初めにみ言葉があった。
み言葉は神と共にあった。
み言葉は神であった。
み言葉は初めに神と共にあった。
すべてのものは、み言葉によってできた。
でたもののうちで、一つとしてみ言葉によらずに
できたものは何一つなかった。
み言葉の内に命があった。
この命は人の光であった。
光はやみの中で輝いている。
そして、やみは光に打ち勝たなかった。
(ヨハネ福音書 1-1~5)
言葉には、神の霊が宿ります。
人が、言葉を通し
その言葉に潜在する霊を、神を、みいだした時
その言葉は、その人と共に輝きを発します。
永き時をとおし、言葉の中に眠る霊をめざめさせる
それが今を生きる者の務めです。
眠れる霊を、解き放たれんことを
世の光となられんことを
瞑想用にお使いください。
《日々の瞑想》
1、平穏であれ。しかして我は神であると知れ。霊、光、生命、知識、寛容、聖、信、健康、富裕、統一、愛、喜び、平和、正義、智慧、善、優雅、真理、美、自由、原理等であると知れ。
我は神の神聖であり、永遠の本質、全智、全能、偏在であり、我の他になにもない。
2、平穏であれ。我は神であり我以外に何も存しないと知れ。我は霊であり、我の中には何らの物質も存しない。我は光であり、我には何らの暗黒も存しない。
我は生命であり、あなた(神)の不死である。我は知識であり、あなたの内なる我意志は知識であって無知ではない。我は寛容であり、我には弱さはない。我は聖であり、あなたの罪なしである。我は信であり、あなたの内なる我意志は信であって恐れではない。我は健康であり、我には病気はない。我は富裕であり、あなたの無欠乏である。我は統一であり、あなたの内なる我意志は、統一であって争いではない。我は愛であり、我には誇りはない。
我は喜びであり、あなたの悲しみなしである。我は平和であって紛争ではない。我は正義であり、我には誤りはない。我は智慧であり、我はあなたの無束縛であ る。我は善であり、あなたの内なる我意志は、善であって悪ではない。我は優雅であり、我には非難はない。我は真理であり、我はあなたの過失なしである。我は美であり、あなたの内なる我意志は、美であって醜ではない。
我は自由であり、我はあなたの融通無礙である。我は原理であり、我には個人性はない。
3—1 霊において真理において。
我は罪なく、とがなく、裁かれることなく、非難されることなし。
あなたの真理は、聖であり優美であり、統一である。
3—2 霊において、真理において。
我は、誇りなく、自我意識なく、魅力なく、反感なし。
わが内なる真理は無限全智の愛なり。
3−3 霊において真理において。
我は怒りなく、憎しみなく、残忍性なく、報復心なく、争いなく、妬みなく、嫉妬心なく、怪しみなく、恨み なし。
わが真理は智慧であり、善良であり、美であり、平和であり、無意識的正義である。
3—4 霊において真理において。
我には弱さなく、欠乏なく、不満なく、不平なく、憂鬱なく、失望なく、自己憐憫なし。
わが内なる真理は全能であり、富であり、喜びである。
3—5 霊において真理において。
我には恐れなく、不安なく、凶事の予感なく、悲哀なく、疑惑なく、労苦なく、性急なし。
わが真理は信であり、全能であり、我無限の供給であり、我無限の防御である。
3—6 霊において真理において。
我に無知なく、欺心なく、虚栄心なく、あらゆる過剰愛なし。
わが真理は、知識であり、聖であり、原初のものであり、創造力である。
3—7 霊において真理において。
我には魂の緩慢なく、魂の強暴なく、心の欲望なく、心情なく、形態なし。
わが真理は永遠の生命、全能、生命活力である。
《朝の黙想》
無感覚意識の夜は過ぎた。私は霊的な日、永遠の今に目覚める。神の光の中にわが自我を新しく見る。夜の影は去った。私には苦しみも病気も死もない。私は今、健康と強さと限りなき喜びとに満たされている。わが内には無限一者に反するものの存する余地はない。と言うのは、無限一者がわが存在の最小の処から最大の処まで振動していて、その振動し活気づける無死の生命で満たしているからである。私は夜の不活動から昼の活動へと起き上がり、私を送られし神の働きをなす。私は、しがみつく死すべき人間性の最後の残骸を我視界から払拭し、ただ神のみを見る。
私は偽りの想念の不浄から肉体を浄め、聖なるエネルギーと、私が発し来れる聖なる愛とのあらゆる通路を開く。私は自分の内にこれらの高揚する力を感ずる。私は自ら光の衣を着、私に神の意志を示すにあらわれた天使達によって生命の機を織る。天使達は今私と共におり、私からは決して離れないし、私も彼らを見捨てない。
私は正義の衣を着けるに値しないだろうあらゆる欲求を取り除く。そして天使達の手は私をあらゆる誘惑から超えさせるだろう。私はわが敬神の認識の上方の部屋から、私が世界にその宗教を表さねばならない経験の下方の部屋にと導く階段を降りる。私は高級界からのパンたる食べ物を食べる。それは神の子たる私に対する確実な供給であり、今日の私の働きに必要な大なる倉庫から引き出すのである。
私は『ことば』『真の想念』を食っている。私はそれを同化し一体化する。それは私を通し、私の中で働く。それに反対しそれを征するものは何もない。それは肉体を創っているのであり、わが肉体を創っているのである。そして、わが肉体の中に私は神を見るのである。わが肉体の中で私は神を見るのである。わが肉体の中で私は神を顕すのである。
恐れるべきものは何もない。と言うのは、愛は全てのものの中にある全てを通してあり、全てを覆っているからである。私は今日、私自身を私の友達に与える。そして如何なるものだろうと、全ての奉仕は彼ら自身の真の自我を示すであろう。私の中に、私の友人の中に悪はなく、不幸はなく、罪はない。私は来るべきことばを待っている聖のみを見る。この『聖』を私はことばの力によって呼び出す。この『ことば』は私の語である。そして我各々の息は祝福であり、全ての人々への善のメッセージである。と言うのは、神たる愛は、私の語の中で話すからである。父と私は単一体であり、私を通して父は彼自身のものにとやってくる。目覚め、浄められ、衣を着、養われて私は今の中に立っている。
