われたのです。

 “自分の真のすがた”を知る

    それが、神秘形而上学です。

  無限なる神と有限なる人間   (10/01/2019)

無限なる神は、自分に似せて

人間を創造された。

有限なる人間も、自分に似せて

神を作り出して来た。

それ故に

 有限なる人間は

自分が作り出した不完全な神を

壊し続けて行かねばならない。

人間は自分自身に内在する

無限なるものを求め続けなければならない。

 Give & Take     (11/01/2019)

この“give & take”と言う言葉

誰もが、知っていると言います。

ですが、この言葉を実際に為しているかと言えば

ほとんどの人が、為してはいないものです。

皆さんは、本当にすべてを得ていますか。

           満たされていますか。

もし、満たされてはおらず

何らかが欠けている様でしたら

それは、与えられてはいない証拠です。

与えないから、与えられていない。

極々、当たり前のことです。

その当たり前の事ができていないのが、今の私達です。

今、この文章を読まれているあなたは

神秘学に興味を持たれていると思います。

神に興味を持たれている事とおもいます。

日々、あなたは神に対して何を差し上げていますか。

 あなたは、神に何を差し上げたら

神から祝福してもらえると思いますか。

続きは、来月とします。

その間、お考えください。

“give & take”言い換えたら、因果則です。

神秘学における一番の基本法則です。

よく學び、よく遊べ   (12/01/2019)

「よく學び、よく遊べ」と言う言葉を知っていると思います。

ですが「よく學ぶ」とは、誰が何を學ぶのか。

「よく遊ぶ」とは、誰がどのように遊ぶのか。

これを、真に知っている人は少ないと思います。

學ぶとは、真似ることです。

學ぶとは、人は自身の親である神を見習い、神を真似ることです。

學び舎で、自身の親を真似し、親を學んで行くことが、真の學びです。

そして、學んだ者が學び舎から外界へと出て、外界(物質界)にて自身を通して親である神を顕現させて行くことが、遊ぶと言うことです。

この世では直接的には顕現しえない神を、人は神の分身としてこの世で自分を通して神を顕して行くことが、神遊びとなります。

人が、この世で楽しむことが遊びではないのです。

人が、自分自身を通して神を遊ばせてあげることが真の遊びとなります。

先月の続きですが

神にしてあげることとは、自分を通して神を遊ばせてあげることです。

あの世でご覧になっておられる神を楽しませてあげることができるかです。

それが、真の神に対するgiveとなります。

中庸(第十四章)に“素行(そこう)自得(じとく)“と言われている次の文があります。

「君子素其位而行、不願乎其外、素富貴、行乎富貴、素貧賎、行乎貧賎、素夷狄、行乎夷狄、素患難、行乎患難、君子無入而不自得焉」

(君子(くんし)はその位(くらい)に素(そ)して行(おこな)い、その外(ほか)を願(ねが)わず。富貴(ふうき)に素(そ)しては富貴(ふうき)に行(おこな)い、貧賎(ひんせん)に素(そ)しては貧賎(ひんせん)に行(おこな)い、夷狄(いてき)に素(そ)しては夷狄(いてき)に行(おこな)い、患難(かんなん)に素(そ)しては患難(かんなん)に行(おこな)う。君子(くんし)入(い)るとして自得(じとく)せざるなし)

“君子”とは、生まれ育ちではなく、目覚めた人、天から与えられた命の意味を悟った人のことです。

“素”とは「糸を染める時、束の上部の結んだ部分が白く染め残される。その部分を素という」とあります。

素とは「もとの状態」のことであり、ありのままの状態のことです。

この君子と素の意味を基に、この文を読み直してみると、次のように読み取れます。

 神の分光としての自分の本性に目覚めた人は、どのような環境においても自身の本性のままに人生を行じ、他の環境を欲し願ったりはしない。

目覚めた人は、富貴な環境にあっては、富貴な環境において神と同調し、自身に神を顕し、自身の人生に神を顕現させて行く。

目覚めた人は、貧賤な環境にあっては、貧賤な環境において神と同調し、自身に神を顕し、自身の人生に神を顕現させて行く。

目覚めた人は、辺境の地にあっては、辺境の地において神と同調し、自身に神を顕し、自身の人生に神を顕現させて行く。

目覚めた人は、患難な状にあっては、患難な状において神と同調し、自身に神を顕し、自身の人生に神を顕現させて行く。

目覚めた人は、どのような境遇にあっても自身の人生において神と同調し、神の分光としての真の自分を顕し、それによって真の自分へと戻る。

自身の本来の状である神の分光(素)として物質界での人生を生き、人生においても神と同調し、神を顕して行くこと(行(ぎょう))が因となり、果として自ら神の分光としての真の自分へと戻ること(自得)ができるものです。

「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。

遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。

それは神の世界に外ならない。

この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。

・・・遊とは動くことである。

常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる」

     (白川静『文字逍遙―遊字論』平凡社 より)

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