そして私は永遠を知る。私は『無限』の上に立つ。私は有限をみつめる。私は永遠を感じ、私は絶対の中で息をする。私はありてあるものなり。私は永遠の平安と共にある。
《夜の黙想》
私は日々のパンを高級界から受けてきた。そして私は今や外的感覚のドアを閉じ、食物を消化吸収する。私はこのドアを聖なる防御が決してまどろみをせずに続けられるところの完全確信をもって閉じる。聖なる愛は神であり、全智であり、全能であることを私は知っている。私は客観心から主観心へと変わる。そして如何なる障害も妨害もなく、神の愛する者達の静穏なる水と緑の牧草地とへの道を見いだす。如何なる心霊的影響も、この憩いの場から私をそらすことができない。と言うのは、主はわが羊飼いであり、父のみに私が仕えるからである。私にはあらゆる恐れはない。私は敵をもたない。私に悪事を働く者は一人もいない。私はいかなる報復の心も持たない。私はあらゆる人間存在に対して愛のみを感ずる。私がまだまだ兄弟達に仕えるために活気づけられ、新生されて目覚めるために休みに入らんとする。
私は外界に属するところの外衣を横たえて、私を必要な者が私を知るためのそれ自身の衣服をつけて魂の世界に入る。私は物質界の光を消す。私はわが歩みを導く偉大なる光を見る。この光の放射は、私に不足していることを示し、どこでそれを見いだすかを教える。この神の光の中に私は、この夜の旅をし、私の真の家にとわが道を急がせる。
そしてそこで、この外界では決して教わることのないことを見いだし、それを持ち帰ることを知っている。だから私は心の中に愛のみを持って進む。そしてこの鍵は、智慧と力と健康と平安のあらゆる宝の錠を開けるだろう。カーテンは下ろされる。世界はかすんで行く。私は愛の羽で天界にと昇る。私は天界のかすかな音楽を聞く。
白朋誌から
☆ あらゆることが現れて来るのは、それが現れるべき一定の法則と原理とがあっての必然性の故である。
☆ 神さえも従わねばならない法則は、無限に生き、無限に成長し、限り無く拡張せよと言う事である。
☆ 我々が実際に必要である唯一の準備とは、我々自身の意識の清浄化である。
☆ 自分自身に欲しないことは、他人にもなすな。
☆ いくら行法、修業を積んでも、そこに大宇宙への奉仕という聖愛の霊性心がなければ、それらの行法等は、無益である。
☆ あらゆるものの中に善いものを見つけよ。そして、あなたの魂に普遍の真理を保ち続けよ。
☆ 我々は、神の御意志であり、かつ、神の計画の具体化である人生の大法則を理解しようと意図しなければならない。
☆ 智慧は、暗黒を消散させる。
☆ 我々が自分自身の周りに見い出す全ての状況は、我々の化身の縮図である。
☆ 人間が破る事の出来る唯一の法則は、人間の造った法則のみである。 (ハーバート・スペンサー)
☆ 我々は、求道の道を唯一人で歩いているのではなく、いつも神と共に歩いているのだと言う事を悟りなさい。
☆ 我々はいつも、善い事をしようと努めねばならないだけでなく、我々の周囲にある否定・消極・悪のどんな表現だろうとそれを肯定・積極・善へと変換しなければならないのである。
☆ あなたが、より多くのキリスト精神(仏陀の心)を意識的に使えば使う程、あなたはキリスト(仏陀)の様になって来るのである。
☆ 眠りの法則を学びなさい。そして、睡眠中にあなたの意識的地位を確かめなさい。
☆ 人が、全てを知る事が出来る知識とは何か。
(汝自身を知れ、さらば汝は全てを知らん)
☆ 我々が強くなるのはあらゆる物事に遭遇して、それを克服する事によってのみだと言う事は、絶対の事実である。
☆ 神秘と言うものは、我々の知識が不足だからこそ神秘なのである。
☆ あなたが、その存在を受け入れ、それを認めている限り、その状況は存在する。
☆ 毎日毎日、一人一人の魂は少しずつではあるが、自分達を束縛している否定・消極・暗黒・を光明へと変換しつつあるのである。
☆ 人が恐れているものが、その人にやって来るのである。
☆ 無知という敵を征服するには、智慧が必要である。智慧を得る最上の方法は絶えざる努力である。
☆ あなたの意識を聖なるものに瞑想し、聖なるものに昇華する様に一日の内の数分間、特に夜の眠りに入る前に保ちなさい。
☆ 道は禁欲的なものでもなければ、世俗的なものでもない。この両者の間の中間的なもので、何ものをも斥けず、適度になされることの総てを為すことである。
☆ 許すことによって怒りを鎮めよ。謙遜によって虚栄心を征服せよ。正直さと率直さによって欺瞞を征服せよ。満足によってどん欲を征服せよ。
☆ 人間の宗教と言うのは、自己の内なる物質性がいかにして夜の亡霊、つまり、自分自身が自分の周りに作った幻影を征服するかを探究するものである。
☆ 我々は、法則に従って生きなければならない。我々は、原因を作っているのである。もし、我々が自分の処へやって来た結果に対し、正しい対処をすれば、その結果をもたらした条件は、変化してなくなる。
☆ 我々が、それに力を貸さない限りは、あなたの上に力を振るう様な如何なる悪霊も、如何なる力も、如何なる自然力も、存在しないのである。
☆ イエス(神秘形而上学)の弟子に成るために要求されることの一つは、各人がそれまで持っていた全先入観念を捨て去ることであった。
☆ 普通の人間が誤った観念を根絶する唯一の方法は、瞑想の過程を通じてである。
☆ 我々全員が悟らねば成らない一つの事は、天国は我々の意識の内にあり、地獄も我々の意識の内にあるということである。
☆ 支配を勝ち取る為には、三つの界(物質界・心界・霊界)におけるバランスを達成しなければならない。
☆ 求道者は、どこにいようと自分が次なる段を上がらんとする前には、必ず自分が支配し克服しなければならない、いろんな事が起って来る事に気付く。
☆ あなたは今や、想念そのものの実際の力を発見する事が出来る。
☆ あらゆる治療法は、実際に深い祈りである。真の祈りは、内なる聖と外なる聖とを接触さす事である。
☆ 苦労と困難とは、教育者であり、指導者なのではなかろうか。そして、それらが我々に人生の教科を与えているのでなかろうか。
☆ すべて人の口から入って、人を汚し得るものは無い。かえって人の口から出て来るものが、人を汚すのである。
☆ 我々は、自身の有限なる意識では、絶対に無限意識に到達することが出来ない。
☆ 空間と時間とのどこかに、今まで有った総てのものは、今も有るのである。
☆ ものを認めると言う事と、それに束縛されると言う事は、格段の違いがある。
☆ 法則とは、我々が神と呼んでいるところの力である。
☆ 瞑想とは、我々が我々自身と聖なる大宇宙的な意識と同一化する原理である。と偉大なる師達が教えている。
☆ 適応性と言うものは、あらゆる原理の中でも最大のものの一つである。適応性によってのみ、我々が聖なる目的を十全に実現する自在性に至る事が出来るのである。
☆ ある種の食べ物を食べようが食べまいが、我々が自分自身でそれに力を与えない限りは、霊的進歩、神秘的発展に何らの影響もないのである。
☆ 想念はモノである。この様に意識せよ。こうすればあなたは、モノを支配し始める事が出来るだろう。
☆ 何ものと言えども、自分が作り上げた原因の結果に遭遇する事を免れる事が出来ない。しかし、その結果に会う会い方は種々様々である。
☆ 現在と言うこの瞬間は、賢明に使うべきである。その様にしてはじめて、我々が幸福と平和の状を創造出来るからである。
☆ 魂は、不滅である。魂はただ、自分の真の姿を束縛不自由という形ではなく、自由自在という形で装っているのである。
☆ あなた自身の道を進みなさい。そして、他の人々があなたの生き方を見て心的に高揚される様な生き方をしようとしなさい。
☆ 恐怖を克服せよ。さすれば、あなたは光を得ん。
☆ 愛は道の始まりであり、道の終わりである。その理由は、聖なる愛の中に一者がいますからである。
☆ 我々が三界に存在する法則、つまり、力を理解することが出来るまでは、真に自分は人生を理解したと言うことが出来ない。
☆ 求道の学徒が、何かの物事を除かんと欲すれば、まづ、そのものごとを解放しなければならない。
☆ 表現しているもので、絶対的なものは何一つない。
☆ 絶えず努め、働け。善い事をしようと試みるな。むしろ、自分の周りのネガティブ(否定、消極)として表れているものを転換しようと努めよ。
☆ 霊的勉強の直前には、濃密な食事を取ってはいけない。
☆ その人は、その人の思っている通りになる。だから、永遠を思え。
☆ 希望は、その他のものが全て死んでしまってから生きる。
☆ エジプトの大ピラミッドは、アトランティス人によって建てられたもので、エジプト人によって建設されたものでない。
☆ 命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見い出す者は少ない。
☆ 正覚とは、二つの意識が相互に密接した時、つまり、意識の二つの面(現在心、潜在心)が一体となった時に表れる意識特性である。
☆ 今日なした善事は、明日の幸福となる。
☆ 科学は、思い出した記憶である。
☆ この世のあらよる幸福と言うものは、他人の繁栄を願う気持から生れたものであり、この世のあらゆる不幸は、利我に没頭することから生じたものである。
☆ 松の古木が智慧を説いており、野の鳥が真理を叫んでいる。
☆ 君子は、ゆっくりとしゃべるが、速やかに行動に移す。
☆ 徳は孤ならず。必ず隣あり。
☆ 人間は、多弁をもって賢しとはしない。足ることを知り、親切であり、恐るることを知らない者は、智者であり悟者であるから満足することを知っている。
☆ 智を得んとする者は、まず神を知らなければならない。
☆ 満足は幸福の根源であり、不満は悲しみの根源である。
☆ 真の信者は、自分みずからはじめる。
☆ 正義は平和を生じ、正義の結ぶ実は、とこしえの平安と信頼である。
☆ 多くの王達が、地に座していた。そして、思いもかけない人が王冠をつけていた。
☆ 恐怖は、人間と人間の理想の達成との間にある最大の障害である。
☆ 神に近づく唯一の方法は、静穏と認識と喜びとバランス(均衡)の状で近寄ることである。
☆ あなたの魂から怒りの心を無くして清浄にしなさい。怒りは愚者の本性である。
☆ 物事を楽しく見る習慣。そして、人生を希望的に考える習慣は、他の習慣と共に我々の内に育てられる。
☆ 幸福は、大なる愛と多大なる奉仕とである。
☆ 与えたところのものは輝き、受けたところのものは色褪せる。
☆ 私が東洋の教えを学ぶ前は、私自身、改革運動家精神を若干もっていた。私は、自分が充分な力を得たら、充分な知識を得たら、悪と戦おうと思っていた。
私は、なぜ、偉大なる方々がこの世界から総ての悪をなくさないのか理解出来なかった。
人間が悪やネガテブとか呼んでいるものは、各個人が自身の内でなくすべきものであり、それが我々の努めなのだと言うことを学ぶ前は、上記の様に思っていた。
☆ アナバサダは、明朗を意味する。楽しく笑っていることによって、あなたはいかなる祈りよりも早く神に近づく。明るく楽しい意識(内からの微笑み)は、あなたが「わが主よ、わが主よ、私に何々をして下さる様お願いします。」と言うよりも実際により近くあなたを神へと近づける。
☆ 瞑想の目的は、人格とエゴ(魂)との同一化を達成することである。
☆ 幸福である秘決は、普通のものごとの中から幸福を引出す力の中にある。
☆ 道とゴールとは、我々の内にあるのだ。
☆ 真理は、無限の切子面を持った宝石の様なもので、いつも光の方に向けて新しい切子面を見せつつある。
☆ 天使を悪魔に変えるのは、誇りである。人間を天使の様にするのは、謙虚である。
☆ 平和への最大の障害は、人間自身にある。というのは、イエス・キリストが「悪に抗する勿れ」と言った命題を学んでいないからである。
☆ 霊的真理を探究している者は、これを受ける前に自分自信の中に受容性を創造しなければならない。
☆ 天の指し示すものには、誤りがない。
☆ 沈黙には、偉大なる利益がある。多弁には、何らの益もない。
☆ 努力する者のみが智慧を見いだし得る。その智慧は暗黒の中に隠れているが、その暗闇そのものの中にも炎は存するのであり、その中にこそ真の智慧が見いだされるのである。
☆ 魂の道は三つである。それは、人間と自由と光とである。
☆ 神のみを見なさい。あなたの動機が他人を偉大にすることのみである様にしなさい。そして、自分自身の野望や満足のためでない様にしなさい。
☆ 現在の我々の総ては、我々がいだいてきた想念の結果であり、それらの総ては、我々の想念の中に見いだせる。それらは総て、我々の想念から作られた。
☆ 智慧のみが調和をつくるのだから、智慧を求めよと言うことが命令であり、物質があなたを引きもどさない様にとしなさい。
☆ 師は単に、弟子をして自分自身を理解する様にと導くのみなのである。人間は自己の意志するものになれるのであり、それは、意識傾向の問題なのである。
☆ まづ、最初に神の国を求めよ。そうすれば、その他のものは全てあなたに与えられるであろう。
☆ 神は、至る所にいるのであるが、調和の状にのみあらわれる。
☆ 仏陀の五大瞑想点
1、愛 愛に瞑想し、汝が総ての人々、汝の敵をも含めた総ての人々の幸福と美とを願う様にと心を適合させ、瞑想する。
2、同情 同情に瞑想し、総ての者が苦しんでいる事を思い、汝の心の創造の中に、はっきりと人々の悲しみと苦しみとを思い起し、汝の魂の中に彼らに対する深い同情心を起こす様にと瞑想する。
3、喜び 喜びに瞑想し、汝が他の人達の繁栄を考える事を喜びとし、他の人達の喜びを喜ぶところのものを瞑想する。
4、不純 不純・腐敗の結果としての悪を考え、悪と間違いの効果とに思いを致し、一時的楽しみのいかに詰らないかを考え、その結果がどうなるかについて瞑想する。
5、平静 汝が、愛と憎しみ、残酷と被虐待、貧と富などを超越し、自己自身の運命を公正な静けさ、完全な平静さをもって瞑想する。
☆ 奴隷の如くでなく、人生の支配者の如くに働け。
☆ 正しくあり、慈悲を愛し、神とともに謙虚でいる者に、主は更に何を求めようか。
☆ 最大の智慧は、汝自身を知ることである。
☆ 海は満水だが、流れ入る諸河はこれを溢れさす事が出来ない。
☆ 今の我々に毎日起り来ることは、罰として与えられるのではなく、我々が遭わねばならない何かのことであると知れ。
☆ 我々の内なる“聖”をあらわす為に、外なる聖と交わるのが祈りである。
☆ 神がすべてであるから、すべてが存在するのである。何らかの状況が存在するには、その存在する力を我々が与え続けているからである。
☆ 我々は、一度に一日しか生きない。各一日一日が次の日の基礎となる。我々がその日の総てのことに、自分達の想念の中に、多大の愛と幸せとの思いをもって最善をつくせば、最高絶対の聖法則と調和してると同様の幸せを得る。
☆ 人は、自分が欲することが与えられる前に自分自身を無欲としなければならない。真の発達は内から来るのである。あなたの内部自我を発達させ、あなた自身の運命の主人公となりなさい。
☆ 自分の得た物にはどんなものにでも感謝する者、二元論を克服した者は、誰もうらやまない。彼にとっては成功も失敗も同一であり、何をなくしてもそれに束縛されない。
☆ 東洋では、我々の心にやって来る総てのネガテブなもの、不調和、不秩序な想念を斥けよと教えられている。そして、常に生命と力とが与えられる様な想念のみを心の中に来らせよ、と教えられている。
☆ 無形の特性と無形の本質とを持った宇宙意識を見いだすには、我々の意識の内から暗黒を無くさねばならないのは勿論、光でさえも消さねばならないのである。
☆ 自分の心に浮かんでいるいかなる心的状態だろうと、それをいつまでも継続させてはいけない。
☆ 目が見える様になる前に、涙を支配しなければならない。耳が聞こえる様になる前に、それが塞がれなければならない。口がしゃべり得る前には、沈黙を支配しなければならない。
☆ もし何かを得んと望むなら、左鼻孔から息を吸っている間にそのものを心に強く印象づけなさい。
もし、何かを与えんと欲するなら、右鼻孔で息を息を吸っている間にそのものを心に強く印象づけなさい。
☆ 自我は幻であり、夢である。目を開きめざめなさい。
ものをありのままに見なさい。そしたら慰められるだろう。「わたし」と言うものは無いと言うことを見い出した者は、すべての欲望と言ううぬぼれの願いとを去らせる。
☆ 若木はたやすく抜き取れるが、大木には斧が必要である。
☆ 我々は、瞑想よりも正義の方が役立たないことを見て来ている。
瞑想する人は神のみしか見ないからである。もし、あなたが神のみしか見なければ、あなたを動かすのは神のみである。
☆ 必ず神のみを見つめなさい。必ず自己の動機を他人の為の偉大なる目的の為に使い、あなた自身の満足や野望の為に使わないようにしなさい。
☆ 神が人間を創られた時、神が人間に生命の息を吹き込まれたので、人間は生きる魂となった。
だから、真に生きるすべての人間は、自分自身の内に神の息、つまり、魂を持っているのである。
この魂はすべての人間について同一のものであって、すべての人間は神一者の一部である。
☆ 瞑想をすることにより、神から離れている意志と心とを清めよ。
☆ 悟りへの我々の成長に正確に比例して自己のオーラが発達し、それに触れる者を癒し援助する様になる。
☆ 善と悪の違いは、理解の度合の中にのみある。
☆ 物的なことだろうと心的なことだろうと霊的なことだろうと、いささかの欠乏の考えももってはいけないし、口に出してはならない。それは、聖の中にはいかなる欠乏もないからである。
何らかの欠乏の意識を我々の内に入れることは、 我々の探究している理想を乱すこととなる。
☆ すべてのものの中に善を探し、あなたの魂をどこででも見いだせる真理に生きよ。
☆ 求道の学徒が自己の魂の成長を感じ始めると、外的な何ものも自分に全く影響を与えない様に見える静けさを感ずるものである。
☆ 我々の内なる「聖」に対する信念が、自己の個人的経験に対する信頼よりも強くなるまでは内なる聖は偉大なることがなせない。
☆ 汝を越えたるもののみを求めよ。
☆ 人間の研究は、神の研究である。なんとなれば、この二つのものは一つのものだからである。
☆ イエスは、弟子達にイエス自身の心の内に持っている平安の意識をもたらそうとした。と言うのは、その平安がイエスをして人生のあらゆる苦難を通らせたところのものだからである。
☆ 調和的で善良で美しい想念によって和らげられた心が、同様なものを引き付ける磁石として働いている。
☆ 試練と苦労とを通してのみ、あなたの存在の一部としてやってきた不秩序が取り除かれて、宇宙の光の律動的で平隠な振動が入って来る事を知って、不動であれ。
☆ あなたの光を、無我で偏見なく与えなさい。部分的に与えず、神が与える様に全体的に与えなさい。
☆ 霊的治療は神秘力を使うことではない。それは常に我々の内にあり、何ものをも創造し得るところの不偏の力を使うことである。
☆ 神々は自分達を心に知らせる様にしており、知識だけで神々を理解しようと努めている者から隠れている。
☆ 裁くこと勿れ。汝が裁かれざらん為に。
☆ 他人があなたに何をしようと、あなたは復讐してはならない。仕返しをしてはならない。
☆ だれが話したかで無く、何が話されたかを調べよ
☆ 賢い人は、他人の誤りから自分自身の誤りを正す。
☆ 勝つ者は恨みを招き、敗れる者は苦しみに臥す。勝ち負けの二つを捨てたる心平和なる者は、幸せに住す。
☆ 内なる力を疑う事によって、我々が力を与えているものよりも大なる力をそれに与える事は出来ない。
☆ もし、我々が自分の回りの全てのものに善を見始めたら、より多くの善を見るだろう。もし、我々が自分でより多くの善を現し始めたら、より多くの善が我々に現れ始め、他の幻がより益々少なくなって行く。
☆ わたしは、ただ心に愛のみを持って行くのである。この鍵が総ての智慧と力と健康と平和との宝を開くのである。
☆ 中庸は最高である。総ての極端は避けよ。
☆ 霊の法則は人間を罰する様には働かない。むしろ人間を間違いの結果から救う様に働くのである。
☆ わたしは無限からの火花である。わたしは筋肉と骨とではない。わたしは光である。
☆ 自分の欠点を無くすと言う可能な事をせず、その代わりに他人の欠点を無くすると言う不可能な事をしようとする事は大変に愚かな事である。
☆ まず大なるものを求めよ。そうすれば小なるものを与えられよう。まず天なるものを求めよ。そうすれば地的なるものも与えられるだろう。
☆ 我々は、学べば学ぶほど自己の無知を発見する。
☆ 光の道を歩む子らよ、お前達は自分自身の内を見つめているのか。自分は本当に光の道を歩んでいるのかどうかを考えているのか。
☆ 名称、教義、宗教によって混乱してはいけないのである。真理よりも高級な宗教はない。究極的には宗教はないのであり、神のみが存するのである。道はどうでもよいのである。目標のみをみつめていなさい。
☆ 恐怖、憎しみ、愛を乗り越えて昇り、聖なる光と一体となることのみを希求せよ。
☆ 喜びを内と外とにあらわしなさい。そうすれば、あなたは成功する。
☆ 人生は休日ではない。学校である。
☆ 多くの人々は、心的なイメージ(像)を天的な光景と間違っている。
☆ 喜びほほえんでいることによってあなたは、祈りよりも速やかに神に近づくことが出来る。
☆ 心が肉体の主人公である、ということは絶対の事実である。
☆ “瞑想そのもの”においては、心の作像作用がなくなって“霊の声が小さく静かに聞こえる前”の沈黙でなければならない。
☆ 何らかの誤った思考は、誤った感じをもたらす。そして肉体の誤った感じは、病気を意味する。
☆ 敵を友とすることのできる者は英雄である。
☆ もし私が二人の他の人と歩んでいると、彼らは私の先生となってくれる。私はその人の良い点を取り上げて実行する。他人の悪い点を取り上げ、それを自ら改める。
☆ 大なる働きに従事する時、短気であってはいけない。
☆ 悪が話さるる時、汝、沈黙を守れ。そは真理は太陽の如くすべての上に輝けばなり。
☆ 人はパンのみにて生きるのではなく、神の口から出た各々のことばによって生きるのであると書いてある。
☆ ”教義“の実際的で適切な理解のない人は、宗教的霊的自己満足という誤りに陥り勝ちである。
☆ 命の水がほしい者は、値なしにそれを受取るがよい。
☆ 汝はなぜ兄弟の目の中のちりを見、汝自身の目にある梁を見ないのか。
☆ 愚者の心はその口にある。賢者の口はその心にある。
☆ 静隠なる心には、全宇宙が従う。
☆ 永遠で不滅のものは、常に拡張しなければならない。それは、決して終わりに到達しない。たとえ、それが完全祝福状の終りだろうとである。
☆ もし、誰かがあなたの事を悪く言ったら、あなた自身の意識に帰り、あなたの心を調べよ。もし、あなたが悪ければ、それはこらしめである。もしあなたが悪くなければ、それは美しい指事である。
☆ ことばの力は、ことばの霊である。
☆ 『聖』の礼拝は、ことばと行動とによってである。
☆ 人間の熟考し得る最も重要で深遠な勉学は、人生そのものである。
☆ 悪い子はいない。すべては神から出た良い子である。
☆ 心が、肉体の主人公であることは絶対の事実である。
☆ 賢者は自分の心をあふれさすが、その口はかたく沈黙を守る。
☆ 沈黙によっては心の耳が至高霊に向けられ、それより他の指導根源はない。
☆ 恐れることなく出てきて、あなたの本有の権利「われとわが父とは一体なり」を主張しなさい。
☆ 教育は学びではない。それは心の発達と訓練とである。その目的を果たし得る二大方法がある。それは学びのホールでなされるか、あるいは人生の戦いにおいてなされるかである。
☆ 愛は愛を生む。それは教育の過程である。
☆ たとい私は、死の陰の谷を歩むとも禍いを恐れません。あなたが私と共におられるからです。あなたの鞭とあなたの杖が、私を慰めます。
☆ シャンバラの聖者方は、あなた方が苦しんでいるのを見ても同情なさらない。彼らがあなた方のもがく様を見、同情を求めている様を見た時、彼らが何らかの方法であなた方を救う事のできる唯一の事は、あなた方があなた方の内から同情を求めると言う事を無くする様にとする事である。
☆ 我々が、他人に与えることのできる最初の大きな贈り物は善例である。
☆ 希望を拡大するものは、何だろうと勇気を高める。
☆ 神を知る力が智慧、神の実在が真理とも言える。
☆ あなたの知っている真理を実行しなさい。するとあなたは知るべき真理を学ぶだろう。
☆ 霊的真理を知っていて、それらを充分に実行しない者は、ランプをつけて目を閉じている者に似ている。
☆ 神は、肉体人間に試練を送らない。滅すべき肉体人間が、自分自身の弱さによって、自己の強さと努力と忍耐の欠除に対して、自分自身で試練を加えているのである。
☆ 意識の何らかの働きのないところには、いかなる種類の顕われも力もない。
☆ あなたが考える事を止めるものは何だろうと、取り除く事が可能である。
☆ 恐れるべき唯一のことは、恐れである。
☆ より多くの光を得たいと望む者達には、司祭は必ずしも必要でないし、教会の建物さえも不要である。各人が、自分自身のやり方で自分自身の魂の内に神を見出すべきだとイエスは教えた。
☆ 『因果の法則』をイエスは「あなた方が種をまくと、それを刈り取らねばならない」と言われた。旧約聖書では「目には目を、歯には歯を」と表現されている。
☆ 人が道に乗り出すと、ほとんど間違いなく多くのよくないことがその人に起こる。しかし、我々は自分の強さを越えて試されることは決してないのである。
☆ あなたが或る日は高揚し、次の日には落ち込むのは、あなたが激情・怒り・憎しみ・恐れなどによって揺れ動いているからだと悟らないのですか。
☆ 非個人的人生を生きよ。
☆ もし、あなたがあなたの最高に達したいと思ったら行って花を見なさい。花が喜んで無意識的に何をしているかを見なさい。
☆ 愛は、その神性を表現している魂である。
☆ 人間の生きる目的は、物質界における自己のネガテブ(悪・不調和)の状況を支配することである。我々の目的は、そのネガテブを克服して神と一体となることである。
☆ 我々は、過去にも未来にも縛られない。これが宿命・宿命主義・予定運命・神の定めに対する教えである。
☆ 相手の欲するものを与え、相手の欲しないものを与えない。
☆ 私イエスは、皆さんに言う。諸時代を通しての私の名前は『アベラメンタ』である。もし、あなたが最初の神秘を知ろうとするなら、父が私に与えたこの名によって私を呼び出しなさい。
☆ あなた方が、どの家に入ろうと最初に「この家に平安あれ」と言いなさい。
☆ あなたの全身全霊をもって、あなたの主なる神を愛し、あなたの主なる神に仕えよ。
☆ 永遠に喜べ、絶え間なく祈れ、すべてのものに感謝せよ。
☆ 脳そのものは、心の道具である。そして、心は個人意識(真我・魂)の道具である。心そのものが、人間ではない。
☆ 決して与えない人々は、与えることによって制せよ。不真実な人は、真実によって克せよ。怒れる人は、優しさで克せよ。悪い人は、善によって服せよ。
☆ われ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳従い、七十にして心の欲するところに従って矩を越えず。
☆ あなたが正しいものに瞑想をすれば、あなたの自我は正しい意識・正しい人格性をあなたの外部自我の中に創り上げるだろう。
☆ 信は、知の別名である。信は知への道であるが、信ずるよりも知ることこそ寛容。
☆ わたしの述べる道は、万人のためのものではない。これを受けるだけの心的霊的準備のできていない者もいるからである。
☆ 神を肯定する者も、否定する者もともに神の法則のもとにある。
☆ 神はすべての人間の中にあるのであるが、すべての人間が神の中にいるのではない。
☆ 唯一の罪は神との不調和、神との調和の欠除である。
☆ 内側を清めるのに一番よいのは、神への奉仕であり霊的な勉学・努力である。
☆ 目標と道とは一である。しかし、我々が道を歩いている限りは、その目標には決して達しない。
☆ ブラザーフッドの目的は、肉体を神聖心が顕現するための完全な容器とすることである。
☆ 高貴な心の人の誠実な行為は、見えない真我を反映する。
☆ 健全な肉体にまさる富はない。魂の喜にまさる喜びはない。
☆ 信仰の原理は、言葉を少なくし、行為を多くすることである。
☆ けがれたもの、悪いものなど存しない。破壊、悪と呼ばれる想念は、善の誤概念である。それらは我々の内なる神を意識しないことから起こる。
☆ 沈黙、つまり沈黙の知識は、人生の満足たる平安をもたらす。“黙せよ。しかして我は神なるを知れ“
☆ 絶対的な意味では、悪はない。善のみが普遍なのであり、悪のための余地はない。
☆ 皆さんは、自分自身を苦しめているのはあなた自身であり、他の何ものでもないと知りなさい。あなたを生かし、殺すのは、あなた自身で他の何ものでもない。
☆ 人が、肉体の束縛からの解脱しようとした時に出合う大なる障害の一つは、その人が肉体の束縛から解脱しようとあまりにも一生懸命に戦うからである。それは肉体を縛っている力を認めていることになるからである。
☆ すべての魂は同じ年令であるが、その発達度合が異なっている。
☆ 我々は長い間、自己の欲するすべてについて、内側を見る代わりに外側を見てきた。そのために、自己の内なる神と神の全創造とを直ちに認めることができないのである。
☆ 古代ヘブライ語では書き言葉の母音の文字がなかった。だからヘブル(空・くう)とヘブリ(私の息・聖なる息・創造の息・神の力を意味する)とでは書き言葉は全く同じ文字(HBL)であった。
☆ 他人を助ける唯一の方法がある。それはその人に自分自身を助ける方法を示すことである。この方法のみが、その人が作り上げた因果則に何かを加えるか、何かを差し引くかすることだからである。
☆ 内に外に喜びを表現せよ。すると、あなたはどこかで喜びを得るだろう。
☆ 人間は、あらゆる物を変える力を持っていると我々は言う。事実である。しかし、人間がそれらを変えると言う自己の力に気付いた時にのみ、それを変え得るのである。
☆ 人間の目的は秩序と不秩序との間の結合であり、その理由の故に、完全なものではあり得ない。
☆ 人間は、無限意識が有限空間に入るために選んだ媒体である。
☆ 肉体は結果であり、原因ではない。それは、結果であるから想念によって支配され、影響される。
☆ 成功を期待する習慣、幸福を信ずる習慣を身につけなさい。成功が成功をもたらし、幸福が幸福をもたらす。
☆ 静穏な心は、恐れることもあり得ず、困ることもあり得ない。それは、雷雨の時の柱時計のように、幸運の時だろうと不運の時だろうと、自分自身の個人的速度で進む。
☆ あなたの内に神を顕しなさい。神を拝むことを止めなさい。そして神は内にあって外に顕すべきものだと知りなさい。
☆ 柔らかい布団・枕に身を横たえて、日中の強い働きと気苦労から休みなさい。
☆ 実際に眠っている間に、毎晩あなたの意識は四次元界に行っているのである。
☆ 多くの学徒が光と接しているが、光と協調していないのである。
☆ 人々は「信」について自分自身を騙している。
☆ あらゆるものからあなたの意識を自由にするには、あなた自身の意識を純粋にしなければならない。
☆ 恐怖・悩み・後悔の内の一つの状況でも長く根付くと、意識の土壌に根をはる。そして、それらを追い出すには強い意志が必要となる。
☆ 全てのマントラは、有声で唱える前に無声で唱えるのが法則である。
☆ 外界には三つの障壁(障碍)がある。
人格性に束縛されることが、第一の障壁であることを知ろう。
固定化された真理構成の想念は、非常に大なる第二の障壁となる。
第三の障壁は、弟子がグル(教師)を批判することである。
☆ 人間は想像力という機能を持っているし、霊感という機能を持っている。
☆ 我々の肉体にあらわれる状況の大部分は我々の心的態度の結果である。
☆ 相違性があらわれるところには、統一性(単一性)という原因がある。
☆ 各人の運命・使命に対する判断は、感覚的だから間違いやすい。
☆ 我々が、目標に近づけば近づくほど善悪の戦いが強くなるものである。
☆ 多くの人々は恐怖によって悩まされている。そんな人々には、恐れるべきものはなにもないのだと教えればよい。
☆ 人間の求めているすべてのものは、その人自身の意識の内に見い出される。
☆ 人が「わが魂」と言う時は“聖なる霊胚種”について言っているのである。
☆ 人間は、自分の人生の全てのことを「受けるか斥けるか」の自由をもつ。
☆ 人生は複雑なものであり、人生の勉学を通して、人はしばしば神秘的方法への道を見いだすことがある。
☆ 人々が光の道を歩いていれば、自分もそれに近い道を歩くことができる。
☆ 我々は時々、なぜ非常に多くの魂が光をさえぎられているのかといぶかしく思う。
☆ 人は過去も未来もなく、永遠の今のみがあるということを悟っていないのである。
☆ 非常に多くの人々は、自分自身を支配する前に世界を支配したいと思っている。
☆ あなたが自我の意識に沈浸している限り、あなたは真我から離れているのです。
☆ 個人の世界というものは、その人の住む人間的宇宙である。
☆ 神の無限の力は人間の中にあり、その人を推進させ続けている。
☆ 人間には、二つの大なる探究がある。
☆ 人間はパンのみにて生きるに非ず。主の口から出るあらゆることばによって人は生きている。
☆ 霊的な働き人としての我々の働きは、我々の魂を肉体の束縛から解脱させることである。
☆ 我々の想念形態は、我々のすべての習慣に最大の影響として存するのである。
☆ 腹を少し引いて、首と頭とをまっすぐにしよう。
☆ 神は二つの極性をもったものだということが、神の内でおこることによって分かる。
☆ あなたは、学びはじめてから、今までの自分の進歩について考えてみることもよいことである。
☆ 我々が「霊」と「魂」という語を定義すれば、神における自己の位置と人間との関係をよりよく理解できるだろう。
☆ 偉大なる神秘学の諸原理の一つは、松果腺を揺れ動かすということである。
☆ オーストリアの原住民の人間の創造も泥から創ったとなっている。
☆ 死は、ほとんどの人々にとって大なる神秘である。
☆ 我々の使命は、一部の者には明確であるが、多くの者にとっては不明確である。
☆ 一部の人々は、もっぱら過去にのみ生きている。別の人々は未来にのみ生きている。
☆ 神との一体性をもたらすには、心が清くなければならない。神の如くにならなければならない。
☆ 心を清め、浄化することは、時には苦しいこともある。
☆ 神は我々が頼む前に、我々の必要なものを知っておられる。
☆ 聖の法則は、喜びの不変の状である。
☆ 人生の支配には強さが必要である。
☆ 毎日のあなたの働きは、天が既にあなたに顕現しているように生きることである。すると天はあなたにあらわれる。
☆ あなた方が私の肉を食い、私の血を飲まない限り、あなた方は決して天の国には入れない。
☆ 世界には、似たような創造の物語が残っている。
☆ 肉体死後の魂の存続の教義について考慮してみよう。
☆ 我々に知られている人々の中で最も不思議な人の一人は、メルキゼデクである。
☆ 我々が霊的に高くなろうと努める時、大衆は霊的に努めている者達を自分達の低いレベルにまで下げようとするものである。
☆ イエスは「わたしは、世の光である」と言われた。
☆ 教会では「イエスは、私達のために死んだ。私達のために血を流した。」と教える。
☆ イエスの肉体的な死が犠牲ではなく、イエスが物質的に生きたことが真の犠牲である。
☆ 人間が人生の道を行く時、調和と均衡の道、中道を歩かねばならない。
☆ すべては、今。すべては、永遠の今である。永遠の今に、すべてが存在する。
☆ 我々が何かを達成できるのは、立ち上がって、それを実行した時のみである。
☆ 人間のもつ唯一の神は人間自身が、自分自身の心像に造り出したものだ。
ハーバード・スペンサー
☆ 人生の苦しい義務を しぶしぶ受けると言った心の鎖を打ち切るには、勇気と無恐怖が必要だと言うことがなぜ分らないのか。
☆ 神の働きをなさない人々は、自分の神への信仰が自分を救うと思っている。
☆ 子供の魂も老人の魂も、魂としての年齢は同一である。
☆ 今まで、我々はエゴ(自我、その魂)は物質肉体から離れた何かであると思っていた。
☆ 心的治療や力は、一つの心から他の心へと想念形態、感じとして発せられる。
☆ 十字架は、人類が今まで認めてきた真理の象徴の中でも最も普遍的なものである。
☆ もし、神が理性的なものでなかったら、この宇宙には調和も秩序もなかったであろう。
☆ 我々の一人一人は、お互いにそれぞれの部分を果たしている。
☆ 人は、人生と人生のあらゆる状況とに恐れをいだくことなしに、対処せねばならない。
☆ 人間が、霊的と物的との双方の存在であることは自明のことである。
☆ 聖なる不滅の生命は、霊たる生命である。
☆ 我々が意志という語を使う時、意志そのものはエネルギーだということを理解しよう。
☆ 多くの人々は、あらゆる成功、失敗は、一つだけの人生によって決まると思っている。
☆ 私ドリールの目的は、人々に説教することとではない。私は、底から非常に高いところにと昇ろうとする人々の持たなければならない態度について指導することが自分の義務である。
☆ 実際に道に乗り出した者は、ものごとから逃れることができないことを知る。
☆ 汝自身を知ったら、汝自身の主人公となり、すべてのことをなすことができるだろう。
☆ 我々のまわりのものは、愛すべきものであるが、所有すべきものでは無いと言うことを悟らねばならない。
☆ 神は運動である。神はすべての動く点である。
☆ はじめに理性があった。理性は神とともにあった。理性は神であった。
これは、神の始まりについても同様であった。すべてのものは理性によって創られた。理性なしには何ものも創られなかった。理性に生命があった。生命は人の光であった。
光(理性)は暗黒(物質肉体)に輝いた。暗黒は、それを理解できなかった。
☆ もし、エーテルが母ならば、霊太陽は創造の父である。
☆ 剣を取るものは、剣によって滅ぶ
☆ ヨーガは、人間が自分自身を存在の粗雑性から上昇させて宇宙の高級諸力と接するための永遠の訓練法である。
☆ 神も人も、お互いに独立的に成長しつつある。
☆ 善の意識を持っている者には、持てるもの以上のものが与えられよう。善の意識を持たない者には、その持てるものも取上げられるだろう。
☆ 洗礼は、第二の誕生ではない。多分、洗礼は第二の誕生のシンボルだ。
☆ どのようにして道を歩くのか、どのようにして道を求めるのか。
☆ 粗雑物質は、肉体感覚で見、聞き、感ずるものである。
☆ 想念と心とは、二つの違ったものだ。
☆ 我々は次の様に言われている「汝ら、天にまします父が完全であるように完全であれ」
☆ 東洋の教師達は我々の目標を二語「清明光(クリア・ライト)」で表現している。
☆ 東洋の教師達は、真理を知りたいと欲するなら清明光(クリア・ライト)でみることを学ばねばならないと言う。
☆ あなた方の眼は内を見ることができ、あなたの耳は沈黙の声を聞くことができる。だが、一般の人々にはそれができない。それは、彼らが感情の世界に沈浸していて理解できないからである。
☆ マイトレーヤーが、高級な人々に最初に教えたことは「欲求は、取り除くべきである。その代わりに、満足すべきである」これは、普通のことの様であるがきわめて高度な教えである。あなたが、絶対の一部ならあなたには欲するものはない。
☆ 満足は、物質界の物のようにあらゆる種類の執着に対する解毒剤である。
☆ 人間の持つ唯一の神は、彼自身の心像によって造ったものである。
☆ 神は擬人的な形のものではない。
☆ 始まりと終わりは、今の中にある。
☆ 物的な判断は四つの面(物的、四次元的、心的、霊的)からなすべきである。
☆ あなた方が祈っても得られないのは、あなた自身の楽しみの為に使おうと思う間違った考えから祈るからである。
☆ 重荷を背負う総ての者は我に来たれ、我は直ちに憩いを与えん。
☆ 頭たらんと思う者は、汝らのしもべとなるべし。
☆ 神の中にあなたが生きている。これが、あなたが限界と苦しみとから解き放たれる真理である。
☆ 物は、動いている無である。
☆ 我々が今なすこと、我々が今日生きることが未来を創っている。過去は変えることができないが、明日は変えらる。
☆ 人間は、神とならねばならない。
☆ 人生を支配克服しない者にとっては、人生は不可解で分からないものである。人生が、神の子・人間の生きる場だと分かれば不可思議はなくなるのです。
☆ 人は、信念と共に若く、疑念で老ゆる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。
☆ あなたは神を、像の形や聖の概念によって拝むことができない。神は霊であるから霊で拝まねばならない。だから、人は霊と同じ状に入らねばならない。
☆ 個人の二つの大なる欠点は、間違ったことに対する好奇心と狭量とである。
☆ 私は、自分を縛る特定の教条、信仰を持たない。私は、何処にいようと真理以外のものには属していない。
☆ 神仏を尊み、神仏を頼まず。(宮本武蔵)
☆ 恐怖そのものを除いて、恐るべきものは何もない。このことは絶対の真実である。
☆ 宇宙に存する全てのものは、善だろうと悪だろうと神なのである。我々が悪とかネガテブとか呼ぶものは、全体の調和を外れた神の一部にすぎない。我々が人生を調和状に生きる目的は、我々自身の意識に秩序と調和の完全顕現をもたらす為である。
☆ あなた自身に真実であれ。あなたが正しいと信ずることをなしなさい。他人の意見に煩わされてはいけない。
☆ 人は、法律によって道徳を作ることはできない。だから、いかなる宗教も政治より偉大である。
☆ 真理は、その人が真理を理解する能力に応じて各人に顕れる。
☆ 人間は、善の力、悪の力のどちらでも呼ぶ力をもっている。
☆ 「あなた方は、神々であると書いてあるではないか」とイエスが言われた。無恐怖が我々の人生の主因でなければならない。
☆ イエスが「私の神は霊であるから、霊と真理とで拝みなさい」と言われたのは、人は自分の中に聖真理(神)を顕現さす事によってのみ神を礼拝できると言う意味である。
☆ 仏陀は、与えるものは何もなく、全ては与えられるものだと悟った。
☆ 霊的知識のみが不幸をなくする道であり、無知は悪と不幸の母である。多くの人々が真の知識を持てば、この世に貧困も戦争も、何らのネガティブもなくなる。
☆ 我々の成功失敗は、自身の外で起こる事よりも、自身の内で起こる事によって多く決定される。
☆ 我々は、自分自身の運命の創造者である。
☆ 知って行わざるは、知らざるに同じ。 (貝原益軒)